高天原より夢の続きに? (18)
 ザンッ、と強くえぐるような音が響く。
「ぎゃあああああっ」
 悲鳴がつんざくように響く。
 血が飛び散ったのか、熱いものが頬や肌に感じていた。
 維依は驚いて目を開ける。その声は自身が出したものではなかった。
 目の前に見えたのは、紅い色。歪みきった形相で後を睨みつける朱月。
 そしてその背後にある、見知った一人の顔。
「稲垣……せんせ……」
 維依は微かな声で、その人物の名前を呟いていた。良く見知った、人ではない者の名を。
「やぁ、若宮。危ないところだったね。まったくこの坊やときたら、君を殺そうだなんて
何を考え違いをしているんだかね。そもそもこれだけの力を使えたのが自分の力と勘違い
して、暴走しまくってしまうくらいなのだから、もうまともな意識はしていないのだろう
けれど」
 稲垣は呟くと、ちらと眼前の朱月を見つめる。
 維依はその時初めて、朱月の腹から一本の腕が生えてくる事に気が付いていた。
 稲垣は手をさらに奥まで貫くと、そのまま上腕を曲げて胸の肉を抉る。
「ぐうっ、がっ」
 朱月は言葉にならない呻きを漏らしていた。そのまま痛みだけに悶えて、ぴくぴくと身
体を揺らしている。
 稲垣はその手を一気に引き抜き、そしてまるでごみか何を捨てるように朱月を転がして
いた。
「いやぁっ」
 維依は思わず悲鳴を上げていた。声を張りあげずにはいられなかった。
 目の前で人が一人死んだのだから、それも当然の事かもしれない。あるいは八握が雪菜
を殺した瞬間を、思い起こしたせいなのだろうか。
「うくっ」
 同時に瑞紀が痛み声を漏らす。見ると瑞紀は人形の戒めから解き放たれていた。
 はっと気がつくと、いつの間にか人形の数が半分近くに減っていた。だかそれは逆に言
えば朱月が意識を無くしているというのに、まだ人形は全ては消えていないと言うこと。
「く……お前、八十神だな……。朱月がいくら力がある、怒りで限度を忘れているといっ
ても数が多すぎると思った……。お前が人形を紛れ込ましていたという訳か」
 瑞紀は身体中に響く痛みを堪えながら呟く。
「はは。彼は気が付いていなかったようだけどね。でも彼には感謝しているよ。おかけで
目的を果たしやすくなった。こうして苦もなく玉依を手に入れる事が出来たのだからね」
「……まだ……私が残っているぞ……八十神」
「君が? 虚勢をはっても無駄な事だよ。君にはもう殆ど力が残っていない。少々人形に
力を吸われすぎたようだね。しかし私はまだ十分に力を残している。変に抗って死ぬくら
いなら、生き残った方がいいだろう」
「やってみねば……わかるまい……」
 だが呟いた瑞紀の声はもう絶え絶えで、とても維依を守る事など出来そうもない。それ
でも挑むような目を稲垣へと投げかけていた。
「そうか。人は諦めの悪い生物だったかな。なら素直に引導を渡してやる方が慈悲という
ものか」
 稲垣は淡々とした声で呟くと、その手を瑞紀へと向ける。
 瑞紀は慌てて懐から数枚の札を取り出すが、やはりその動きに切れがない。稲垣の動き
についていくのが精一杯だった。
「やめてっ、もうやめて。私が稲垣先生に力を渡せばいいんだよね。そうしたら、もう争
う必要はないんだよね。私の為に誰が傷ついたりするのはもう嫌だっ。もうやめてっ」
 維依はどこか震える声で叫ぶ。だが瑞紀は首を振って、がたつく足でそれでも維依の前
へと立っていた。
「貴女は玉依です。私達の未来を誘う義務があります。その義務を放棄することは許され
ません」
「そんなのっ、それなら私は玉依になんかなりたくない。私の為に誰かが傷つくなんて嫌
だっ。それくらいなら、私が死んだ方がいい。私は、もう誰にも傷ついて欲しくないっ」
 維依は強く強く呟くと、じわっと目端に涙を浮かべていく。
 変わらず身動き一つとれない状況ではあったが、維依は意志を捨てはしなかった。
「……それでも、貴女は玉依ですから。私は、貴女を……守ります」
 瑞紀は札を手に稲垣へ向けて馳せていく。だがその動きはあまりにも緩慢で、あまりに
も精彩に欠けていた。
「これでは、力を使うまでもないな」
 呟いた瞬間、稲垣の姿がふっと消える。いや消えたかと思うほどに、すさまじい速度で
瑞紀の背中へと回り込んでいたのだ。
「さようなら、可哀想な羊」
 稲垣の呟きは、どこまでも淡々と抑揚のない声で呟かれていた。
 稲垣の手が瑞紀へと伸びる。
 ドン! 鈍く弾けるような音が響いていた。
「がぁっ!?」
