夢を守りしもの 前編
「ほんとにあの子が今回の標的なのか?」
 颯(そう)は、一四、五歳に見える一人の少女を遠巻きに見つめながら、小さく呟いた。
 その少女は、ぶつかった若い男に怒鳴られて肩を竦めながらも、声は出さずにぺこぺこ
と頭を下げている。
「そうよ」
 綾耶(あや)は、ただ淡々と答えると。パタン、と音を立てて読みかけの本を閉じた。
僅かに波打つ黒髪が、静かに風に揺れる。
 颯が目で追っていた少女よりも、僅かに年下であろう綾耶の、しかしその言葉にはどこ
にも幼さを残さない。
「あんな健気そうな子が、か? そうは見えないけどな」
 怪訝そうに呟く颯に、しかし綾耶は小さく頷く。
「颯も知っているでしょ。………どんな人間の心にも。闇は棲んでいる事を」
 ただ。寂しげな瞳を浮かべて。綾耶は静かに、微笑んだ。

 暗闇の中に、人の背よりも大きな球体がいくつも浮かんでいる。その球体には、それぞ
れ様々な風景が映し出されている。
 その、闇の中を。二人は進んでいた。まるで大海の中を泳ぐように。
「で。彼女の『夢』はどれなんだ?」
 手近にあった球体の一つを覗き込む。その中には楽しそうに笑う若者達の姿が映し出さ
れている。
「標的以外の心に勝手に触れて、それで取り込まれても私は助けないからね」
 綾耶が冷たく言い放つと、慌てて颯は球体に触れかけた手を離す。
 今の二人は『思念』である。この夢海(むかい)の中では、簡単に人の夢の中に吸い込
まれてしまうのだ。
 二人は夢の世界にいる。夢海と呼ばれるこの世界は、全ての人の夢――すなわち心の中
が繋がっているのだ。
 浮かんでいる球体は、一人一人の心なのだ。迂闊に触れれば、その中に取り込まれてし
まう。
 綾耶は目を瞑る。
 その手には、奇妙な模様の描かれた青銅の環を手にしていた。
 環は吹いてもいない風に揺られると、ちりん、と小さく音を奏でた。
「あれ、ね」
 綾耶は沢山の球体の中から、やや奥にある一つの球体を指差す。
 ゆっくりと歩いて、二人はその球体の前に立ち止まった。
「これが、あの子の夢、か?」
 呟く颯の言葉には、驚きが隠せない。
 颯が『あの子の夢』と言った球体に映るのは、限りなく荒れ果てた大地がどこまでも続
いている。それ以外の何も、そこには。なかった。
「あの可愛らしい子が、ね」
 正直、颯には信じられなかった。あの子の心の中が、この荒涼とした大地だなんて。
「ほらっ。ぼうっとしてないで。いくわよ」
 言うが早いか、綾耶は青銅の輪を球体の前に掲げる。ぶぅん、と言う小さな音と共に、
球体に小さな円が浮かんだ。
 その円の中に、そっと手を触れると、すぅ、と音も無く綾耶は球体へと入り込んでいく。
「うぉ。待ってくれっ。俺を置いてくなっっ」
 その後を慌てて颯は追った。
「うおっと」
 声を上げて、颯はそこへ降り立つ。
「何度やっても慣れないな。こいつは」
 身体に強い違和感を感じながら、しかし少しずつ慣れている。
 見まわすと、荒れ果てた大地しかそこには無かった。あの球体に映ったものと、同じ。
 それもそのはずだ。ここは球体――あの子の心の中なのだから。
 すでに綾耶はさっさと一人歩き出している。慌てて颯はその後を追った。
 遠目に小さな椅子が見えた。
 その椅子に座る少女の姿も。
 あの子、の姿だった。今日の昼。街角で見た、物静かな彼女の。
「ボクの前にいるのは、誰?」
 近付く二人に気付いて、彼女はゆっくりと言う。僅かにその表情に浮かんでいるのは。
怯えの色。
「夢守(ゆめもり)よ」
 綾耶は淡々と答える。
「なぁ、考え直さないか?」
 颯は、突然言うと。少女をじっと見つめた。
 ただ、颯の目には、悲しい、色だけが浮かんでいる。
「ボクの。……邪魔をしに来たんだね?」
 しかし少女は、ただ冷たい声で。答えた。
 刹那、つぅ、と風が流れる。気温が一度下がったような気がする。
「ダメだよ。誰にも。ボクの邪魔はさせない」
 少女は不意に立ち上がる。
 風。が流れていた。
 始めは、ゆっくりと。しかし、すぐにそれは、一陣の刃と化した!
