高天原より夢の続きに? (20)
 その瞬間、ぶわっと維依の全身を何かが包み込んでいた。ぞくぞくと身体が震えると、
目の前が暗闇へと化していく。
 そして光が差し込んでいたかと思うと、再び目の前には見知らぬ光景が広がっていた。
 維依は慌てて辺りを見回してみる。
「あの、静香さん、会わせたい人って誰なんですか」
 十歳くらいの少年がそう呟いた声が聞こえた。精悍な顔つきは、確かに見覚えがある。
 え、と維依は声に出しかけて、それからすぐに首を振るう。やっと再び記憶の世界に入っ
てしまったのだと気がついていた。
 以前にも見た事のある屋敷の中。いや、作りは同じなのだが、それにしては少々小さい。
同じ里の中にある別の建物なのだろう。
 それならこの少年は八握に違いない。そしてその目の前にいる女性が自身の母だという
事も理解していた。
「いま連れてくるわね。ここでちょっと待っててくれる?」
 静香は呟いて隣の部屋へと移る。それからすぐに再びこの部屋へと現れていた。
 静香の足の裏に隠れるようにして、ぎゅっとしがみついている少女の姿も。
 六、七歳くらいだろうか。
 え、あの子ってもしかして。維依は言葉にはせずに呟く。もっとも出そうとしても、こ
こは過去の世界だ。実際に音になる事はないのだが。
「紹介するわね。この子が私の娘、維依よ。ほら、維依ちゃん。お兄ちゃんにご挨拶して」
「こん……にちわ」
 記憶の中の維依は、まだ静香の陰から現れようとはしなかったが、それでも恥ずかしそ
うに小さくぺこりと頭を下げた。
 やっぱり、あの子は私なんだ。維依は心の内で強く胸を鼓動させながら、様子を見守っ
ていた。
「……こんにちわ」
 八握はどこか呆然とした声で答えると、それから再び静香へと視線を移す。
「この子、玉依ですね。隠してもわかります」
「あら、さすがは未来の十種の神宝候補だけはあるわね」
 静香は感心した様子で告げると、にこやかな笑みを崩さない。
 しかし八握はむしろ警戒を強めたような表情を浮かべて眉を寄せていた。
「なら俺達はお払い箱ですか。他に玉依がいるなら、俺達を生かしておく理由もない」
 八握は鋭い声で訊ねると、どこか身構えるように身をこわばらせた。
 だが静香は八握の声に、あははと大きく笑みを浮かべる。
「やだ、八握くん。そんなこと思っていたの。貴方達はもう私達神薙の一族なんだから、
そんなことある訳ない。もしあっても私が許さないわ。そうじゃないの、むしろ逆よ」
「……逆?」
 理解出来ないといった様子で八握は静香と、そして幼い維依を見つめていた。
「ええ、私はこの子を玉依にしたくない。だから里には隠し通そうと思っているの。玉依
は、辛いもの。私は出来る事ならこの子に苦労して欲しくない。だから里からもずっと離
れていた。この子を産んでから、この里に戻ってくるのはこれが初めてだものね」
「……ならなぜ俺にそんな事を。俺が誰かに話したらどうします」
「そう、ね。そしたら諦める。八神くんがそうしたいなら、仕方ないもの。正直、ずるい
なと思っているの。雪菜ちゃんには玉依の業を背負わせておいて、自分の子にはさせない。
酷い話よね」
「そうですね」
 八握はぼそりと呟くと、しかし先程までよりもずっと柔らかい顔に変わっていた。
「でも誰にも話しません。静香さんがこうして話してくれたのは、俺を信頼してくれたか
らですよね。確かにひどい話かもしれない。
 でも、俺と雪菜は静香さんのおかげで生きてこられた。そして今もこうして正直に話し
てくれている。別にいわなきゃわからない話なのに」
 八握は一気に言い放つと、それから幼い維依へとちらりと視線を送る。
 維依はぎゅっと静香の裾を掴んで、微かに隠れていた。
「俺も本当なら雪菜には玉依になんてなって欲しくない。あいつは何としてでも玉依にな
ろうとしているけれど、ここから逃げ出して雪菜と二人で隠れて暮らそうとか、いつも考
えていますよ」
 八握は静香に向けて、ゆっくりとしかしどこか寂しさも含んだ笑みを向かわせていた。
「だけどあいつは自分の生まれを恥じようとはしていない。それを証明する為にも玉依姫
なんていう大役を務め上げようとしてる。里の奴らから貶されたり、憎まれたりしながら
も、雪菜は今まで完璧に務めてきた。そんなあいつの辛さは、俺には良くわかる。だから」
 八握はじっと静香を見つめ、そして言い放っていた。
「だから、あいつだけで十分です。無理に辛い目に会う必要はありません。雪菜もそう望
んでいるはずで」
 八握の台詞に、維依は胸がきゅっと締め付けられる。
 八握と出会ったのは、あの時が初めてではなかった。維依はてっきりそうだとばかり思
いこんでいたが、それは維依が覚えていないだけだったのだ。
「……八握くん、ごめんね。ありがと」
 聞こえていた静香の声は少しずつ遠くなっていく。
 同時に胸の奥から身体が震えていた。ぞわっという違和感が全身を包み込む。
 目の前が真っ暗に変わり、そして再び光景が映り分かっていた。
「おにいちゃん、ごほんよんで」
