死告の少女は黄昏に (03)
 次の日は何事も無かったように英司は学校に向かい一日を過ごした。
 太陽が紅く染まる時間。少女と、あるいはそらと出会ったのはこれくらいの時間だった
なとふと思い返していた。
 少女とそらが同一人物なのか、それとも違うのか。それもまだはっきりとはわからなかっ
たが、とにかくあと二日すればはっきりする事だ。
 もしも何も起きなければ、やはりそらのいたずらだったのだろうし、何か起きるとすれ
ば、その時に少しはわかるだろう。
 空をじっと見上げる。真っ赤に染まった色は急速に姿を変えようとしていた。
 ついさっきまで澄んだ水色と白だったのに、いまは紅く、そして黒へと移り変わり、そ
してまた蒼と白へと戻っていく。
 もう日が暮れる。
 そしてまた一日が過ぎていた。


 夕暮れ。黄昏時。
 逢魔ヶ時というが、少女と出会ったのもこんな時間だったなと英司は思う。
 あれから六日が過ぎて、残る時間も少なくなっていたが、英司はもう慌てる事も焦る事
も無かった。
 いや正直に言えば、全く気にならないというのは嘘になるだろう。しかし以前のように
訳もない焦燥感に囚われることは無くなっていた。
 あと一日。それは死ぬまでなのか、それともそらのいたずらだと判明するまでか、それ
は分からなかったけども、あの日から一週間という時間は過ぎて終わる。
 トントン。その時不意に玄関のドアをノックする音が響いた。
 心臓が揺れる。強く鼓動を初めていた。あの時と同じように叩かれたドアの音が頭の中
を陰らせていく。
 まだ一日、あるはずだ。ベルを鳴らさずドアを叩く人も他にもいる。
 トトトトン。再びドアが叩かれていた。
 出るか出まいか、一瞬迷う。しかしまだ一日の余裕があり居留守を使うほどでもないは
ずだった。
「へいへいっ、いますっ。いますって」
 大きな声で返事をして英司は玄関へと向かう。そして、ガチャと音を立ててドアを開く。
 そこにたっていたのは郵便局員でも新聞の集金でも、あるいは包帯に包まれた黒ショー
ルの少女の姿でもなかった。
 風に髪が揺れていた。白いスカートが夕日を吸い込んで、紅く紅く染まっている。
 優しげな、そしてどこか切なげな瞳を浮かべて、そらはじっと英司を見つめていた。
 不意に時間が止まったような気すらしていた。しかしそれは時間にすればほんのわずか
の瞬間だったのだろう、そらはすぐに言葉を紡いでいた。
「はやく、はやくいきましょう」
 手を差し出して、妙に焦った声で告げると、きょろきょろと辺りを気にしては、英司へ
と向き直っていた。
「行くって、どこにだよ」
 英字は思わず聞き返すが、そらは何も答えはしない。いやそれどころか有無を言わさず
に英司の手をとって告げていた。
「はやく。もう約束の時間になりました。はやくしないと彼女が来てしまう」
 そらはそのまま英司の手を引いて走り出す。英司は突然の事に、思わずスニーカーを潰
すように履いて一緒に駆け出していた。
「いけない、もう来てる。いそがなきゃ」
 そらは後ろに振り返って、やや荒げた声で呟く。
 その様子に英司も首だけで背中へと視線を向ける。
 遠目に彼女は見えた。黒いショールをまとって頭に包帯を巻いた少女が。いまはあの時
みた左腕に右の足首、左のふくらはぎに加えて右の手首と首筋をも真っ白い包帯が包んで
いた。
 傷だらけの少女は確かにそこにいる。そしてゆっくりとこちらへと足を向けている。
「まだ一日あるはずだろ!?」
 思わず声に出して叫ぶと、そらへと向き直った。そらはどこか焦りすらある声で、走り
ながら答える。
「あの日を一日目として一週間。だから今日は七日目ですよ。貴方は今日死ぬんです」
 そらは何度も振り返りながら、それでも足を止めようとはしなかった。少女にしてはか
