高天原より夢の続きに? (02)
 朝だ、起きろー。朝だ、起きろー。
 目覚まし時計が可愛らしく朝を告げていた。
「う、うーん。むにゃ……たまごやき食べたい」
 呟いて維依(いより)はゆっくりと目を開ける。
 いつもと変わらない自分の部屋。くまのぬいぐるみがベッドの枕元で座っている。
 それからはっとして飛び出すかのように、ベッドから上半身を起こした。
 どうして自分がここにいるのか不安になる。確か昨日はスーツ姿の男に襲われて、それ
で、それで。記憶を辿ろうとして額に指先を当てるが、しかしそれ以上の事が思い出せな
い。ただ背中を走った恐怖だけが胸の中に残っている。
 夢だったのだろうか。いや、夢にしては記憶がはっきりとしすぎている。昨日のあれは
夢なんかじゃない。声にはせずに呟くが、しかしだとしてもなぜ自分がここにいるのかは
わからなかった。
 ただその割にはしっかりとパジャマに着替えているし、目覚まし時計もきちんとセット
されている。そう考えると、やはり昨日の出来事は夢だったのかと思えてきていた。
 とりあえずまだ「朝だ」と叫び続ける目覚ましを止めて、一階の居間へと向かう。
「維依、おはよう」
 同時に父の声が聞こえて、維依はにこりと微笑んで答える。いや答えようとして固まっ
ていた。
「え、ええーっ!?」
 父の隣に何喰わぬ顔で昨日の青年が座って朝食をとっていた。
「よぉ、起きたか」
「昨日のストーカー男っ!?」
 維依は大声で叫ぶ。
「って誰がストーカー男だよっ」
「貴方です。って、なんでここにいるんですか。でてってください。きえてください」
 入り口の方を指さして維依は八握(やつか)をじっと睨み付ける。
「こらこら、維依。照れているのはわかるが、仮にも許嫁の八握くんに向かって何という
事を言うんだ」
 維依の父がにこやかにとんでもない事を告げていた。
 いいなずけ。え、えーっとそれってお漬け物の一種だっけ。食べるとこりこりしてて美
味し……って、そんな訳ないし。維依はすっかり混乱して、変な考えが浮かんできていた。
「そんなのっ、私、聞いてないしっ。初めて聞いたしっ」
「そりゃそうだろうなぁ。いま初めて言ったからなぁ。はっは」
 泰然と笑いながら告げる父に、埒があかないと維依は溜息をつく。それからすぐに台所
の母親の方へと向きなおる。
 まだ料理をしているようで、背中にいつも通りの一本に結んだ長い三つ編みが目に入る。
「お母さんっ。どういう事なの、これ」
「どういう事って、これから八握くんと一緒に暮らすって事よ」
 さらりと言い放たれていた。あまりにも当然の事だと言うような話し方に、維依は反撃
の機を失ってしまう。
 それからまるで維依が絶句するのを見計らっていたかのように、維依の母は作り続けて
いた朝食を維依の席においた。いつものおっとりとした柔らかな眼差しに、維依はどこか
ほっとする。
「はい。今日はあなたの好きな卵焼きですよ」
「え? わーい、たまごやきだぁ……って、こんなのでごまかされないんだからぁっ」
 そう言いながらもしっかり席について、たまごやきを食べ始めていた。言葉に説得力と
いうものが全くない。
 幸せそうに卵焼きを食べる維依に、八握はにこりと微笑んでくる。
 え、あ。こいつ、こんな優しい笑顔も出来るんだ。内心、どきっと胸の中を振るわせて
八握の方をじっと見つめる。
 考えてみれば昨日の台詞も許嫁だったからなのだろうか。維依は八握の事を知らなかっ
たが、仮にも許嫁であれば維依の事くらい知っていてもおかしくはない。八握にしてみれ
ば決められた事をきちんと守ろうとしただけの事なのかもしれない。
 彼を許嫁だと認めた訳ではないが、それでも彼は彼なりに一生懸命だったのかもしれな
い。そう思うとストーカーだなんて言って悪い事をしたかなぁ。声には出さずに呟いて謝
ろうかと思って箸を止める。
「ガキ」
 同時に鼻で笑う声。おさまりかけていた驚きが、今度は怒りと化してふつふつとわき上
がってくる。
「な、な。私、子供じゃないしっ」