 小さな維依が絵本を手にとって、目の前の八握へと期待に満ちた瞳で見つめていた。
 え、と思わず維依は呟く。
 場所はさきほどの館の中のようだった。しかしいつの間にか、小さな維依は八握にすっ
かり懐いているようで、さきほどまでの怯えようが嘘のように思えた。
 そういえば、私知らない人には警戒心強い割に、一緒にいたらすぐ慣れる方だったっけ、
と維依は思い返す。
 今は昔ほど人見知りは激しくないものの、それでもそういった傾向は残っている。八握
と初めて出会った、いや再会した時もそうだったかなと不意に脳裏に浮かべていた。
「わかった。えっと、しらゆきひめ」
 八握は文句の一つも言わずに維依につきあって本を読み始める。小さな維依はきゃきゃっ
と幸せそうにはしゃいでいた。
「……こうして白雪姫は王子様といつまでも幸せに暮らしました」
「おうじさまと。いいなぁ、いよりもおうじさまとけっこんしたい」
「そのうちに君だけの王子様が現れるよ」
「そのうち……あ、そうだ! じゃあおにいちゃんがおうじさまになって」
 いいことを思いついたとばかりに小さな維依はじっと八握を見つめていた。
 八握は思ってもいない一言に思わず声を漏らす。
「え?」
「だめ?」
「いや、だめって訳じゃあないけど」
 一心に見つめる小さな維依に、八握はどこか困ったように側にいた静香へと目線を送る。
 静香はくすくすっと笑みを浮かべながら、ゆっくりと呟いていた。
「なら二人は許嫁ね」
「おかあさん、いいなづけってなぁに? おつけもの?」
「維依ちゃん、違いますよ。二人が大人になったら結婚しましょうねっていう約束の印の
ことですよ」
「そうなんだ。いいなずけー。おにいちゃんと私はいいなずけ」
「ちょ、ちょっと静香さん。何を」
 八握は慌てて静香を止めようとして声を上げる。しかしすぐに小さな維依が眉を寄せて
悲しげな顔で八握を見つめていた。
「おにいちゃん、いやなの? いいなずけ、いやなの?」
「そ、そうじゃないけど」
「なら、おにいちゃんといよりはいいなずけ。きまりね!」
 小さな維依は満面の笑顔を浮かべて八握の手をぎゅっと握る。
「……わかった。俺と君は許嫁だね。なら俺は君の事を全力で守る。絶対に、何があって
も守ってみせるよ」
「うんっ、まもってまもって」
 八握の声に小さな維依が、再び嬉しそうに笑っていた。
「八握くん、子供の言う事なんだから、そんなに真剣に答える事はないのよ」
「いえ、約束しましたから。それに俺だって、まだ子供ですよ」
 くすくすと笑みをこぼしている静香に、しかし八握も微笑みながら答えていた。
「子供だからかもしれないけれど、彼女は静香さん以外で初めて俺を無心に認めてくれま
した。だから、俺も答えたいんです。静香さんがダメだと言わなければ、俺は、彼女を、
守りたい」
 八握はこれ以上ないほどに本気の声で静香へと告げていた。しかしその表情に浮かんだ
笑顔は隠しきれないでいる。
 八握が望んでいた事。今の維依には何となくわかる。それは恐らくたった一つだけだっ
たのだろう。
 誰かに認められたいという願い。八十神の子ではなく、ごく普通の人として。ただそれ
だけのささやかな願い。
 維依は胸の中が急速に暖かくなるのを感じていた。ぎゅっと心の中で握りしめた手を胸
の前に当てる。
 約束。
 維依自身も忘れきっていた約束。
 八握が思っていたのは、ただそれだけの事だったのだと、初めて維依は理解していた。
 言わないでいた想い。普段はあれだけ憎まれ口を叩く八握の、心の中に秘めていた維依
との記憶。
 初めてつながった糸。維依の意識は次第に熱くすらなりつつある。
 たぶんこの時限り、維依は八握とは出会っていない。幼い頃のたった一度きりの出会い
ゆえに維依は覚えてはいなかった。
 それでも、もしかしたらこの時の八握の台詞が維依の心の中に強く強く残っていたのか
もしれなかった。
 維依は危機迫った時に、思わず何度か助けを呼ぼうとして叫んだ事がある。
 お父さん、お母さん。お兄ちゃん、と。
 維依には兄はいない。お兄ちゃんと呼ぶような親戚や知人もいない。
 だとすれば、それはこの時の記憶が深層意識に残っていたのかもしれない。思わず叫ん
でしまうほどに、自身の中に大切な想い出として記憶していたに違いない。
 ぎゅっと右手を胸の前で握りしめる。
 そして八握の心へと語りかけていた。
 戻ってきて。八握さん、戻ってきて欲しい。守ってくれなくてもいい。ううん、違うね。
 戻ってきて。そして、この時の約束を守って欲しい。まだ約束は果たされていないから。
八握さん。戻ってきて。そして私を守って欲しい。
 私は信じているから――
 維依の心が、溶け出していた。
Back Next
良かったら読んだ感想を下さい!
タイトル
お名前 (必須)
メール

★このお話は面白かったですか?
すごく面白かった  面白かった  まぁまぁ面白かった  普通
いまいち  つまんない 
★好きな台詞があれば


★印象に残ったシーンがあれば


★その他、感想をご自由にどうぞ!