高天原より夢の続きに? (16)
 風は鋭く、猛々しく、辺りのもの全てを撒き散らしていく。
 草も、木々も、ガッ、と強い音を立てて吹き飛ばされていた。
 スサノオ。維依もその名前には聞き覚えがあった。あれから少し日本神話についても調
べていたからだ。
 とはいえ、それほど詳しい事を知っている訳ではない。スサノオは天照、月読(つくよ
み)と並んで三貴子(さんきし)と呼ばれる存在で、神話の中心にあるという事。そして
その中でもスサノオは猛々しく荒々しい神で、その所行のあまりに高天原から追放されて
しまったという事。
 強い力を持つ神様でもあり、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した英雄という一節も
ある。
 しかし維依の持っている知識はその程度のもので、なぜ八握があれほどスサノオに驚い
たのかもわからない。
 だがその意味もすぐに理解出来るようになっていた。
 全てを拒絶し破壊するかのように風は、辺りの何もかもを吹き付けていく。維依に宿っ
ている天照のような優しさはない。
 八十神達も辺りに吹き上げられ、打ち付けられて、そして消えていく。中には逃げ出し
た者もいるようではあったが、もはや誰がどうなったかを把握する事などは出来なかった。
 八握は巨大な樹木にぶつかり、ぐっと鈍い声を漏らす。だがその樹すらも、みしみしと
軋みを上げて、いまにも折れそうに見えた。
 八握さんっ八握さんがっ。維依は心の奥で叫ぶが、願いとは裏腹に手を出す事も出来ず
にいた。ただ八握の側によって、おろおろと見回す事しか出来なかった。
 どうして私はこんな風に見ているしか出来ないの。悔しい、悔しいよ。維依は心の中で
呟くが、しかしその声はどこにも届かない。
 ふとつんざくような声が伝う。
「やめて、スサノオ。もういいっ、もういいからっ。ボクの言うことをきいて。やめて、
やめてっ」
 雪菜の言葉に、しかしスサノオは全く反応しようとはしない。いや言葉だけで雪菜へと
答えていた。
『我は荒ぶる神。嵐の神。全てを破壊し、再生すことを司る神。我を呼び出したからには、
全てを破壊せねば気が済まぬ』
 スサノオの言葉に、維依の背がぞくりと震える。
 天照はこの国の主神だというが、維依の願いを聞き入れてくれる。維依が欲しいだけの
力を与えてくれていた。
 それは玉依の力がそうさせているのだと、維依は何となく思っていた。
 だが、それは違う。違ったのだ。たまたま天照という神が維依を気にいり、気まぐれに
維依の願いを聞いていたに過ぎない。
 いま雪菜が呼び出してしまったスサノオは、人の言葉などを聞く神ではなかった。自ら
の事しか意識せず、こうして現れて自在に力を使えるからには、暴れるだけ暴れ続ける気
なのだろう。
 天照とスサノオの差。維依と雪菜が背負ったものの重さの違い。それがいま端的に現れ
ていた。
「何があったのっ」
 騒ぎを聞きつけたのか、遠くから静香が駆け寄ってくる。だが辺りに吹き荒れる突風に、
それ以上は近づく事すら出来ない。
「スサノオだっ。雪菜に宿っていた神は、スサノオだった」
「そん……な。長い玉依の歴史でも、スサノオなんて呼び出した事はないのに。まさか雪
菜ちゃんが八十神の……」
 静香は言いかけて、大きく首を振るう。だがここまで呟いたからには、もう皆まで言っ
たも同然だった。
 雪菜が八十神の血を引いているから。八十神は悪神だという。そしてある意味でスサノ
オも悪神だと言えるから。
 悪神の血が、スサノオと言う荒ぶる神を、人が呼ぶにはあまりにも猛々しすぎる嵐を呼
んでしまったのかもしれない。
「あっ、はぁぅっ」
 雪菜が吐き出すように嗚咽を上げていた。
「いや、あ。ぅ、いやぁっいやぁっ!」
 次第に声は冷たく、強くなっていく。叫びだした声が次第に震えていた。
 雪菜さんっ。維依は叫ぶが、しかしその声は届くはずもない。
 雪菜の右手がだらんと力無く下がっていた。右手を神に喰われたのだ。
「あぅ、いやあっ! あぁぁぁっ!?」
 雪菜の目が大きく開かれていた。上空を見つめ、その視線がどこか彷徨う。焦点がずれ
ているのがはっきりとわかった。口から涎がこぼれていく。完全に苦しみに意志を乗っ取
られている。
 そして左手が。右足が、左足が同じように力を失っていく。その度に悲痛な声を上げて
いくものの、維依は冷たい空気を吸い込んで息を吐き出すことさえも出来なかった。
 雪菜は両膝をついた状態で、空を見上げていた。意識がすでに残っているのかどうかも
わからない。
 八握は杖を盾にして、少しずつ雪菜へと近づいていく。
「スサノオ、やめろっ。雪菜を離せっ!」
 八握の呼びかけに、スサノオは力で答えていた。八握を風で吹き飛ばしたかと思うと、
八握はガッと再び地面に打ちつけられる。
 それでも八握は立ち上がり、少しずつ雪菜へと向かう。
『我に刃向かう気か。ならばまずお前から壊してやろう』
 スサノオの冷たい声。だが八握は止まらない。前へと向かっていく。
『死ね』
『やめて!』
 維依は叫んでいた。いや、維依も叫んでいた。
 同時に響いた声の方へと意識を移す。殆ど気を失いかけていたはずの雪菜が、凛とした