「うぉっ」
 慌てて颯は身を翻す。
 ツゥ、と頬から血が流れた。掠めただけであったが、風は確かに颯の頬を切り裂いてい
た。
 まるで、鋭利な刃物で切りつけたかのように。
「闇夢(やむ)の力ね!」
 綾耶は、青銅の輪を取り出すと、小さく呪文を唱え始めた。
「金の環よ。久遠の光よ。その力を、今まさに我に示せ!」
 綾耶の呪文に反応して、青銅の輪が、ふるるるる、と小さな音を発しながら震えだす。
 静かに、その色は錆付いた緑青から銀に、そして銀から金色の環へと姿を変えていく。
「颯。貴方、まさか負けないでしょうね!?」
 綾耶が叫ぶ。
 同時に、颯は口元にはっきりと笑みを浮かべ、その手を胸の前でぎゅっと握り締めた。
「は……。俺の名は、伊達じゃないぜ?」
 言った刹那。颯の前に、奇妙な揺らぎ、が流れた。
「ボクの。邪魔をしないで!!」
 少女の声が、一段と高くなる。
 風、が真空の刃を作り。そして次の瞬間、颯へと襲いかかる。
 幾つもの刃が、颯の身体を切り裂く!
「ごめんね。ボクは、どうしても欲しかったんだよ」
 少女は。静かに呟く。
 あれだけの刃に身体を切り裂かれれば、普通なら生きているはずがなかった。
 普通なら。
「悪いな。俺は、普通じゃないんだ」
 刹那、颯の声が響いた。
 そこには、傷一つない、颯の姿があった。平然と笑みを浮かべながら、ぱたぱたと服の
埃を払っている。
「そんな!? どうして?!」
「あんたが切りつける前に、空気の渦が見えただろ? 真空の刃ってヤツは、空気の層が
あって始めて生じるものなんだよ」
 言って颯は、ゆっくりと笑う。
「だから空気の渦に触れれば、刃も消えて無くなる。
 悪いな。俺もあんたと同じ風使いなんだよ。闇夢、のな」
 颯の言葉に、ぴくん、と少女の身体が震えた。
 少女は胸の前に両手をぎゅっと合わせる。すぅ……と小さな風が巻き起こる。
 その風は、やがて風が少しずつ育ち、再び幾重もの刃が生まれ――はしなかった。
「どうして!?」
「簡単なことさ。俺の方が、あんたよりも風を操る力が、強い。それだけのことだ」
 言った瞬間。少女の足元に空気の渦が生まれる。
 風が少女の足を取った。
 ふわり、と彼女の身体を倒す。
「きゃあっ!」
 小さく声を上げる。
 とても女の子らしい声だった。
「なぁ、あんたはまだ闇夢に呑まれていない。今ならまだ間に合う。俺達と一緒に、戻ろ
う」
 颯は、ただ優しく微笑みかけた。
 ただ。優しく。
 しかし―――
 ザシュ!!
 突如、音が響く!
