高天原より夢の続きに? (14)
 見たこともない風景だった。
 どこかの山の奥だろうか。眼下に里が見える。だがこの深い山の中にしては、かなり大
きな規模のようにも思えた。
 この辺りは高原になるのだろうか。草花が咲き散らしていて、爽やかな空気に包まれて
いる。
 その中で維依は、はたと気がついていた。どうしてこんな場所にいるのだろうかと。さ
きほどまでいた学校の屋上など影も形もない。
 だがそれどころか自分の身体が見えない事に気が付く。
 今はいうならばふわふわと浮かんだ空気の塊のような状態で、意識と視界だけはあるの
に、手も足も身体全てがあるべき場所にない。
 私、もしかして死んでしまったのかなぁ。それでここは天国って奴なのかな。
 不意に維依は思うが、しかしそれにしては死ぬ瞬間の記憶がない。つい一瞬前に八握が
叫んだとこまでは明確に記憶があるが、その時に自分が傷つけられたという覚えはない。
 死の瞬間なんて覚えていない方がいいのかもしれないが、それにしてもあまりに唐突な
展開だ。
 しかし現実として維依はいまここにいるし、自らの身体は見あたらなかった。
 ふと高原の中で寝ころんでいる誰かの姿に気付く。どこかで見たような風体。
『八握さんっ』
 見覚えのある顔に維依は思わず声を上げていた。しかし八握には聞こえていないのか、
その声に八握は微動だにしなかった。
 とにかく維依は八握に近づいていく。ジーンズにシャツといったラフな格好で、八握は
横になっていた。
 だが近づくにつれてどこか違和感を覚えていく。八握かと思っていたが、それにしては
少し若い気がする。
 歳の頃で言えば維依と同じか一つくらい上、十五、六歳というところだろうか。普段の
八握は十七、八というところだから、二つか三つくらい若いように見えた。
 ふとそこに女の子が走ってきていた。膝丈までのカーゴパンツに、春物のジャケット。
女の子にしては少し短めの髪が、ぱたぱたと揺れている。
 綺麗に整った、だけどまだまだ幼さは残した彼女は、男の子に見えると言うほどではな
いが、どこか元気でボーイッシュな雰囲気を醸し出していた。
 歳の頃は維依と同じか、もしかしたらもう少し幼いかもしれない。何にしても十四、五
歳、中学生といったところだろう。
「八神にぃ」
 少女は八握の隣に立つと、見下ろしながら名前を呼んでいた。だがその名前は「やつか」
ではなくて、確かに「やがみ」と呼んだ気がする。
 八握は目を開けると、ゆっくりと上体を起こす。それから少女の方へと目を向けると、
ふわぁっと大きく欠伸を漏らしていた。
「雪菜か。俺はもう『八神』じゃない。三日前から『八握』という名前をもらったんだ。
八握剣として認められた印としてな」
 八握はそう呟くと、にっと笑う。維依には見せた事がないような、優しい笑顔で。
 どういうこと、と維依はいぶかまずにはいられなかった。それは八握が笑った事じゃな
く、三日前に八握剣として認められたという台詞にだ。
 少なくとも八握と出会ってからは三日以上が過ぎている。出会ったその日にはすでに八
握は八握剣だったし、いまここにいる八握も若い。それにこの八握の事を「にぃ」と呼ん
だ雪菜と呼ばれた少女。彼女は朱月の言う八握に殺されたという玉依なのだろうか。
 それなら、ここは過去ってこと? 私は過去に送られちゃったの? 維依は頭の中を何
とか整理づけようとするが、答えは簡単には出ない。
「もう。急にそんな事いわれたって、呼び方なんて簡単には変えられないよ。ボクにとっ
て八神にぃは八神にぃだし」
「ま、お前だけは八神のままでもいいか。たった二人きりの兄妹だもんな」
「そうだね。名前なんて関係ないよ。それで八神にぃが変わってしまう訳じゃないし」
 雪菜はやや眉を寄せて、それでもにっこりと微笑んで八握の隣に腰掛ける。
 んー、と大きく背伸びをして、それからごろんと横になっていた。
「でも、八握剣として認められたのはボクも嬉しいよ」
「そうか、ありがとな。やっぱあの術を生み出したのが認められた理由だと思う。中国の