なりの速さで走るそらに、英司の足ですら遅れそうになる。その度に「はやくっ」とそら
は英司を急かしていた。
 もうすぐそこに来ている。黒ショールの少女もいつのまにか駆け出していた。一生懸命
に走っているのだが、距離はなかなか離れようとはしない。
 このまま追いつかれたら死ぬのか。あの子に殺されるのか。英司の背がぞくと震えて、
そのまま止まる事は無かった。肌が逆立って夏だというのに寒気すら感じていた。
 現実。これは現実なんだ。心のどこかで英司もやはりそらのいたずらじゃないかと言う
考えもあった。しかしいまこうして手をひくそらと、背から追う包帯の少女とが現れると
もう疑う余地はなかった。
 死ぬのだ。このままだと自分は死んでしまうのだ。くそっ、殺されてたまるものか。英
司は声には出さずに呟く。
「いけない、このままじゃ追いつかれちゃう。はやくいかなくちゃ。いきましょう、捕まっ
たら手遅れになっちゃいます」
 そらは女の子とは思えない力で手を強く引いてくる。英司は無言のままで、そらが走る
方向へと一緒に向かった。いまの英司には他に選択肢など一つも無かったから。
 ただ走り続けていた。どれくらい駆けていたかは、もう覚えていない。ずいぶんと長い
時間、逃げ回っているような気がしていたが、実際には十分も経過していなかった。
 それでもふと気がつくと背中には黒ショールの少女の姿はもう見えなかった。
「振り切ったか……」
 英司はほっと一息ついて立ち止まる。さすがに全力に近い速度で走っていただけに息も
切れようというものだ。
「駄目です。立ち止まったら、追いつかれます。はやく、はやく行きましょう。あと少し
なんです。だから、はやく。ね、一緒にいきましょう」
 しかしそらはまくし立てるように言い放つと、つないだままの手をぎゅっと引き寄せる。
 一瞬、どきりと胸が弾んだ。成り行きとは言え、いつのまにか可愛らしい少女と手を取
り合っていたことに気がついて、英司は微かに顔を赤らめた。
 さっきまでは全く気にならなかった。いやあるいは普段であれば、手をつないだくらい
の事で、ここまで心が揺れたりもしなかったかもしれない。
 ただ今はまるで運命の共同体のように一緒に走り続けて、それが類い希なる美少女だと
いうのだから多少動悸を強めても仕方の無い事だ。
 しかしまだどこか寒気が残っているのか、あまりそらのぬくもりは感じ取れないでいた。
恐らくはまだ目の前の少女よりも、見えないでいる背中の少女の方が強く気になっている
からなのだろうが。
「わかったよ。俺もまだ死にたくねーしな」
 英司は頷くと、そらへと視線を合わせる。
 そらは微かに笑みを浮かべると、再び手を取っていた。
「ええ、いきましょう」
 軽やかな口調で呟くと、ふわと再び笑顔を浮かべた。しかしその微笑がどこかそらには
似つかわしくないように感じて、英司は眉を寄せる。
 同じ顔の見えない包帯の少女と重ね合わせているのかもしれない。英司の背がぞっと震
える。
 まだ死にたくない。まだ死ねない。それなのに刻々と迫ってきている恐怖は確かに英司
を蝕もうとしていた。少しずつ少しずつ英司は侵されていく。
 怖い、と言う感情を知らないわけではない。しかしそれはテレビや映画、本などによっ
て擬似的に感じるか、あるいは車にひかれそうになるといった一瞬のものが殆どだ。実際
に死を近しいものとして感じている訳ではない。
 だけどいま英司は本当にすぐそこまで来ているものとして喪失を感じ取らずにはいられ
なかった。
 もしも永遠なんてものがあるなら、それはこの世界から存在が消えて無くなった時だけ
だろう。
 そうだ、いま後ろから迫ってきているものは永遠の喪失なんだ。英司は心の中で呟く。
 自分というものを失いたくない。俺はまだなにもしていないのに。俺はまだ何も知らな
