高天原より夢の続きに? (03)
 放課後。重い足取りで生徒指導室へと向かう。稲垣先生はあまり説教臭い方ではないが、
生徒指導室なんてものは出来る事なら行きたいところではない。
 本来の首謀者である真弓はというと、悪びれもせずに「ついてなかったねぇ」などと言
い放っていた。
「じゃあ、いってくる」
 生徒指導室の前で真弓に別れを告げると真弓はにやりと微笑んでいた。
「密室に二人きりだからって、稲垣せんせを襲っちゃだめだからね、いよりくん」
「襲わないよっ。真弓は私をどーいう目でみているのっ」
「ん? こーゆう目」
 きらきらと期待に満ちた瞳を維依に向けていた。騒ぎ好きの真弓にしてみれば、ネタを
提供してくれる貴重な友人、とでも言いたいのだろう。
 実際、維依本人は至ってごく普通の女の子のはずなのだが、なぜかいろいろと事件に巻
き込まれたりする事が多い。
「うー、いってくる」
 再び呟いて扉をあけた。
 生徒指導室の中は小さな机と椅子がいくつかあるだけの簡素な部屋で窓すらもない。密
室と言えなくもないが、入り口には鍵がついていないため完全な密室とは言えないだろう。
何年か前にこの部屋で不祥事が起きて以来、鍵は撤廃されたらしい。
 生徒指導室の中にはすでに稲垣が一人で待っていた。本来稲垣は生徒指導ではなかった
が、時折ここに呼び出す事がある。
 もっともセクハラだの何だの言う話は聞いた事がないから教育熱心なだけなのだろう。
実際他の皆からの評判は大変よく、稲垣先生が好き、という友達も何人か知っている。
 しかし維依はどうも稲垣が好きになれなかった。特にこれといった理由がある訳ではな
いのだが、なぜだか彼を見ていると怖さを感じてしまう。それは例えるなら蛇のようにねっ
とりと睨まれているような感覚だった。
「来たね、若宮くん。じゃあまずは今朝の騒ぎの原因を聞かせてもらおうか」
 稲垣の質問に維依はかいつまんで説明を始めた。ただし単純に維依と知り合いとの意見
がどちらが正しいかで投票が始まって、という程度で済ませて極力八握の話はしない。
 話を聞いて稲垣はふむと頷く。
「このくらいの年頃というのは変わった事をやりたがるものか。まぁ、大した話でないし
特に問題にはしないよ。さて、しかし本題はそれじゃない」
 稲垣はどこかもったいぶったような口調で告げると、椅子に腰掛けたままじっと維依の
姿を見つめていた。
 ぞく、と維依の身体が震える。維依にとっては稲垣と話しているとよくある事なのだが、
それでも気持ち悪い事には変わりない。
 他の生徒は誰一人としてそんな事を言うものはいない。だから維依は自分の感覚がおか
しいのだろうかとも思うが、しかし感じてしまう恐れは変えられなかった。
「君は昨日、十五歳の誕生日を向かえたはずだったね。おめでとう」
「はぁ、ありがとうございます」
 思ってもみない台詞に何と答えていいものか悩む。とりあえずありきたりのお礼は返し
たものの、稲垣の意図が全く掴めなかった。
 稲垣は維依に限らず他の生徒の誕生日なんかを良く覚えていて、その度にお祝いを言っ
ていたが、だからといって生徒指導室に呼び出されるというのもおかしな話だ。
 しかし維依の内心を知ってか知らずか、稲垣は話を続けていた。
「けど、その誕生会の帰りに暴漢に襲われたそうじゃないか。大丈夫だったかい。今日の
様子じゃ無事だったみたいだけど、怪我をしたりしているんじゃないかと心配でね」
 稲垣は維依の身体を軽く眺めて軽く頷く。どこやら稲垣は昨日の事件をどこからか耳に
して心配してくれたらしい。
 なんだか変に勘ぐって悪かったかな。維依は声には出さずに呟くと、稲垣の顔をじっと
見上げる。こんなところに呼び出したのは、恐らく他に話が漏れるのを嫌ってくれたのだ
ろう。無事だったとは言え襲われたの何のと言う話は、あまり体裁が良いものではない。