宿曜に鬼宿っていうのがあるのを知った時、俺の力が最大に生かされた。鬼はかみとも読
むから。杖に神を宿す事を可能にした」
「にぃの術の事はよくわかんないよ。難しすぎ」
 雪菜は笑いながら呟くと、それから空をじっと見やった。
「きっもちいい。今日はいい天気だね」
「そうだな。明日も晴れてくれればいい。明日はお前の誕生日だから」
「そだね。十五歳の誕生日、かぁ。ついにきちゃったよ。ボクはホントはなりたくないな。
玉依なんて荷が重いよ」
「なら、やめるか。このまま逃げだして、誰も追いかけてこない場所でひっそり暮らして
もいい。お前がそれを望むなら、俺が叶えてやる」
 八握は真剣な顔で呟くが、雪菜はぷっと思わず吹き出していた。
「やだな、にぃ。冗談だよ。ボクが玉依になる。それはボク達がこの里にきた時から、ずっ
と決まってたことじゃない。いまさら変えられないし、変えたくない。ボク達は人間だか
ら、胸を張って生きなきゃいけないんだ。隠れてこそこそするなんて、嫌だよ」
「そうか。そうだな。悪い、お前にばかり辛い想いをさせているな」
「ばーか。そんなこというにぃは嫌いだよ。ボク達は二人で生きてきたんじゃないか。あ
いつらから受ける屈辱にも耐えて、生きてきた。
 それはボクに玉依の才能があったからかもしれない。だからボク達は殺されずに済んだ
のかもしれない。でも、もしその時、にぃが殺されて、ボクだけが生き残っていたとした
ら、ボクはきっといま生きてはいなかった。それは事実だよ」
 雪菜は軽く拗ねたような様子で呟くと、立ち上がって背を向ける。
「そろそろ、宴が始まるみたいだよ。にぃも十人の神司として認められたんだから、参加
しないと。神薙の主立った人は全て集まるみたいだし」
「神薙か……」
 八握は呟いて立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。里の方へと向かっているのだろう。
「ボク達だって、神薙だよ」
「そうだな」
「うん、にぃは八握剣になったし、ボクは明日玉依になる。誰にも文句は言わせない」
 雪菜はどこか遠くを見ているような瞳で、静かに力強く、誰へとでもなく告げていた。
 同時に維依の視界がふっと暗闇に包まれる。
 え、と声を出しそうになるが、どちらにしても維依の声は実際に音になる事はない。
 そして同時に身体中にぞくぞくと悪寒のようなものが走る。胸の奥に吐き気すら感じて
いた。しかしそれも少しの事で、次第に治まっていく。
 完全に悪寒が治まったとき、再び維依の視界が開けていた。それは今までの高原ではな
く、どこかの古い木造の屋敷の中。
 障子を挟んだ隣の部屋から、賑やかに和む声が微かに響いていた。宴会でもしているの
だろうか。しかしここには殆ど人の気配もなく、静寂に包まれていた。
 そこに八握が立っていた。そして目の前にもう一人姿が見えた。
『お母さん!?』
 維依は叫ぶが、やはり声にはならなかった。
 静香は八握をじっと見つめて、それからにこやかに微笑んでいた。
「立派になったわね」
「ありがとうございます。神薙の中でも、静香さんだけには感謝しています。静香さんが
いなければ、俺達は今頃生きてはいなかったでしょう」
 八握は彼にしては恭しく告げると、ぺこりと頭を下げる。
「いいのよ。八握くん達のおかげで、私もあの子の事を隠していられるんですもの。雪菜
ちゃんがいなければ、たぶん隠し通す事は出来なかったと思うし」
「いえ、それは理由にはなりませんよ。俺達がこの里にきた時、まだ彼女は生まれていな
かったんですから。維依に玉依の素質があるなんて事はわかるはずがない」
 八握の声に喉から心臓が飛び出るんじゃないかと思う。胸がばくばくと波打っていた。
 実体がないのに感じると言うのも不思議なものだったが、今の維依にはそこまで気にす
る余裕なんてものはなかった。
「八神くん。あっと今はもう八握くんだったわね」
「静香さんなら八神でもいいですよ」