 颯の肩から血が吹き出していた。
 真紅の鮮血が颯の肩を濡らす。
「颯! ばかっ。なにやってるの!」
 綾耶が叫ぶ。
 風、だった。少女の生み出した風の刃が、颯の肩を切り裂いていた。
「戻る……? あの音の無い世界へ? いやだよ。ボクは、もう戻らない」
 少女は、哀しく。笑う。
 小さくその瞳に涙が浮かんでいた。
 ひゅるるる……と、風が音を鳴らす。
 世界が、動き始めていた。
「いけない。夢が混ざり始めている……」
 綾耶は思わず呟いていた。
 綾耶の持つ金環が、キィィィィ、と甲高い音を立て始めている。
 闇夢の力だった。
 人の心の深くにある。力。
 人間は誰しも夢を現実にする力を持っている。多くの人間はその力に気付く事は無いが、
ほんの一握りの成功した人間達は、みな夢を現実にする力を使ってきたのだ。
 強く願う事によって、夢は現実になる。
 だがその時、心に闇を持つならば―――――
 闇が、世界に訪れる。
 今、この少女の願った夢。闇が、現実になろうとしているのだ。
 闇夢と呼ばれるモノの力によって。
「ボクは……もう嫌だよ!!」
 少女が叫ぶ。
 刹那、彼女の身体から、いくつもの球体が浮かび上がる。
「ダメだ! 心を捨ててはいけない」
 颯は、掠れた声で。
 それでも、少女に向けて必死に叫んだ。
 だけど。彼女から、いくもの球体が浮かび上がっていく。
 沢山の、記憶、が。


「こいつ。しゃべれないんだぜ?」
 男の子は、そう言うと。美里をばんっと壁に叩きつけた。
 ズキッ。強い痛みが走る。普通なら、悲鳴を上げていたかもしれない。

 けど、美里の口からは何一つ音が発する事は無かった。
 構音障害。それが美里の病気の名前だった。声を出すための部位に異常がある為、美里
は話したくても喋る事すら出来ないのだ。
「へぇ。馬鹿なんじゃねーの。こいつ」
 もう一人の男の子が、じろじろと美里を眺めていた。
 明らかな、嘲りの目で。
(やめて……!!)
 美里は、強く願う。しかし想いは。
 伝わらなかった。
「お。こいつこんなもの、もってやがるぜ」
 男の子が手にとったは、一冊のスケッチブックだった。びっしりと文字の描かれた。
 大事な。想い出。

「きみ、なまえは?」
 少年は、優しく微笑んで。言う。
『私は佐伯美里だよ』
 真っ白なスケッチブックに、自分の名前を書き連ねる。
「ごめん。よめないや。ぼくには、まだ『かんじ』はむずかしくて」
 照れくさそうに言う少年は、確かにまだ漢字が分かる年齢ではなかった。簡単なものな
らともかくとして。
 美里も少年とほぼ年の頃は同じではあったが、文字でしか会話が出来なかったからか、
漢字を覚えるのは早かった。
 もちろん難しい字はまだ書けないが、自分の名前くらいなら迷う事はない。
『わたしはさえ――』
 ひらがなで、そこまで書きかけて。美里は、ふと鉛筆を止める。そして、ゆっくりと消
して。
『ぼくは「さえき みさと」だよ』
 そう、書き直した。
 少年と同じ、ぼく、という文字に。
「みさとかぁ。ぼくは、『いとう ゆう』だよ。みんなはゆうくんって呼んでる」
『伊藤優?』
 漢字で書いてみせる。名前の方は服に縫い付けてあったので、すぐにわかった。
 しかし、少年は小さく首を振って。
「まんなかの字は、こんな字じゃなかったよ。なんかもっとかんたんなのだった」
『伊東優?』
 書きなおした文字をみて。少年が、ぱぁっと顔を明るく変えた。
「そうそう。その字だよ! けど、きみすごいね! もう『かんじ』もかけるんだ」
 少年の言葉に、美里は顔を真っ赤に染めた。美里は何も言わなかった。いや、言えなかっ
たが。美里の気持ちが通じたのか、ただ少年――優は笑っていた。

『もうあえないの?』
 スケッチブックに書いた美里の言葉に、優はただ悲しげに頷いた。
「しゅじゅつ。するんだって。あしたからここよりもっと大きなびょういんに行くんだ」
 この街で一番大きな病院。美里と優はここでずっと治療を続けていた。しかし、優はよ
り大きな病院に転院していくのだという。
『そっか』
 ただ。そう書いた美里の顔は。
 でも、今にも泣き出しそうな程、哀しくて。
「でも、しゅじゅつがおわったら。またここにもどってくるよ」
 優しく、ぽんと肩に手を置いて。優はただ笑っていた。
 怖いのは優の方だというのに。
 少し恥ずかしくて思わず顔を背けてしまいそうになるけど、それでも言葉には出来ない
想いを。美里は、ただまっすぐに優へと視線に込める。
 小さく優は頷き、そして美里の持っていたスケッチブックをその手から受け取る。
 ペンを使って、拙い言葉を。それでも一生懸命に書き連ねる。
『またあおうね。やくそくだよ』
 優の書いた言葉に、美里は小さく頷く。
『だめだよ。ここにかくんだ。そしたら、ずっとのこるから。ずっとだよ』
『うん』
 ペンを代わりばんこに渡しあって。
 ずっと想い出を作り続けた。
 その日。時間が終わりを告げるまで。

(やめて……!!)