「でも平気です。夢中であまり覚えていないんですが、あの男からは逃げ切ったので」
 維依はそう答えて、それから首を捻る。本当は維依は殆ど事件の事を覚えてはいなかっ
た。こうして言われるまで、やっぱり夢だったのかな、と思いこんでいたくらいだ。
 体のどこにも傷はなかったし、両親も特に心配そうにはしていなかった。あのとき一緒
にいたはずの真弓すらも心配するような台詞はない。本当に事件があったのだとすれば、
それも少々不思議な話に思えた。
 しかし稲垣は維依のそんな内心など気にせずに話を続けていく。
「なるほど。で、どんな男だったんだ」
「え、えーっと、スーツを着ててサングラスをしていて。それで」
「それで目玉が無かったかい」
「え?」
 唐突に言われた言葉に思わず維依は聞き返していた。
 維依は男に襲われた事は覚えてはいても、その先の事は記憶になかった。だから男に目
が無かったという事も当然覚えていない。
 だがそんな維依本人すらも記憶していない事実を稲垣は言い放っていた。
 それと共に忘れかけていた記憶が引き戻されていく。
 そうだ、私はあの時、目無しの男に襲われたんだ。心の中で呟くと維依は稲垣へと驚き
の顔を向けていた。
 稲垣の言う事は事実だ。しかしそれは維依本人しか知らないはずだった。当然の事だが
稲垣が知っているはずがない。
 しかし稲垣は維依の動揺には構わずに、淡々と話を続けていた。
「全く、所詮あいつは人に紛れて暮らす内に力を無くしてしまった喪神に過ぎないという
のに、玉依を得ようだなんて厚かましいと思わないか」
 稲垣はにこりと維依に向けて微笑んでいた。だがそれは、今までに見せた事もない残忍
で狡猾で優しさの欠片もない歪んだ笑み。
 いや、恐らくはこの笑みこそが稲垣がいつも浮かべていた笑みなのだろう。だがそれは
偽りの中に隠されていた。維依が稲垣を好きになれなかったのは、笑みの奥にある感情を
敏感に感じ取っていたのだ。
 だが維依は今はそこまで冷静には判断する事が出来なかった。突然の話に頭が混乱して
稲垣の笑みにいつもよりも恐怖を感じていただけで。
「稲垣せんせ……」
 維依は稲垣の名を呼んで、思わず息を飲み込んでいた。
 玉依。あの目無しの男もそう言っていた気がする。しかし維依はその言葉の意味を知ら
ないし、わかるのはせいぜい自分の名前と僅かに音が一緒だと言う事だけだ。
「人に紛れているうちに力を失って、人の振りをする事すらも出来ないなんて言うのは、
所詮神とは言えまいよ。玉依を得るのは私のような力ある者がふさわしい」
 稲垣の声に維依は思わず立ち上がっていた。すぐに生徒指導室から抜け出そうとして扉
を開ける。
 鍵が掛かっている訳ではないはずだが、焦っている為かなかなか扉は開かない。
「なんだ、若宮。どこにいく。まだ話は終わっていないぞ」
 稲垣がにやと笑ったとほぼ時を同じくして、なんとか扉が開く。
 だが飛び出した瞬間、維依はどこか強い違和感を感じていた。どこがどうとは言えない
が、どこかがいつもの校舎と違うような。
 しかしここでじっとしてもいられない。今の話ぶりからすれば、稲垣は恐らく昨日の男
の仲間なのだ。人間のように見えるけども、人ではない化け物。
 八十神。誰かが彼らの事をそう呼んでいた。八十神、玉依。どこかで聞いた事があるよ
うな気もするのだが、今は思い出せない。
 とにかくまずは逃げなくちゃ。声には出さずに呟くと、維依は走り出していた。どこに
いこうという訳でもなく、ただこの場から離れようとして。
「誰か、誰かいないのっ」
 維依の上げる声。しかし誰も答える事はない。同時に維依はある事に気がついていた。
 ざわめきがないのだ。学校と言う大勢の人間が集まる場所。しかも今は放課後で部活動
の人間辺りが大声を上げていたり、帰宅する人間がおしゃべりを楽しんだりしてもいいは
ずなのに。