瞳で自らの腕を抑えつける。
 動かないはずの両腕を胸の中で抱えて、ぎゅっと強くまぶたを閉じると、それからゆっ
くりと開いて八握を見つめていた。
「にぃ」
「雪菜っ!? スサノオを抑えたのか」
 八握は慌てて雪菜へと駆け寄っていく。雪菜が抑え込んでいるのか、あれだけ荒れ狂っ
ていた風が完全に止んでいる。
 雪菜はやや天を仰ぐように見上げて、それから近付いてくる八握を膝をついたままで見
つめ。そして静かに首を振った。
「スサノオの力にはボクなんかじゃ敵わないよ。いまこの瞬間、なんとかボクの中だけに
力を取り込んでる。だから外に漏れていないだけ」
「な。よせ、雪菜っ。そんな事したらお前の身体は」
 八握が雪菜の腕を取ろうとして、手を差しのばす。だが続く雪菜の言葉に、八握は思わ
ず手を止めていた。
「だめ」
 呟くように告げた声。鋭さも強さもない。だけど意志の込められた台詞。
 維依はもう目を逸らしたくて溜まらなかった。だけど維依には目を瞑る自由すら与えら
れていない。意識を閉ざそうとしても閉じるまぶたすら見あたらない。
「にぃ、お願いがあるの」
 雪菜が掠れた声で、ゆっくりと呟く。
「私を。殺して」
 まるで何事も無いかのように淡々と、ただ平坦と雪菜はまっすぐに見つめている。
 維依は、ごくと息を飲み込む。恐らくはこういう展開になるだろう事はわかっていた。
わかっていたのに、涙が止まらない。目頭が熱くて堪えられない。
「馬鹿っ。そんなことっ、出来る訳ないだろ」
 八握が間髪入れずに答える。だがその肩は知らず知らず震えている。
 どちらにしても雪菜がもう助からない事を、八握は痛いほどに知っていた。
 神に食い荒らされた身体はもう元には戻らない。そして今、必死で抑えているスサノオ
の力は全て雪菜の身体の中で弾けている。
「殺して、にぃ。もう、ボクには耐えられないから」
 雪菜は静かに告げる。
 他に音一つする事はなかった。静寂だけが辺りを支配していた。
 八握の心臓の音がここまで聞こえてくるような気がする。いやそれともこれは維依自身
の鼓動なのか。
「そんなことっ。出来る訳が……」
 八握の声はどこか力無く消えていく。
 八握の心の中で、いまどんな感情が渦巻いているのだろう。どれだけの痛みを抱えてい
るのだろう。維依にはわからない。
 それでもその闇が深く強くて、渦巻いている感情が八握の心を砕こうとしている事だけ
は間違いがなかった。
 八握の握りしめた手により力が入れられる。そこから汗が伝わって杖の上を流れ落ちる。
「あっ……。いや、いやぁっ」
 突如、雪菜が再び叫び始めていた。がたがたと身体が震えはじめ、再び空を見上げ瞳孔
が開く。
「いやっ。ぐっ。……あぁーーっ!!」
 雪菜の声が高く響く。
「に……ぃ……」
 そして掠れた声が最後。びくんっ、と身体を大きく震わせていた。
 同時に目の色が紅く染まる。まるで血走った獣のように。
 雪菜の意志は完全に失われていた。スサノオが雪菜の身体を全て食らいつくしたのだ。
 そして雪菜は、スサノオになる。
『我はスサノオ。荒ぶる……神』
 その声は完全に雪菜のものと違えていた。
「八握くんっ、雪菜ちゃんの気持ちを無駄にしちゃだめ!」
 静香の叱責が大きく響いていた。
 お母さん、と維依は呟く。そしてその声に答えるかのように、八握はその手を激しく震
わせながら叫びだす。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ」
 声は時間を止めていた。
 八握さんっ、だめ。だめだよっ。そうしたらいけないっ。だめだよぉっ。維依の必死の
叫びは、けれど八握には届かない。
 ざん、と冷たい音が響く。
 世界が紅く染まっていた。
 目の前が紅い。朱一色に染まってそれ以外には何も見えない。
 維依の視界にあるのは、それだけ。どこか遠くから聞こえてくるざわめきの音だけが、
ノイズのように時折伝わる。
 八握に残っているのは、八握の記憶にあるのは血の色。言葉にはならない想いだけ。
 夕焼けのように全てが変わり、風のように何もかも軋む。
 静寂がどこまでも続くように思えた。
 この世界はもう全てを失ったかのように凍り付いて動かない。
 永遠が訪れたかのかと維依は思う。それほどに長い間、静けさが支配していた。
 だけど、不意に時間は終わりを告げる。
「俺が……殺した」
 呟きと共に維依の意識が遠くなっていく。
 どこまでも深い後悔の波に吸い込まれながら。維依は泣いていた。
 つ、と目端からこぼれ落ちる。
 その瞬間、ぶわっと全身を包み込むような違和感が走り、急激に温度差を感じていく。
 突如感じた空気にふらふらと身体が揺れる。
 はっと意識を取り戻すと、元の学校に戻っている事に気が付いていた。
Back Next
良かったら読んだ感想を下さい!
タイトル
お名前 (必須)
メール

★このお話は面白かったですか?
すごく面白かった  面白かった  まぁまぁ面白かった  普通
いまいち  つまんない 
★好きな台詞があれば


★印象に残ったシーンがあれば


★その他、感想をご自由にどうぞ!