 美里は、強く願う。しかし想いは。
 伝わらなかった。
「お。こいつこんなもの、もってやがるぜ」
 男の子が手にとったは、一冊のスケッチブックだった。びっしりと文字の描かれた。
 大事な。想い出。
 それを。
 彼は、まっぷたつに破って、捨てた。
(……)
 美里は、今ほど声が出ない事を恨んだ事はなかった。この喉から声が出れば、気持ちを
伝えることが出来たのに。
 そうしたら、彼らは想い出を汚さなかったかもしれないのに。
 そう、願う。
 だけど。同時に。
 こんな人達なんて、いなくなればいい。
 そう、願う。
 強く。ただ強く純粋に。
 ただ、それだけが。きっかけだった。
『その願い。叶えよう』
 声が聞こえた。いや。その声は、どこからしたものでもない。
 ただ、心の奥底から。美里だけに伝わった、声。
 瞬間。風が吹いた。
 風は、次第に強く。強く吹き荒れた。
「な、なんだ!?」
 男の子が叫んだ時には、すでに遅く。
 ザシュ!!
 風は。刃と化して。
 男の子の、身体を切り裂いていた。
「う、うわぁっっっっ」
 声と共に血が吹き出す。そう大した傷ではなかったが、突然の事に男の子は叫び声を上
げずにはいられない。
「ば……ばけもんだっ」
 男の子は美里を恐怖の目で見つめ、そして次の瞬間、脱兎のように走り去っていた。
(いまの……ボクが? ボクがしたの!?)
 美里が叫びを上げる。声にはならないけれど。しかし、それに答えるように。心の奥か
ら、声が響いた。
『これはお前が望んだ事。私はお前に力を与えよう。その代わり、私は現実へと生まれる
力を得る。これは取引だ』
 声は、ただ頭の中でのみ響く。
(貴方は……誰なの?)
 声にならない言葉で、訊ねる。
『我が名は。闇夢。人の心の底に棲まうもの。そして現身を持つ事を願うもの』
 その声に。闇音は答えた。
 美里の歪んだ願いを。叶えて。


「ち、そういう訳かよ」
 颯は、強く歯を噛み合わせる。
 ギリリ、と骨が軋む音が響く。
 少女から――美里から現れた球体は、ひとつひとつの記憶。
 それは颯の目にも、はっきりと見える形で生まれては消えた。
 すなわち、それは意識を失っていく事に違いなかった。全ての記憶が無くなったとき。
闇はこの世界に現れる。
 人の歪んだ願いを叶える代償に、闇夢は現実へと現れる体を手に入れる。全ての意識を
失った、人の体を。
 美里が願ったのは。
 誰とも関わらずにいること。誰にも邪魔されずに。――そして邪魔するものがあれば、
排除する力を。
 それは。もうすぐ現実となるのだ。
 力は得た。もう美里を煩わすものはいなかった。
 そして、ただ一人。闇に身を任せる事で。世界から消える。たった一人の世界へ旅立つ
のだから。
 だけど。
 そうする事で、闇夢は体を得る。現身の体を。
 全てを無に還す闇が、現実に生まれるのだ。
「美里。あなたはそれでいいの? 本当に?」
 不意に、綾耶が叫んだ。
「一人ぼっちで、いいの?」
 綾耶の言葉に、しかし美里は答えない。
 少しずつ美里の体が、その色を変えていく。闇がその身を侵し始めているのだ。