「いいのよ。わざわざそんな忌々しい名前を名乗ることない。八十神につけられた名前な
んて」
 静香は平然とした声で呟くが、八握は僅かに苦笑を浮かべていた。
 そして維依は驚きを隠す事が出来なかった。
 八十神に名付けられた名前。どういう意味なのだろうか。出来る事ならもっと聞きたい
と願うが、しかし二人はもうそれ以上につっこんだ話をする事は無かった。
「それでも慣れ親しんだ名前ですよ」
「そうね。でも明日から雪菜ちゃんも玉依になる。貴方も十人の神司として八握という名
前をもらえた。これから、八握くん達の新しい人生が始まるの。もう過去になんて囚われ
る事はないわ」
 静香はくすくすと笑みをこぼして、それから八握の肩をぽんと叩いた。
「そう、ですね」
 どこか煮え切らない様子で答えるが、それでも八握は静香の言葉を受け入れようとして
いるようだった。
「ふふ。急には割り切れないわよね。やっぱり貴方は今でも恨んでいるんでしょうから」
「……あの時の事なんて、もう、殆ど覚えていませんよ。静香さんの事以外は」
 八握は掠れた声で呟く。
 その瞬間、維依の視界が再び暗く変わっていく。同時にやや前に感じた悪寒が身体中を
包み込んでいく。さっきより少し吐き気が強いかもしれない。思わず戻しそうになるもの
の、実際に肉体がないのだから吐き出す事はない。
 そしてやはりそれが治まると、すぐに視界が開けていた。
 今度は小さな洞窟の中。そして今度はそこには四歳くらいの少年と、二歳になるかどう
かの赤ん坊。そしてまだ年若いが、どこかくたびれた女性がそこに居た。
 しかしそれでも女性は優しそうな、そして嬉しそうな笑みを浮かべていて、目の前の少
年に微笑んでいる。
 不意にその向かいに一人の男が立っていた。ついさきほどまで誰もいなかったのに。あ
まりに突然な登場に維依は驚きを隠せない。
 女性の表情が急激に怯えたものに変わっていく。
 男は女性と、そして子供達を見やって、にやりと笑う。嫌らしい、下卑た笑みだった。
 突如、少年は男に向かって飛びかかっていく。だが突然だが男は少年の攻撃などものと
もせずに、逆に強く殴り飛ばしていた。
 少年は弾き飛ばされ、壁に打ち付けられる。
 唇の端から血が滲んでいた。恐らくは体中が痛んだであろう。それでも少年の瞳は敵意
を失ってはいなかった。
「ふふ。それでこそ、我が子だ。そうして世の中の全てを憎むがいい」
 男が呟くと同時に、今度は近くにいた女性を殴りつける。
 女性は大きく咳き込む。だが同時にその前に少年が立ちふさがっていた。
「八神。お前が八になるまでに私を殺せなければ、私がその女を殺す。せいぜい力をつけ
るがいい」
 男の台詞に、女性が少年の身体をぎゅっと包んでいた。
 そして「ごめんね、ごめんね」と呟き続ける。男の姿はいつのまにか無い。出ていった
のでもない、消えたのだ。
 良く見ると傷ついていたはずの少年の傷も完全に消え去っていた。
 そしていま、維依はこの世界が一体何で構成されているのか初めて気がついていた。
 これは記憶だ。八握の記憶。八握が実際に体験してきた過去。
 だから時間の展開がむちゃくちゃだったし、幼い頃の記憶はとぎれとぎれなのだろう。
強く印象に残っている事だけが、呼び起こされているのだ。
 少年は八握に違いないし、恐らくこの女性は八握の母で、赤ん坊は妹の雪菜なのだろう。
 そしてあの男は、八握の父。
 どこか印象ははっきりしていない。鋭い目だけが心に残っている。それは八握が幼い故
に記憶が曖昧な為だ。その為に維依が捉えた男の姿もぼんやりとしているのだ。
 しかし維依に考えを巡らせまいとするかのように、不意に大勢の人が押し入っていた。
 八握が母の前に立ちふさがる。雪菜はわんわんと泣き続けていた。
「……どうします。殺しますか?」
 誰かが呟いたのが聞こえる。だがその声の主の姿は見えはしない。それは八握の記憶に
は残っていないと言う事だろう。
「そうだな、可哀想だが生かしておく訳にはいかない。この子らは私達神薙の一族ではな
