高天原より夢の続きに? (08)
 あれから数日が過ぎた放課後のこと。維依は自分の席で帰りの準備を整えていた。
 初め維依は学校にいく事に激しい抵抗感があったものの、両親も八握も大丈夫だと言う
ので学校で一日を過ごしていた。
 八握の言うところには、ここ数日は少なくとも手を出してこないし、もし何かあっても
自分が必ず守るから安心しろとの事だった。
 維依も多少なりとも八握の事は信頼している。少なくとも維依の為に稲垣から守ってく
れたのは確かな事だ。
 それは神薙の本家からの命令の為かも知れなかったが、あの時の八握の言葉は少なくと
も彼自身の気持ちのようにも思えた。
 維依は八握の事を信用しきってはいないものの、それでも少しは気を許しだしてはいる。
 そして八握の言葉通り、稲垣も学校では普段通りで、特に維依に手出ししてくるような
事は無かった。もともと稲垣は担当しているクラスが違う。本来、殆ど合うものではない。
 ひとときの事かも知れなかったが、平穏な時は取り戻されている。
 もちろん今にでも稲垣が襲い来るのではないかという不安はある。正直にいえば学校に
は行きたくない。だが実のところ時間を止められるのならば、どこにいても不安なのは同
じだろうし、それなら逆にこうして外に出ている方が気が紛れるのも事実だった。
 それにどこか夢絵空の事のようで、まだ維依にははっきりとした実感がない。あるいは
それは現実からの逃避なのかもしれないが、維依はいきなり変わった現実を受け止めるに
は、まだ幼さを残していた。
「ねぇ、いよりん」
 頭上から真弓の甘い声が響いていた。
 ぎく、と警戒して維依は真弓へと振り返る。
「そのいよりんっていうのは何」
「今日からよりちのことは、いよりんと呼ぶことにしたの」
「なんで急にっ」
 真弓が突然何か言い出すのはすでに慣れてはいるものの、呼び名まで変えられては違和
感ありまくりである。
「今日、私の枕元にキリキリカ神が降りて、よりちの事は明日からいよりんと呼べ、とお
告げがあったのよっ」
 真弓は高らかにろくでもない事を告げていた。これがよく知らない相手から言われたの
であれば、怖くて震えるところではあったが、長年のつきあいで真弓の事はある程度知り
尽くしている。なぜこんな事を言い出したかもだいたいのところは理解出来た。
「嘘でしょ。それ」
「もちろんよ。適当いってみただけ」
 真弓のなぜか自信満々の声に、維依は呆れて溜息をつく。
 たぶん昨日やっていたドラマか、そうでなければ漫画か小説か何かに、そういうシーン
があって影響されたのだろう。昔から真弓にはそういうことがあった。
「それはともかく、よりち」
 もういよりんはどこかに行っていたが、本当にこれからそう呼ばれても困るので黙って
おく。
「今日、暇だったらでーとしない? 今日さ、買いたいものがあるから、駅のほうまでい
こうと思ってるんだけど」
「ん、いいよ。またいつものCD?」
「そそ。エグザインのCDがさ、今日発売なんだよね。もー、ちょーキュートだよ」
 本格的ロックバンドの歌をキュートと言い切る真弓の精神構造は相変わらず良くわから
なかったが、とりあえず本人が気にいってるのだからよしと言う事にする。
「じゃあ、いこっか」
 維依の声に、しかし真弓はやや考え初めて、それから軽く首を振るう。
「ごめん。ちょっと部室に用があるのを忘れてた。すぐ戻ってくるからさ、昇降口の方で
待っててくんない」
 真弓は両手を合わせて、それから駆け足で部室の方へと向かっていた。
 相変わらずだなぁ、と思いながらも、逆にそのいつも通りの真弓が維依には何よりも嬉
しく思えた。
 昇降口には校舎の入り口と下駄箱もある。ここで上履きから靴に履き替えると、そのま
ま階段のところに座り込んで真弓を待つ。
 ざわめきが辺りから響いていた。
 隣でかけていく女の子の姿も有った。
 だがまばたきをした瞬間、全ての音が止まり、女の子が微動だもしなくなった。それも
階段を駆け降りようとした姿のままで。
「えっ」
 維依は思わず声を上げて、辺りを見回していた。特別に変わったところはない。時が止
まっている事を除けば。
 稲垣が襲い来た時と、全く同じように何一つ動きもしなければ、音を立てるものもない。