「仕方ない。封印、するわ」
 綾耶は、金環をぐっと頭上に上げる。
「金の環よ」
 綾耶の持つ金環は、現実と夢とを繋ぐ法具の一つであり、これを用いる事で綾耶達は夢
の世界へと入り込む事が出来る。
 そしてこの金の環は同時に。その繋がりを一方的に切り取る事も出来る。
 夢の中だけの住人に変える事が。
 そうした時、意識は全て夢の世界だけに留まり現実へと戻る事はない。それによって闇
夢は現実へ出る力を失い、闇夢が現実に現れる事はなくなるのだ。
 闇夢は人の心の奥。闇の中より生まれた存在だ。彼らは、ただ世界を闇の中に戻す為だ
けに生息する。いや、闇そのものなのだ。
 それがもし現実に現れた場合には。
 世界は、全て闇へと還る。
 闇夢は、いつも夢の世界から現実へと現れる瞬間を待っている。
 闇から世界を守る。それが夢守。綾耶が生まれ持って背負った使命だった。未来永劫続
く戦いの。
 そして。今。闇夢から世界を守る為に。
 綾耶は、一つの決断を行った。
 封印する。と。
 つまり、美里と現実との繋がりを切断する、と。
 そうした時、美里は。
 一生を夢の中だけで暮らすことになる。
 現実に残された体は。意識不明のまま、一生、目を覚ます事はない。俗に言う植物人間
だ。
 しかし。それでも。もう綾耶に残された手段は、それしか無かった。
「金の環よ。泡沫の夢と幻よ」
 綾耶は、手にした金環を頭上に掲げ、そして再び呪文を唱え始める。
「まて!!」
 不意に、颯が叫んだ。
「颯!? 無理しちゃだめよ! 貴方、闇夢の力を直接受けたのよ?」
 見ると颯は立ち上がっていた。
 肩から血を流しながら。
 傷そのものは、そんなに深くはない。しかし、闇夢の力で受けた傷は簡単には治る事が
ない。今も肩から零れる血は、止まろうとはしていない。
 この夢の中で起きた怪我は、現実の肉体には殆ど影響しない。稀に痣となって現れたり
する場合もあるが、大抵の場合は夢の世界だけで終わる。
「は……。俺の名は伊達じゃないぜ?」
 呟いて。ぎゅっと拳を握る。
 刹那、流れていた血がピタッと止まった。
 この世界での怪我は現実の肉体には影響しない。しかしその分、精神力が物を言う世界
でもある。
 痛みは感じるし、実際に死ぬ事もある。それは心が死ぬということだ。その時は、夢と
現実の繋がりを解かれたのと同じように、二度と意識の帰らない肉体だけが残される。
 だが心を強く保てば、それだけ強くいられる世界でもある。この世界で受けた傷も、現
実と同じようにすぐ治るという訳にはいかない。しかしそれでも心の持ち様一つで、どう
にでも変わるのだ。
「美里! あんたはそれでいいのかよっ!」
 颯は叫ぶと、きっと美里を睨み付けた。
 美里の反応は、ない。
「このままだと、あんたが望んでる世界が――誰一人いない世界が訪れる」
 静かに、淡々と告げる、声。
 しかし、その声の中には確かに強い意思があった。颯の、強い願いが込められていた。
 美里は、何も答えない。
「でも。誰もいないってことは、あんたに希望をくれた、優ってヤツもいなくなるんだよっ
!!」
 ピクン!