「はっ、卵焼きなんかをそんなに幸せそうに食べる奴のどこがガキじゃないんだ」
 あからさまに馬鹿にした声。
 こいつ、むかつく。むかつくむかつく、むかつくよっ。もう絶対、謝ってなんかやるも
んか。
 心の中で毒づくと、卵焼きだけはしっかり食べてから席を立つ。
「とにかくっ。私は許嫁だなんて絶対、認めないから。絶対、絶対、ぜぇったいだからね」
 最大音量で言い放つと、そのまま居間を後にする。それからばたんっと大きく音を立て
て扉をしめた。
「八握くん、すっかり維依には嫌われたみたいだねぇ」
「まぁ、彼女も照れているのでしょう」
 扉の向こう側からそんな声が聞こえてきていた。
 照れてるんじゃないからっ。思わずドア越しにつっこみそうになって口をつぐむ。
 許嫁だとかなんだとか、突然の事に完全に維依の心の中は混乱しきっていた。
 例えば昨日の出来事を忘れてしまうくらいには。


「ちょっと、離れて歩いてください」  維依はつんとした声で呟くと、はぁっと小さく溜息をついた。  こんなところを誰かに見られたら、どうすればいいんだろ。口の中で呟いて、もういち ど息を吐き出す。 「ま、そんなにつんけんすんなって。俺とお前は許嫁だろ」  八握は笑いながら隣を悠然として歩いていた。なんだかこうなってくると何もかもが腹 立たしい。 「さっきも言った通り、私は全く認めていませんから。だいたい許嫁だとか今時ナンセン スです。有り得ないです。絶対、認めませんから」  維依はぷいと顔を背けて、出来るだけ視界に八握が入らないように気をつけていた。  そもそもなぜ八握が一緒に歩いているのかもわからない。許嫁というのはとりあえず置 いておくにしても、学校までの道のりを一緒に歩く理由なんてないはずだった。  維依の通っている双葉女学院中等部は名前の通り私立の女子中学校である。この方向に は他に学校はないから、ただでさえ通学路に男の姿は珍しいというのに、八握はどう見て も高校生にしか見えない。これで目立たないようにする方が難しい。  かくなるうえは知らない人のふりをするしかない。維依はそう心に決めて、ぐっと拳を 握りしめる。 「お、演歌でも歌うのか?」 「ってそんな訳ないでしょうっ。いいですか、私と貴方は赤の他人なんだから話しかけな いでくださいっ。それから近づかないで。そもそも私についてこないで!」  維依は再び首を背けると、うー、と小さな声で子犬のように唸っていた。  その威嚇が利いたのか、それとも呆れてしまったのか、とにかく八握は言った通りにや や距離を離れていく。  意外と素直に引いたなぁ、と思ってちらと後を見やると、にやりと八握が笑みを向けて 返していた。  慌てて気にしてないふりで顔を戻す。  あー、もう。なんで私があんな奴を気にしなきゃいけないの。口の中で呟いて、溜息を ひとつ。  これからの生活がもうすごく心配になるが、維依には無視する以上の事は出来そうにな い。  とにかく、無視。無視しよう。  ついてきているのかどうかもわからなかったが、とにかく維依は振り返る事もなく歩き 続ける。  学校が近付くにつれて、次第に他の生徒達の姿も見えてきていた。 「なぁ」  背中から八握の声が聞こえてきていてたが、維依はそれも聞こえない振りをする。 「あいつっていつもああなのか」 「あ、よりちはですね。いつもはもっと元気いっぱいですよ」  どこかで聞いた事のある声が八握に答えていた。 「そうか。それなら許嫁相手に無視はないと思わないか」 「ええっ許嫁!? そっか。それで昨日の台詞。うっわー。それって素敵すぎ。なのによ りちってば、昨日からひどいですね、それは」 「だろう。俺は真剣だったのに『完璧に間に合ってます』だぜ。まぁ、それでも俺はあい つを守ってやるけどな」 「うう、泣かせる話ですね。ほんと、これはもう感動ものです」  背中から二人で話す声が聞こえてくる。  む、無視。無視しよう……って出来る訳ないっ。心の中で少し悩んでから維依は振り返 る。話している相手が真弓とでは放っておけば、いつの間にか話がクラス中に広がってい る事は間違いない。  