高天原より夢の続きに? (19)
「がぁ!?」
 八握の足に数匹の百足が噛みついていく。
 八握はそれでも杖を振るう。同時に百足の身体が無惨に飛び散っていた。まるで火花を
散らすかのように、何匹、何十匹もの百足がその身を跳ね飛ばす。
 だが百足達は止まらない。
 そして八握全てを包み込んでいた。
「がっ!?」
 八握の声が聞こえたのは、一瞬の出来事だった。何を思う間も無く、八握の姿は完全に
百足に包み込まれていた。まるで百足達を重ねて作った模型か何かのように。
「やめて、やめてっ、やめてっ。お願い、八握さんを離して。もういやだ、いやだぁっ」
 維依は涙をぼろぼろとこぼしながら稲垣へと訴えていた。
 八握はぴくりとも動かない。このままでは八握は百足に殺されてしまう。そんな事は絶
対に起きて欲しくはない。
「若宮。安心していい、これくらいでは八握も死にはしないさ。ただあの子達には麻痺毒
があるからね。もう八握は満足に動けまい」
 稲垣が告げると同時に百足は八握から、さぁっと離れていく。
 八握は一人、そこにたたずんでいた。無数の噛み痕を残し、体中から血をこぼして。
 声を残す事もなく、八握は足下から崩れていく。
「……かはっ」
 吐き出した血が、コンクリートの屋上を朱一色に染めていく。
「八握さんっ」
「……気に……するな。まだ……死んじゃ、ねぇ」
 八握はもう声を出す事すら辛いのか、身動き一つする事もなく、ただ絞り出すように声
を漏らしていた。
「ほぅ。まだ喋れるか。これはさすが、と言うべきだね。でも、ここでもう一押しすれば、
どうかな?」
 稲垣が手を挙げると、その瞬間、ざわざわっと不思議な音が走る。百足が再び集まろう
としているのだろうか。
「お願いっ、やめて!」
 維依は張り裂けんばかりに絶叫していた。
 もうぐちゃぐちゃに崩れた顔で、維依は稲垣へと懇願する。それ以上には維依に出来る
事は残されていなかった。
「若宮。君がそういうのなら、八握に手を出すのはよそう。それにまだ先程の答えを聞い
ていなかったからね。さぁ、選んでくれ」
 稲垣は維依へと手の平を差し出していた。
「あくまでも私に抗うか。それとも、私を受け入れるか」
 稲垣の台詞と共に、ふと維依を捕らえていた人形が消えて無くなる。
 突然掴んでいたものがなくなったショックで、維依は一度その場にへたりこんで、稲垣
を見上げていた。
 維依の身体は震えている。無理もない事だ。維依が選ばなくてはいけない道は、ごく普
通の少女にとっては身もよだつ決断。
 喉が渇く。苦しい。言葉が出ない。涙すらもう忘れてしまったほどに、胸が痛い。
 それでも維依の答えはもう決まっていた。
 維依にとって大切な事は、一つだけ。
 一度だけ強くまぶたを閉じて、ぎゅっと左手を胸の前で握りしめる。
 そしてすぐにまっすぐに稲垣へと挑むように見つめていた。
「約束……してください。私が稲垣先生に力を渡したら、八握さんや瑞紀さん、それから
他の誰にも手を出さないって」
「ああ、約束しよう。君の命も保証する」
 稲垣は呟いて維依へともういちど手を差し出した。
「絶対に、ですよ。もしも約束を破るなら、私は絶対に先生を許しませんから。絶対に」
「私は約束は守る。神の名にかけて誓おう」
「なら――」
 維依はゆっくりと稲垣へと手を伸ばす。
「よせっ……やめ……ろっ」
 八握の声が遠くから聞こえていた。
 しかし維依はその声に敢えて耳を塞ぐ。
 八握さん、ごめんなさい。でも私はこうする他に出来ない。私がほんの少し我慢すれば
済むから。もう、これ以上、誰にも傷ついて欲しくない。誰にも。
 維依は心の中で呟きながら、そして稲垣の手をとっていた。
 稲垣は微かに微笑んで、維依を迎え入れる。
「……いよ……り……」
 維依はもう一度だけ目を強く瞑って、そして開く。八握の声はもう聞こえない。
 稲垣が維依の首筋に軽く手をあてる。
 身が震えるのは堪えきれなかった。
 胸が、ずきずきと痛みを鳴らしていた。
 維依も稲垣が望んでいる行為が、どんなものなのかは知っている。
 静香が言っていた「知らないうちに玉依の資格を失う事を望んでいた」という台詞は、
維依が恋をして、彼氏が出来て、そして自然に身を任せる事があれば、という意味だった
のだろう。
 ある意味で静香の願いは叶う。維依はもうこれで他の八十神に狙われて殺される事も、
玉依として生きる事もない。ごく普通の女の子に戻れるのだ。
 それは維依自身も望んでいること。
 それなのに涙がこぼれてくるのはどうしてだろう。覚悟しているはずなのに、もう心は
決まっているはずなのに。維依は胸の中に残る苦みに声を失う。
 稲垣の手が維依の制服のスカーフに触れる。 身が震える。がくがくと足が笑っていた。
このままここに立っている事さえ出来ないのではないかと思う。
 いつかは、と維依も思っていた。誰かとそうなる事もあるかな、とは想像はしていた。