 外からの呼びかけに、始めて美里の体が動いた。
 もうその身体の半分以上は、黒ずんだ闇の色へと変わっている。
「いいのかよ!? それで!」
 颯の言葉に、美里が再び身体を振るわせる。
 そして、始めて美里が。まっすぐに、颯へと視線を向けた。
「ボクは……ぼくは……」
 ただ呟いて、どこか虚空を見据えたままで。それでも瞳を颯へと向けて。
「戻ってこい! 優だって、あんたを待ってる!」
 叫んで。一歩ずつ美里へと歩み寄る。
「ゆう……くん」
 小さく呟く。しかし、その声は掠れて誰にも聞こえない。
「ゆうくんは……もう、いない。もう戻ってこないもの!!」
 美里が叫ぶ!
 次の瞬間。風が! 颯を切りつける!!
 サシュ! 颯の頬から、血が吹き出す!
 今までよりも、ずっと風の刃が生み出される時間が短くなっていた。明らかに闇夢の力
が、美里を飲み込みだしている証拠だった。闇夢の力がより強くなっているのだ。
 それが終わった時。美里の身体は、闇夢のものとなる。永遠に、美里の意識を夢の中に
置いたまま。
「颯! だめ。もう時間がない!!」
 綾耶は、金環を見つめ。ぎゅっとその手を握り締める。
 環の色が、僅かに金から銀へと戻りかけていた。金環の力が失われ欠けている印だった。
 この環が、完全に元の青銅に戻ってしまった時。例え夢守と言えど、闇夢を封印する事
は出来なくなるのだ。
 金環の力は、入り込んだ『夢』の持ち主の意思に比例する。意識の持ち主が、本当に全
ての希望を無くしてしまった時、全てを闇夢に飲み込まれてしまった時。金環は、ただの
青銅の環に戻る。
 そうなれば夢を自由に操る事も、それどころか夢の中に居続ける事も出来なくなる。
 夢守である綾耶は、自由に人の見る夢――心の中に入り込む事が出来る。しかし、それ
も金環の力があってこそだ。入り込んだ意識の持ち主が、力を失った時。綾耶は夢守とし
ての資格を失う。
 夢を、守れなかったのだから。
 そして夢守である綾耶が力を失った時。
 世界は闇夢に包まれる。希望も夢もない世界に。
 しかし。颯は。それでも。綾耶が力を失いかけていても。世界が、滅びかけていても。
 まっすぐにただ美里を見つめて。
 信じた。
「戻って来い。さぁ」
 また一歩、美里へと歩み寄る。
 美里が、風を振るう。
 風は、颯の腕を、足を。あるいは首筋を。
 いくつも薙いでいく。
 その度に血が吹き出した。
 それでも。颯は、ただ手を差し出して。
「あんたの記憶の中には、優が死んだ記憶はなかった。なら、まだ生きている? そうだ
ろ?」
 優しく。呟く。
「だって、だって。もう、何年も。何年も待ったのに――ゆうくんは。戻ってこなかった」
 美里が、小さく呟いた。
 ただ、心の底から。哀しく。哀しく。
 でも。もう美里は、風を向けようとはしなかった。
「もう、約束も。無くなってしまった。約束を記したスケッチブックは……」
 無残に、破られた。
 言葉を飲み込んで。ただ、視線だけを向けた。
 生まれつき声を出す事が出来なかった美里。
 彼女は、どれだけの絶望の中にいたのだろう。だけど。それでもやっと見つけた光に、
どれだけすがりたかっただろう。
 その、光を失ってしまった。それがどれだけの絶望を生んだのだろう。
 颯には分からない。
 闇夢を呼び出す程の。強い強い絶望。
 だけど。颯も、それを感じた事があった。深い深い絶望と怒り。闇夢に囚われそうになっ
た事が。
 だけど。それでも颯は信じた。
「信じろ。信じなきゃ、夢は叶わないんだぜ」
 颯の手が。美里に、触れた。
 美里は、その手を拒まない。
「優は、まだ生きてる。あんたの約束を忘れてはいない。だって、あんたの心の中に。ま
だ残っているだろう約束は」
「うん…………」
 美里は、颯の手を。
 小さく取った。
 その、瞬間だった!!
 美里の中にあった闇夢の力が、一気に颯の中へと入り込んでいく!
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