 生徒指導室は少々外れにあり、普通の生徒は近づこうとしない為、人の姿が見えなくて
も不思議ではないが、それでも例えばグラウンドから声が響いてくるはずだった。
「誰か。誰かいないのっ、ねぇっ」
 維依は叫びながら昇降口へと向かう。階段の辺りなら下校する生徒が誰かしらいるはず。
 走り続けていくうちに女生徒の姿が見えた。その生徒が誰だかは知らなかったが、今は
誰でもよかった。近くに人がいれば稲垣も簡単には手を出してこないだろう。
 だが、その考えは結果的に甘かった。
 維依は走っている。だからすぐに女生徒に近づいていた。しかしそれでももっと早く女
生徒がその場から全く動いていない事に気がつくべきだったのだ。
 彼女はまるで彫刻のように身動き一つしていなかった。いや彼女だけではない。その場
から見える全ての人間の動きが止まっていた。
「いやぁっ」
 維依は叫ぶ。
 そしてその後ろにいつの間にか稲垣が迫っていた。
「逃げても無駄だよ。私達は、この国にある八百万(やおよろず)の神は皆この力を持っ
ている。世界を止める力をね」
「え、え、え。せ、世界を止める?」
「まぁ君には理解しずらいか。簡単に言えば時間を止める力とでも言えばいいかな。とに
かく助けを呼ぶなんて行為は意味がない」
 稲垣はゆっくりと呟くと、維依へと少しだけ歩み寄る。
「いまここで動けるのは神威(かむい)を――神の血を引く者か。あるいは君のような玉
依(たまより)――魂を、神を依る事が出来る者。つまり神に連なる者だけだ」
 稲垣がすっと手を伸ばす。維依は慌ててその手を避けて、再び走り出していた。
「わ、わかんない。わかんない。わかんないよーっ」
 維依は大声で連呼しながら、とにかく校舎の中を逃げ回っていた。
 稲垣の言う事は一つも理解出来ない。しかし時間が止まっているという事実だけは、何
とか飲み込むことが出来た。
 確かに皆が動きを止めていた。階段で、踊り場で、教室の中で。何かをしかけたまま身
じろぎ一つする事も無い。
 あの時と同じだと維依は不意に思い返して、胸の中で拳をぎゅっと握る。
 助けを呼んでも誰もこない。いや、あの時は確か。維依は心の中で昨日の出来事を反芻
する。周りからは助けは誰もこなかった。しかし今こうして無事にいるという事はあの化
け物から逃げ切ったか、それとも逆に倒したかのどちらかと言う事になる。
 だがこうして時を止められる相手に、どこまで逃げられるかと思えば疑問が残る。なら
逆に倒したのか。それも普通に考えれば有り得ない。しかし維依に残った記憶は別の答を
弾き出していた。
 あの時、私は確か助けを呼んで。その時に誰かが私に答えてくれた。そう、私の、中か
ら。言葉にはせずに呟くと、維依はすぅと息を吸い込む。そして強く叫んでいた。
「ここに来て、お願いっ!」
 胸の中で両の拳を握りしめて、世界の全てに届けとばかりに大きな声を張り上げていた。
 そしてその声に答えるかのように、胸の奥がどくんと強く脈打つ。
 自分の中にもう一つ、別の意識が浮かんでくるのが分かる。いつもどこかで感じていた
心の中にいる、もう一人の自分。いや、それを自分と呼んでいいのかはわからない。ただ
維依は心の中に誰かの存在を感じていた。
 すぅ、と維依の意識が小さくなっていく。
 その代わりに強い力に満ちた意志が浮かび上がっていた。
『私を呼んだか』
 声は音にはならず、維依の意志の中だけで響いていた。
「貴女……は?」
 維依は頭の中で答える。不思議とその行為に不安も違和感も無かった。
Back Next
良かったら読んだ感想を下さい!
タイトル
お名前 (必須)
メール

★このお話は面白かったですか?
すごく面白かった  面白かった  まぁまぁ面白かった  普通
いまいち  つまんない 
★好きな台詞があれば


★印象に残ったシーンがあれば


★その他、感想をご自由にどうぞ!