死神と夏は終わり過ぎゆく (03)
 一週間が過ぎた。
 いま少年はあの病院の屋上に立っている。
 空にはうっすらと星が現れだした。まもなく日も沈むだろう。
 今日は菜緒が楽しみにしていた花火大会の日だった。少年はこの日まで何とか生き残っ
ている。
 恐らく男の言う事は嘘や間違いじゃなかったのだろう。その事を少年は自らの身体で強
く噛み締めていた。
 もうすぐ花火も上がる。
 少年は今まで人の営みに興味は抱けずにいたし、今もそれほど強い関心を感じている訳
ではない。それでも今日は花火をみてみたいと感じていた。
 それまでにはもう少しだけ時間がある。だからいま、一人でここに立っていた。
 ちゃんと花火を見られるように。
 時間が経つのがゆっくりに感じられる。一人でいるからだろうか。思えば菜緒と一緒に
いた時間は、駆け足のように過ぎていった。
 少年は死神だ。見た目の年齢と実年齢は同じではない。
 実際は長く生き続けており、いろんなものを見つめてきていた。
 けれどここ数週間の出来事が、今までのどんな時間よりも、眩しくて掛け替えのない物
のように感じている。この生きてきた時間からすれば、本当に短い一夏の記憶だったけれ
ど、いくつもの初めてを経験していた。
 過ぎ去った時間を少しだけ振り返ってみる。
 その途端、胸の中が締め付けられて苦しくなった。だけどそれは決して嫌な気持ちでは
なくて、辛いけれど暖かい気持ち。
 自分の中にもこんな心がいる事を、少年は初めて知っていた。
 空を見上げる。
 夕焼けが夕暮れへと変わっていく。そして少しずつ暗みを増していた。
 ふとその中に影が見えた。
 何かは分からなかったけれど、目を凝らしてみる。
 しかしその正体を知った時、少年は慌てて駆けだしていた。
 壁を突き抜けて、一直線に影の行く先を目指す。だが影のスピードは少年よりも何倍も
速く、間に合うかどうかも分からない。
 しかしそれでも全速で影を追った。目撃した距離からすれば、何とか間に合うかもしれ
ない。
 壁をいくつもくぐり抜けていく。屋上にいる事が、今は少し仇になった。それに少年の
力は衰えている。自分が思うようには前には進めずにいた。
 それでも力を出し切って、影の行く先へと向かう。
 少年が部屋の中に飛び込むと、同時に影も中に入り込んでくる。本当に間一髪だった。
「よぉ」
 声が少年に向けて投げかけられる。
 目の前に隣町の死神が立っていた。影の正体は、少年が睨んだ通り死神の男だったのだ。
「何の用だよ」
 少年は警戒しながらも訊ねる。それも当然だ。ここに来たからには男は目的は一つしか
ない。やや身構えて、男が突然動き出しても対応出来るようにする。
 男はそんな少年の内心を知ってか知らずか、口元に嫌らしく笑みを浮かべていた。
「決まってんだろ。お前も本当は分かっているんだろーが」
 男は言いながら手の中に死神鎌を作り出した。巨大な鎌を担ぐようにして、男は笑う。
 それを見て少年も同じように力を込める。少年の手の中にも死神鎌が生み出されていた。
「なら、させない」
 そしていつでも切りつける事が出来るように、男に向けて構える。
 死神鎌は肉体と霊体を切り離す。それは霊の一部を切り裂けると言う事だ。
 死神も霊のような存在だった。つまり死神に対して使えば、殺せはしないものの弱らせ
る事は出来る。
 例えば、しばらく死神鎌を振るえないくらいには。
「は。死に損ないの癖に、そんな事が出来ると思っているのか。むしろ俺にやられるのが
関の山だろーが」
 男はせせら笑いながら、少年へと近付いていく。
 その瞬間、少年は、びくっと身体を震わせていた。
 恐らくは男の言う事は正しいだろう。しかしそれでも少年は大きく首を振るって、もう
いちど鎌を男へと向ける。
「かもしれない。それでも僕は決めたんだ」
 淡々と、しかし力を込めて告げる。
 少年の心の中にもうためらいは無い。
「ふざけんな! そんなことてめーに出来るもんかよ!」
 男は突如大きな声を上げて、少年を睨みつける。
 そして少年目指して、一気に鎌を振り下ろした。
 上から落とすように振るわれた鎌を、少年は自分の鎌の柄で何とか防ぐ。
 しかし男の言う通り、少年の動きには切れがなかった。だが間に合ったのが驚きなほど
に、少年の動きは鈍い。
 このままではいつかは男に捕らえられるのは間違いなかった。
 それでも少年は諦めずにいた。
 身体が軋みを上げ、足がふらつく。男の繰り出す一撃に耐えきれず、そのまま数歩たた