いのに、つまり神威を、神の血を継ぐ者ではないのに、この止まった世界の中で動き続け
ている。その母は時間を止めているというのにな。やはり間違いないだろう」
 何が間違いないと言うのだろうか。維依にはわからなかったが、その声の主は冷たく呟
いていた。
 そして影がすっと射した。何かを振り上げている様子だけが何となくわかる。
 維依は一瞬、殺されちゃうっ、と心を乱しかけたが、それはない事にすぐに気がつく。
 これは八握の記憶なのだ。八握自身がここで殺されるとすれば、その後の八握はいない
事になる。つまり八握は殺されなかった。
 そして記憶は先の静香との話と繋がっていく。
「待ちなさい。殺してはいけないわ」
 その声の主の姿は、はっきりと見て取れていた。維依の母、静香の姿だった。
 だが今の維依の母よりも格段に若い。それはそうだろう。この姿は少なくとも十五年以
上前の姿、維依が生まれる前の事なのだから。
 あるいは維依も昔の写真を見た事が無ければ、彼女が母だと言う事に気が付かなかった
かもしれない。
「静香さん。同情は出来ますが、しかし、彼等は」
「わかってる。でも聞いて。奥で泣いている女の子、あの子は玉依姫よ。間違いないわ」
「ええっ!? 玉依ですか」
「貴方達も神薙にもう四半世紀は玉依が現れていない事を知らない訳じゃないでしょう。
貴重な存在よ。殺してしまうにはおしいわ」
「……そう、ですか。わかりました。それでは連れ帰って宗家と相談してみる事にしましょ
う。しかし、たとえ彼女が玉依だとしても私は反対ですがね。きっと後に禍根を残します。
彼等は忌むべき存在です。……人と八十神の間に出来た子など」
 え、と呟いて、それから維依は声を失っていた。
 いまこの声が何と告げたのか、初め理解する事が出来なかった。
 人と八十神の間に出来た子。そんな事が有り得るのだろうか。
 確かに例えば稲垣はどこから見ても人と同じで、人との間に子供くらい作れそうに見え
る。しかし稲垣が清廉潔白に映ったのも、八十神が人とは違う欲求で生きているからでは
ないだろうか。その彼らが人との間に子を作ろうなどと願うものなのだろうか。
 だが現実に八握と雪菜の二人は八十神の子だと告げられていた。静香もその事は否定す
る事がなかった。
 そして維依の驚きや戸惑いなどおかまいなしに、記憶はそのまま流れていく。
「そうね。確かに忌むべき出来事だったかもしれない。でも八十神の子だからって、彼ら
自身が邪な存在という訳じゃないわ。みて、彼は今でも母を守ろうとして必死にがんばっ
てる。そんな彼らが邪なはずがない」
「そうだといいんですけどね。ま、判断は宗家と長老部に任せますよ」
 男達の声はそれきり消えていく。結局、この男達の姿は全く目に映る事は無かった。
「よかったわね。殺されずに済んで」
「……母さんに手を出すなっ」
 四つの子供とは思えないほどに鋭い視線と声で、八握は静香を睨み付けていく。
「安心して。私は何もする気はないわ。貴方にも貴方のお母さんにもね。だって、私もも
うすぐお母さんになるんだもの」
 静香はお腹を軽く押さえて、そっと八握へと微笑んでいた。
「お母さん、に?」
 八握の顔が見る見るうちに溶けていく。母になるという言葉が八握に親近感を抱かせた
のかもしれない。
「ええ。いま私のお腹の中には赤ちゃんがいるの」
「そっか。……なら母さんを殺さない?」
 殺す。その言葉は四つの子供には相応しくない言葉。普通であれば、出てくる台詞では
ないだろう。
 しかしそれは恐らく八握がいつも死の恐怖と向かい合って生きてきたゆえの事だろう。
「もちろんよ。貴方もその子も、そして貴方のお母さんも殺さない。誰にも殺させないわ」
「……うん」
「そうだ。ねぇ、貴方の名前を教えて? 私は静香よ」
「ボクは、やがみ」
「八神。そう。よろしくね」
 静香の顔が僅かに曇ったような気がする。
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