それがこんな形で訪れるだなんて夢にも思わなかったけれど。
 目を瞑る。少しだけ、少しだけ我慢していればいいんだ。そうすれば誰も傷つかずに済
むんだ。維依は声には出さずに呟く。
 でも。
 瞑った目から、もういちど水滴が地面に落ちた、その瞬間だった。
「はい、そこまで。それ以上、私の娘に手を出すのはやめてもらえるかしら」
 響いた慣れ親しんだその声に、維依は思わず目を見開く。
 静香が稲垣の後に立っていた。そして鋭利なナイフを手に稲垣の首筋に当てている。
 稲垣は維依に触れていた手を下ろすものの、しかし平然とした顔で振り返る。首筋に当
てられたナイフなど、無いも同然という様子で。
 そして静香も実際にナイフを突きつけようとはしなかった。
「お母さん!? やめてっ、稲垣せんせにお母さんまで殺されちゃう。私が、私が少し我
慢すれば、それで。それですむからっ」
 維依は母の元に駆け寄っていく。維依自身もかなり疲れ果て、力を失っていたが、それ
でも駆け寄らずにはいられなかった。
「維依ちゃん。あなたが優しい子に育ってくれて嬉しいって思う。でも、やっぱり私はあ
なたに傷ついて欲しくない。幸せになってほしい。親ばかというなら笑ってもいいの。で
も私は、あなたが何より大切だから」
 静香は維依をぎゅっと抱きしめて、それから思いっきり突き飛ばしていた。
 え、と思う間もなく維依は入り口の方へと転がり込んでいく。
「お母さんっ!?」
「維依ちゃん。あなたは八握さんをみてあげて。もう毒が回って、話す事すらろくに出来
ないはずよ。私はその間、時間を稼ぎます」
 静香の言葉に、ふと維依はそばに倒れ込んでいた八握を見つめていた。
 八握は意識が朦朧としているのか、焦点がずれた目を向けているだけでぴくりとも動か
ない。
「八握さんっ!? 八握さん、しっかりして」
 維依は八握へと慌てて声を掛ける。だが八握は何の反応も示す事はなかった。完全に毒
が回り意識を失っているのだろう。
「維依ちゃん。これを使って」
 静香はそういって、依へと奇妙な形に曲がった石のようなものを投げ渡す。
「え?」
「それはね、生玉。私の力を込めてある勾玉よ。お母さんね、隠していたけど、かつては
八握さんと同じ十種の神宝の一つ、生玉だったの。その勾玉を八握さんに触れさせて。少
しは力が戻るはずだから」
 静香はそこまで告げると、再び稲垣へと向き直る。
 稲垣はその話の間、殆ど身動きする事もなく成り行きを見つめていた。
「さて、話は終わったかね。どうやら交渉は決裂させられたようだし、あまり望まないの
だが実力で事を成すしかないようだね」
「そうね。維依ちゃんが欲しかったら、まず母親であるこの静香さんの許可をとってから
にしてもらわないと」
「ならば、許可を頂くことにしよう。力尽くでね!」
 稲垣が告げると同時に、静香もナイフを構える。そしてそれが戦いの合図となったよう
だった。
 静香はナイフを逆手に握り、稲垣の心臓へと一直線に突きつける。
 だが稲垣も右手に飛んで避けると、そのまま気の塊を一気に放つ。
 静香はその気をナイフで切り裂いていた。ぶわっと鈍い音を立てて気の塊が消えていく。
 高度な戦いが繰り広げられていた。維依は思わずごくりと唾を飲み込む。
 だがすぐに、はっとして八握へと意識を戻していた。八握はすでに力尽きかけている。
一刻を争うかもしれない。
 お母さん、ごめんなさい。維依は心の中で呟いて、それから静香から預かった勾玉を八
握の手の中に握らせる。
 その上から維依も八握の手を包み込んだ。
 お願い、八握さん。戻ってきて。力を取り戻して。
 維依は何度も何度も声には出さずに呟いていた。
 時間だけが過ぎていく。だが八握には何の変化も現れない。それでも維依は八握に呼び
かけるのをやめようとはしなかった。
 八握さん、戻ってきて。また元気に笑って。私を守ってやるって言って欲しい。
 ほんとはね、私、嬉しかった。守ってくれるっていったこと、嬉しかった。
 私だって女の子だから。無条件に私の事を守ってくれる人がいたらいいなって思った事
あるよ。ホントに八握さんがそういってくれたのは信じられなかったけど、疑ってしまっ
たけど。
 それでも、やっぱり嬉しかった。
 八握さんが現れて、守ってくれると言って。私の事、少しでも想っていてくれたのかなっ
て思えて、嬉しかった。
 八握さんは、いまは私の事、どう思っているのかな。やっぱり私は雪菜さんの変わりに
過ぎないのかな。八握さんが本当に大切そうにしていた雪菜さん。その変わりなら、それ
でもいいよ。
 だから戻ってきて。もういちど、もういちど。
 私の為に、笑ってほしい――
 維依は心を強く強く、八握の中へと伝え込んでいく。
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