 瑞紀は切り裂くような哭声と共に弾き飛ばされていく。
 ガッと鈍い音が伝う。そして屋上の入り口へと続く扉に強かに身体を打ちつけていた。
 そのまま瑞紀はぴくりとも動かない。
「瑞紀さんっ、瑞紀さんっ。いやぁっ、ひどいっ、なんで、瑞紀さんは傷ついてた。ここ
までしなくてもよかった! 私の力なんかでいいなら、いくらでも持っていってよかった
のにっ」
 維依は稲垣を睨みつけながら、ただただ泣き叫んでいた。
 瑞紀の戒めは解けていたが、維依はまだ身を捕らえられたままだった。維依を捕らえて
いるのは稲垣が呼んだ人形だったのだろう。
 しかしそんな事よりも、今の維依はただ瑞紀に寄って傷の手当をするどころか、安否を
確かめることさえ出来ない自分が悔しくてたまらなかった。
「こんな事になるなら、私なんていなければよかったのに。私なんか、生まれてこなけれ
ばよかった。私、私のせいで、こんな……。私なんて!」
 維依の声が高鳴る。
 そして言葉をさらに紡ごうとした瞬間。その声は、はっきりと響いていた。
「それ以上いうな、維依。生まれてきていけない存在なんていない」
 思わず維依は目を凝らす。
 稲垣の向こう。倒れた瑞紀の隣に、その声の主は立っていた。
 死んでしまったとばかり思っていた。だけど確かに彼はここに立っている。自らの足で
しっかりと、ここに。
「八握……さん?」
「ああ、俺だ。約束しただろ。お前を守ってやるって。絶対に、何があっても絶対にだ。
それまで俺は死なない」
 八握はいい放つと、維依をじっと見つめる。そしてほんの少し。注意していなければ見
落としそうなくらい微かに微笑んでいた。
 とても優しくて優しくて、でもどこか切ない笑み。維依はいちどだけこの笑みを見かけ
た事がある。
 再び目が熱くなるのを感じていた。もう涙なんて流し尽くしたように思えたのに、維依
は溢れてくる涙を止められなかった。
「八握か。また生きていたとはよくよく悪運の強い男だな。だがずいぶんと疲れ果ててい
るように見えるがね。それで私の相手が務まるかな」
 稲垣がふと告げる。
 八握の服はずたぼろに裂け、血にまみれている。屋上から落ちて命が助かるだけでも奇
跡に近いのだ、傷を負わないはずもない。
 それでも八握は、稲垣へと不敵な笑みで返していた。
「は。少々準備運動をしただけさ。一緒に落ちた人形はぐちゃぐちゃに砕けていたがな。
しかし、この俺がお前ごときに負けるはずがないだろ。弱ってる相手を好きなようになぶ
るだけの鬼風情に。そもそも、そんな事より維依を離せ。したら半殺しで済ませてやる」
「ふふ。虚勢をはるのはやめたまえ。君ほどの術者がわからない訳ではないだろう。今の
君の力では、私には勝てないという事実が」
 稲垣はどこまでも余裕を残した声で呟くと、それから維依へと視線を移す。
「なるほど。君が万全であれば、私と言えど苦戦したかもしれない。しかし今の状態では
全く勝ち目はない事は確かだ。ゆえに今ここでおとなしく引くなら、君には余計な手出し
はしないと約束しよう」
「ふざけんな。維依は俺が守る。お前などに喰わせてたまるものか」
「まちたまえ。私には若宮くんを喰おうなんてつもりはない。いかに力を失ったといえ人
喰いだなど、神にあるまじき行為だ」
 稲垣は淡々と呟くと、ちらりと維依へと目線を送る。
 まるで蛇のような視線に維依はぞくりと身を震わすが、それでも他の八十神のように強
すぎる執着心も、欲望も感じる事はない。稲垣は確かに他とどこか一線を違えていた。
「どういうことだ」
 稲垣のこの台詞には八握も予想外だったようで、怪訝な顔を稲垣へと向ける。
「私は若宮くんから力だけを受け取るつもりだ。彼女を殺めるつもりはないし、ましてや
喰おうなどと、他の奴らと同じような低俗な発想はしない」
「……どうするつもりだ」
 八握は警戒は解かずに訊ねていた。
 稲垣が言う事が本当であるとすれば、維依もその話には興味がある。
 維依はもともと力なんて必要としていない。この力が無くなれば、無意味な争いをしな
くても済む。もしも本当に力だけを渡せるのだとすれば、それに越した事はなかった。
 とはいえ無惨に朱月を殺した相手の話だ。信用していいものかはわからないし、それ以
前に力を渡していいものかという疑問もある。
 しかし稲垣の目的はただ高天原に帰る事に他ならない。力を渡してしまって彼がいなく
なるのなら、これ以上無闇な犠牲を出す事もない。可能ではあれば、維依もそうしたいと