い。
 頭を巡るのは、ただ恐れだけで自分がいま何をしているのかもわかってはいなかった。
 消えろ。消えてなくなれよ。みんな消えてしまえ。英司は近づいてくる何もかもが、疎
ましく感じて心の中で強く叫んだ。
 ただそらは笑っていた。にこやかに嬉しそうに。しかし次の瞬間、露骨に顔を歪めて手
をひいて走り出していた。
「っ! まだ消えない」
 そらの声に英司は振り返る。そこにはある包帯に包まれた黒ショールの少女が迫ってき
ていた。
 しかしさすが疲れが見えたのか、その歩みはどこかたどたどしくて、傷だらけのように
見える彼女はどこか痛々しい。
 いや、彼女は俺に死を連れてこようとしているのだ。見かけに騙されてはいけない。そ
もそも見かけというのなら、黒いショールに包帯はそれこそ死の象徴のようではないか。
「いきましょう。ほら、はやく」
 そらは手を引いて走り出す。英司もつられるように駆け出していた。
 そんな事を何度も繰り替えているような錯覚。いや、実際にもう何度か走り出している
のだが、そんな短い事ではなくて、もうずっと永遠に繰り返しているかのような感覚に囚
われていた。
 しかし時間は確かに黒く過ぎ去っていく。もうそらからは青空は消え、夕暮れの誰彼も
終わり、見えるのは夜空だけ。
 暗闇の中、それでも走り続けていた。いつのまにか黒ショールの少女は完全に姿が見え
なくなっていた。
 それでも。それでも走り続けていた。繰り返し繰り返し、終わりがいつにあるのかわか
らずに、もう全身から汗と疲労がにじみでているというのに、だけどそらは止まろうとは
しなかった。
 はぁ、はぁ、と荒い息だけがこぼれる。なのにそらはその細くて小さな身体にどれだけ
の体力があるのか、汗もかかずに平然とした顔で微笑んでいた。
 いや、違う。浮かんでいたのは微かな笑みなどではなくて、はっきりと見える歓喜。何
か求めていたものを得たかのような彩りをその表情に覗かせている。
「そら、もういいだろ。俺はもう駄目だ。少し休ませてくれ」
 英司は全身から疲れを滲ませて、息も絶え絶えに呟いていた。
 しかしそらはそのままで、くすくすっとこぼれるような笑みを漏らしていた。
「駄目ですよ。まだ永遠は訪れていないから。ほら、はやくいきましょう」
 そらの笑顔に、ぞく、と背が揺れた。
 そうだ。恐怖から何か見間違えたかのように感じていたが、それは恐れから逃れようと
していたゆえの思い込みだった。
 英司はもうすでに感じていたのに、気付かないようにしていた。
 目の前の少女が、どこか冷たい空気をまとっていた事を。
「永遠なんて、どこにもないだろ」
 なぜか英司はそう答えていた。
「いいえ、ありますよ。永遠に終わらない世界に連れていってあげますから。
 もう何も失う事もない、何も感じる事もない、何も得る事もない、全てが何もない。永
遠の喪失の世界へ。
 だって。だって、貴方は頷いたでしょう」
 そらは、その目をすぅと細めて。握っていた手をもういちど強くつなぐ。
 つないだ手からは、温もりは感じられない。
 冷たい、つなぎ止められた鎖のように。
 英司は手を離そうとして、強くふりほどく。しかしそらは思いも寄らない力で、手を離
そうとしない。それどころか自らのほうに力尽くで引き寄せていた。
 英司はたたらを踏んで、足を崩して片膝をついていた。斜め上にそらの顔が見える。そ
の笑顔は悦びに震えているのに、冷たくて痛くて現実を感じさせない。
「なん、なんだよ……」
 英司は絞り出すように言葉を紡ぐ。しかし言いたい事の殆どが台詞にならなくて、ただ
そう呟くだけが精一杯だった。
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