八握が軽薄によっと手を振っていた。その隣には真弓が歩いていて、親しげに二人話し ている。 「私は許嫁なんて認めてないから、言いふらさないでくださいっ。真弓も便乗して騒がな いで!」 「いいと思うケドな、許嫁。それもこんなかっこいい人なのに、何が不満かな、よりちは」  真弓は腕を組みながら、うーんとうなり始める。これは真弓がよからぬ事を考えている 前兆だった。 「お願いだから変な事はしないでね」 「もちろんよ。こっの私が今まで変な事をした覚えが一度でもあった?」 「有りすぎて思い出すのもヤダ」  維依はげんなりとして体中の力が抜けていた。だいたい真弓のやりそうな事は想像がつ くのだが、止めても無駄な事も十分以上にわかっている。もはや真弓と八握が出会ってし まった事を不運に思う以外には維依に出来る事はなかった。 「と、いう訳で。みなさん、投票をよろしくお願いしますっ。ぜひ清き一票をっ」  真弓は学校にくるなり、どこからか箱と紙を用意してきて同級生達に投票を呼びかけて いた。  曰く維依と八握とどっちに同意出来るか。  もはやクラス中に維依に許嫁がいるという事実は知れ渡っている。八握は学校の中にま ではついてこなかったから、八握の顔は知られていないが、それも時間の問題だろう。  あの調子で毎朝八握がついてくるのであれば少なからず目撃されるだろうし、それ以前 に真弓が写真か何かを用意するに違いない。  直接訊ねれば八握は許嫁だと言う事を否定しないだろうし、もはや既成の事実として認 識されてしまうのだろう。 「はい。では結果発表です。なんと八握さん二十五票、よりち三票、無効二票で、圧倒的 に八握さんが支持されました。おめでとうございます。当選された八握さんご本人がいな いので、負けたよりち候補にインタビューをしてみましょう。どうですか、よりちさん」 「……もう、好きにしてよぅ」  半ば涙目になって溜息をついた。こうなるのは始める前から目に見えていたのだ。  こういう投票をすればみんな維依よりも、かっこいいらしい八握に入れるに決まってい る。何せ真弓が思いっきり彼について盛り上げてくれているのだから、当然の結果だ。 「良かったね、いより」 「若宮さん、うらやましいなぁ。私もかっこいい彼氏ほしー」 「ふん、彼氏がいるからっていい気になってるんじゃないわよ」  皆、好き勝手な事を言っていく。  うう、放って置いてください。維依はべちゃりと机に伏せて、はぁ、と溜息をついた。  同時にがらっと教室のドアが開いた。 「こら、これは何の騒ぎだ」  振り向けば国語の稲垣先生が入り口に立っていた。先生の中ではまだ若く二十五、六歳 というところだろう。どこか人気歌手に似ているとの事で一部の生徒からは人気があった。 「まったく、お前達、うちがエスカレートで受験らしい受験がないからって、少したるん でいるんじゃないか。騒ぎの首謀者は――若宮か」  輪の中心にいる維依の姿をみて稲垣先生は維依へと視線を移す。 「ちょうどいい、若宮には用事があったんだ。放課後に生徒指導室までくるように」  それだけ告げると、一同をぐるりと見回して「もう授業は始まっている時間なんだから 静かにするんだぞ」と言い放って扉をしめる。  はーい、と大きな声で一同は返事をする。もちろんそれで静かになるのは一瞬の事で、 担当の先生がくるまでは騒ぎが続くのだが。 「え、えーっと、まだ良かったじゃない。みつかったのが稲垣せんせで。これが赤ぶちだっ たりしたら、大変な事になってたよ」  クラスメイトの一人がぽんと維依の肩に手を置いた。  赤ぶちとは地理の先生で生徒指導も担任している。説教が非常に長い事で有名な先生で、 本当の名は池渕というのだが、赤ら顔なのでこの名で呼ばれている。 「でも、呼び出されてたら一緒よぅ」  維依は机に突っ伏したままで、もう他に何も言わなかった。
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