思う心はどこかに残していた。
 しかし稲垣が続けた言葉は、そう簡単に飲める代物ではなかった。
「簡単な事だ。玉依は処女を失えば力を失う。これは何の事はない。交わった相手に全て
ではないにしろ、力を渡してしまうからだ」
「なっ、てめぇ。つまり維依を抱こうっていうのか!」
 八握が叫んでいた。維依も声を失っていた。
 維依もまだ幼さを残しているとは言え、その言葉の意味するところがわからないほど子
供でもない。簡単に飲める条件ではなかった。
「まぁ、ありていに言えばそうなるな。だが安心しろ。私は子供を成すつもりはないから、
受胎する事はない」
 稲垣はまるで明日は晴れますね、と言うかのように平然な顔を維依へと向ける。
 維依は思わず息を飲み込んでいた。
「ふざけんなっ。貴様の薄汚い手など維依には指一本触らせねぇ!」
 八握は猛々しい声で言い放つと、稲垣へと杖の切っ先を向けていた。だが稲垣はそれす
らも気にせずに、余裕を残した顔で呟く。
「八握。君の意見はわかった。では当の若宮がどう考えているか聞く事にしよう」
 稲垣はふっと微笑みかけるようにして維依へと問いかける。
「若宮。私を受け入れるなら、君と八握の命は保証しよう。そこにいる瑞紀といったかな、
彼女もまだ死んではいまい。彼女の命も助けよう。
 だが君もあくまでも抗うというのなら、邪魔をする八握も彼女も死ぬ事になる。君まで
殺すつもりはないが、場合によってはそうなるかもしれない。
 これは確定した事実だ。それを理解した上で考えて選んでくれ。君は、どうしたい?」
 そう訊ねる稲垣の顔は、意外なほどに真摯な表情だった。朱月のように歪んでもなく、
八握の父のような不敵な笑みもない。真剣に彼女に問うている。
「わ、わたし……私は」
 維依は怯えるような声で、たどたどしく、そして迷いを隠せずに呟いていた。
「維依っ。奴の言う事なんかきくなっ!」
 八握は叫んだ瞬間、駆けだしていた。
 杖を上段に構え、宙に舞うがごとく飛び上がる。
 稲垣が八握へと向き直っていた。
 だがその隙を見逃す八握ではない。一気に杖を頭上から振り下ろす。
 ガッ。強い音が響いた。
 たが杖は地面を叩き付けていただけ。そこにはすでに稲垣の姿はなかった。
「なっ」
 唖然として口を開いていた。
 稲垣はすんでのところでそこから飛び退いていた。
 口元に笑みが浮かび、そしてその手を八握へと向ける。
 ズゥンと鈍く響いた音。稲垣の手から気の塊が投げ出されていた。
「ちぃっ。宿曜召還、翼宿(たすき)!」
 いつもと違う名前を八握が叫び、杖を地面へと叩き付ける。
 その瞬間、まるで羽が生えたかのように、八握の身体が浮かび上がっていた。
 だがその効果も長くは続かない。稲垣の気が通り過ぎたかと思うと、八握はダンッと急
速に地面へと墜ちる。
 衝撃に傷が痛むのか、八握は口元を歪ませていた。
「なるほど。宿曜は中国の星座のこと。それも全部で二十八宿あるのだったね。つまり君
はそれだけの術を隠し持っているという訳だ。屋上から落ちた時もその術で衝撃を緩和し
たから助かったのかな。でも」
 稲垣が再び八握の方へと手を伸ばす。八握は慌てて構えをとるが、しかしそれは一瞬の
事に過ぎなかった。地面にさぁっと影が走る。
「人形か!?」
 朱月が倒れたといえ、人形の全てがいなくなった訳ではない。事実、維依を掴んでいる
人形は今も消えてはいなかった。
 人形は先程、朱月がそうさせたように地面に隠れる事が出来る。それが襲い来たのかと
八握は警戒していたのだ。
 だがそれはすぐに誤りだと気が付いていた。
「なっ!?」
 八握は思わず声を上げる。
 ざわめく音。蠢く黒。それは人形などではなかった。そう見えたのは地面を埋め尽くす
無数の百足。響いているのは百足の足が奏でる奇妙な音。それが八握へと迫り来ていた。
「ち、百足ごときがっ」
 八握は百足の群れに向けて、慌てて杖を振るっていた。
 ザッと強い音が響いて、幾匹もの百足が身体をもがし、体液を散らす。
 それでも百足の群れは行進をやめようとはしない。仲間の死骸すら踏み越え、八握へと
向かう。
「八握さん!」
 維依は反射的に助けに向かおうとして身をよじる。しかし身体はびくとも動かない。見
ている事しか出来ない自分が、どこまでも歯がゆくて仕方なかった。
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