 維依は慌てて周囲に注意を払う。しかし稲垣の姿はもちろん、他の誰も動くものはなかっ
た。
 いや、そう思った瞬間。背中側からカッ、と廊下を鳴らす足音が響く。
 振り返り、思わず一歩後ずさる。しかしそこにあったのは予想とは違い、稲垣の姿では
なかった。
「維依」
 名を呼んだのは、八握の声。いつの間にか八握はすぐそこに立っていた。
「なんだ、八握さんか。また稲垣せんせが襲って来たかと思っちゃった」
 安心したのは大きく息を吐き出す。
 それから八握の顔を見上げると、明らかに張りつめた空気をまとって、どこか憂いを残
した瞳を維依へと向けていた。
「維依、緊張を解くな。俺が先に来たからって、稲垣が、あるいは別の八十神が狙ってな
いって事にはならない」
 ややとげのある口調で告げると、八握は維依にゆっくりと近づいてくる。
 維依は少しむっとするものの、八握の言う事は確かに間違っていない。文句は言う変わ
りに、もういちど背中側に意識を凝らす。八握がいまこちらからやってきたという事は、
敵がいるなら反対側からだろう。
 だが八握は全く気にする事もなく、維依の目の前まで歩みよると、じっと維依を見つめ
ていた。
「まぁ、でも今は恐らく手を出してこないだろう。近くに稲垣以外の八十神の気配は感じ
ないし、稲垣の奴はまだ準備が整っていないようだ。そもそもこの時は、俺が止めたんだ
からな」
 さらりと告げると、八握は真剣な面もちで維依から目を離そうとはしなかった。
 初め「なんだ、やっぱり安心なんじゃないですかっ」と文句をつけようとした維依も、
その眼差しに言葉を失っていた。
 初めて向けられる、それも態度は悪いけども顔立ちの整った男性からの熱い視線に、思
わず維依の胸が強く鼓動する。
 どきどきと跳ね上がる心臓の音が八握にまで聞こえてしまうのではないかと思って、思
わず胸の前を拳で抑えて息を飲み込む。
「維依。お前は俺が守ってやる。絶対に誰にも傷つけさせない。俺はいつもお前の事を考
えている。だから」
 八握はそこまで告げると、いちど口を閉ざす。
 しんと空気が震えた気がする。八握は、何を言おうというのだろうか。だから、にはど
んな言葉が続けられるのだろう。維依はぎゅっと締め付けられそうになる胸を必死で押さ
えていた。
 もしかして、これって。えっと。私の自意識過剰じゃなかったら、告白、されちゃうの
かな。維依は心の中で呟くが、しかしもちろん声には出せない。
 ズキズキと痛むほどに鼓動が大きくなる。
 八握の事はさほど知っている訳ではない。しかし今まで何度も八握が維依を守ってくれ
た事は事実で、多少ではあるが維依も心を許しかけていた。
 それでも八握は神薙の本家の命令で維依を守りに来たのだという。つまり維依の事なん
て本当はどうでもよくて、命令だから守ってくれている、維依の中にはそんな風に感じる
気持ちも無い訳ではなかった。
 ただ、いまこの瞳は維依だけを見つめていて、静寂と緊張とだけが辺りを支配していて。
 期待と不安で維依の心はどこまでも膨らんでいく。
 こ、告白されたら、なんて答えたらいいのかな。でも、まだ知り合ったばかりだし、い
きなりつきあっちゃうのもどうなのかな。でも八握さんは私の為に戦ってくれたし。私も
八握さんのこと、嫌いじゃないし。断っちゃうのも、何だよね。
 一人、頭の中でぐるぐると思考だけが巡っていく。
 維依はごく普通の中学生だ。少なくとも今まではずっとそうして育っていた。しかも多
感なこの時期を女子校で過ごしてきたせいか、男性にはあまり免疫がない。それらしい雰
囲気に舞い上がってしまうのも不思議ではないだろう。
 しかし「だから」に続いた八握の言葉は、維依が思い描いたような甘い優しい言葉では
なかった。
「だから、死ぬな。神薙の本家もそう望んでいる」
 八握の言葉には、いつものようなからかいの口調はどこにも無かった。むしろ今までの
どんな時よりも真剣な台詞だった。
 それでも完全に宙に浮かんでいた維依の心を急速に冷やしていく。維依にはいつものよ
うにからかわれたのだとばかり感じていた。
 言葉が素直に心の中に入っていかない。痛みだけが維依を覆っていく。
「……ばかぁっ」
 消えそうなほどか細い声で、それでも思いの丈で叫んで。
 維依はそのまま駆け出していた。
「維依!?」
 慌ててその背中を追おうとして八握は飛びだそうとする。
 だがなぜだか身体が前に進もうとしない。
 維依を、離してはいけないのに。

 維依はただ走っていた。どこになんて何も考えていない。足の向く方向に駆けるだけ。
 頭の中では、ぐるぐると先程のシーンが回り続けていた。少しずつ冷静さも取り戻して
くるけれど、それでも涙が止まらなかった。
 私は何で泣いているの。何を期待していたの。維依は心の中で何度も後悔を重ねて、ぎゅ
っと目を閉じる。
 少し落ち着きを取り戻してくれば、八握が決して不真面目に伝えた訳じゃない事はわか
る。しかし神薙の本家が、という言葉を聞いた瞬間、強く反発していた。
 あの時は飛び出さずにいられなかった。それでも今は、どうして飛び出してしまったの
か。それすらも後悔し始めていた。
 今はとにかく走る事しか出来なかった。
 八握はやっぱり本家の命令だから、維依を守ろうとしたのだろうか。少しでも好意を抱
いてくれているように思えたのは、維依の気の迷いだったのだろうか。
 維依は四つ角を一気に駆け抜けようとする。だが、その瞬間。
 曲がり角から飛び出してきた誰かにぶつかっていた。
「きゃっ」
 小さく声を上げて鼻を押さえる。それほどではないが、鼻がジンジンと痛みを訴えてい
た。うー、と不満げな声を上げそうになるが、すぐにはっと気が付いて衝突した相手へと
視線を移す。
 少年のようだった。十四、五歳というところだろうか。維依とほぼ同じくらいの年齢に
思える。
「大丈夫? 怪我してない?」
 目の前の少年は、維依に優しそうな顔で微笑みかける。
「あ、はい。大丈夫です」
「気をつけてね」
 少年はふわとした笑みを零して、そのまま背を向けて歩き続ける。
「すみませんでした」
 維依は深々と頭を下げると、それから彼をしばしの間見つめていた。
 少年はまるで何事も無かったように歩いていたが、殆ど音にならない声で呟く。
「殺されないように」
 だがその声は維依までは届かない。
 ひゅうん、と風を切るような軽い音が響く。
 維依は足元に違和感を感じて、路面へと視線を移す。
 その瞬間。維依がいた場所が、まるで風船が膨らむかのように盛り上がっていた。
 慌てて飛び退いて、辺りを見回す。
 盛り上がっていたのは維依の足元だけではなかった。路面が、壁が、木の一部が。もこ
もこと膨れ上がっていく。
 それはやがてそれぞれが同じような形へと姿を変えていた。まるで人間のような姿に。
「な、なにこれ」
 思わず呟いて、それから人の形をした何かの一つをじっと見つめる。
 それらはまるで一つ一つが意志を持つかのように、維依へとゆっくりと近づいていた。
「や、やだ。こないで」
 身構えて、それから言葉を漏らす。だが維依の願いを聞き入れようなどとは思うはずも
なく、人形(ひとかた)はよたよたとした歩みで維依へと迫る。
 そのたどたどしい足取りが、まるで昔みたホラー映画に現れるゾンビか何かのようで、
維依はぞっと背を振るわせて息を飲み込む。
 どうしたら。維依は内心呟くが、しかし維依にこの状況を乗り越える手だてはない。
 走って駆け抜けるには人形の数が多すぎるし、戦うといっても維依には八握のような力
はない。
 いや、維依にも力はある。
 玉依としての能力。神を呼ぶこと。維依には実際に神様を呼ぶとどうなるのかはわから
ない。それでこの場を切り抜けられるか何て事は知るはずもない。
 八握は神を呼ぶな、と告げた。神を呼べば喰われるかもしれないと。必ず守ってやるか
ら、維依は力を使うなと。
 八握が助けにきてくれるのかもしれない。それがいちばん賢い選択なのかもしれない。
 でも、八握は。神薙の命令で維依を守っているに過ぎない。命令だから、仕方なく。
 そうだと決まっている訳ではない。だけど今この瞬間は、何故かそう思いこんでいた。
 そんな人に守られたくなんかないっ。
 維依は心の中で強く叫んでいた。そして心の奥に語りかける。
「私の中にいる神様っ。答えて、私に力を貸して」
 自分で自分を守れるだけの力を。声には出さずに呟く。
 その瞬間、胸の奥から熱く込み上げてくるものがあった。
 維依の身体に激しく痛みが走る。
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