らを踏む。けれどすぐに堪えて、次に備える。瀬戸際で今まで踏み堪えてきた。
 ただそれも長くは続かなかった。
 男が力一杯斜めに切り裂く。少年は、鎌の背でそれを弾こうとする。
 だが急にふらりと身体が揺れた。力が尽きかけているのだ。
 足下が崩れた状態で、男の鎌に耐えきれるはずもなかった。
 たたき落とされるように、少年の鎌が弾ける。
 手の中から離れた瞬間、鎌は地面を数度転がり、まるで空気のように消えていく。元々
少年の力によって生み出されたものだ。少年が手放せば力を失う。
「は。やっぱり口だけかよ。どけっ」
 男は少年を蹴り飛ばすと、そのまま奥へ向かって歩いていく。
 菜緒の元へと。
 菜緒はベッドの上で横たわっていた。この時間は眠ろうとして、それでも眠れずにいる
のが常だったけれど、今日は意図的に目を覚ましている。
 花火を見る為に。
 菜緒が楽しみにしていた花火大会。少年は菜緒と一緒に花火を見てみたかった。
 だから少年はずっと今日は屋上で過ごしていた。
 これ以上、死を近付けないように。
 あの時、少年は心に決めていた。菜緒と一緒に花火を見ようと。もしもそれまでに男が
再び現れても、絶対に防ごうと心の中で誓っていた。
 今日は最後の日。
 少年はもはや力の殆どを失っている。菜緒の傍から離れなかったから、そして菜緒の持
つ負のエネルギーを引き受け続けていたから。少年の命は尽きかけていた。
 少年は動く事すら満足にはいかないほどに痩せ劣っていたのだ。だからこそ男の動きに
ついていく事も出来なかった。
 少年は死神だから、力を失っても嘔吐したり吐血したりする事はない。しかし彼の身体
の線は、どこか以前よりも薄くなったように見えた。
 力尽きた少年を横目に、男が菜緒の前で大きく鎌を振り上げる。
「悪いけどな。死んでくれ」
 男は口元に笑みを浮かべて、一気に鎌を振り降ろす。
 その瞬間。
 少年が飛び込んでいた。そのまま菜緒に覆い被さっていく。
 鎌は止まらない。スピードにのって少年を切り裂く。
 いや、切り裂くかのように思えたその寸前に、なんとか男の鎌が止まっていた。もし切
り裂かれていれば、すでに力を失っている少年はそのまま消滅していたかもしれない。
「てめぇ!? なんで邪魔するんだよ!」
 男があらん限りの声で叫ぶ。邪魔をされた怒りなのか、それとも何か違う感情なのか、
男の表情は激しく憤っている。
 少年は男へと睨むように、目線を送る。
 そして菜緒と男の間に防ぐように手を広げて立った。
「僕は、決めたんだ。菜緒に花火を見せてやるって。だから。菜緒を殺させない」
 少年は男から顔を背けようとしなかった。まっすぐに睨みつけていた。
 今までで一番意志を込めた瞳で。
 ふらふらとして足下すらもおぼつかない。手を広げているだけの事にすら、身体中が震
えだしている。それでも少年は男へと、頑とした言葉を目で投げかけていた。
 男は少年の様相に一瞬だけためらって、それから唇を噛み締め少年へと背中を向けた。
「勝手にしろ! お前が死んでも、俺はもう知らないからな!」
 言い残して、男は手の中から鎌を消し、部屋の外へと向かっていく。すぐに窓を透き通っ
て、男の姿は消えた。
 少年はほっと息を吐き出して、そのまま男の行った先を見つめる。しばらくの間、目を
離せずにいた。
 だけど俯いて、それから小さな声で呟く。
「ごめん……。それから……ありがとう」
 少年は喉の奥から何かが零れそうになる。
 少年の決意は揺らぐ事はない。だけど今は感謝の気持ちで溢れそうになる。態度は乱暴
だったけれど、少年にも男の気持ちが理解出来なかった訳ではない。そうでなければ、男
がここにくる意味がわからないから。
 しかし俯いてばかりはいられなかった。もうすぐ時間がくるはずだ。
 少年はそっと顔を上げる。
 その瞬間。
 一瞬煌めく。そして少し遅れて。
 ドドーン!
 大きな音が鳴り響いた。
「あっ、始まったよ!」
 菜緒の嬉しそうな声。菜緒はベッドの上からだったけれど、窓の外を眺めながら、のん
びりとした動作でぱちぱちと手を打ち合わせていた。
 その声を聞いたと同時に、少年は心から安堵して大きく息を吐き出す。
 菜緒はあれから急激に容態が回復していた。未だベッドから降りて動く事は出来なかっ
たが、それでも今まで満足に効かなかった薬の効果も現れだしていた。ドナーも見つかり、
手術をすれば病気も治るかもしれない。
 医者は奇跡のようだと呟き、家族も神に感謝していた。看護士達も皆で喜んでいた。
 少年も。
 心の奥底から嬉しく思えた。
 いまこうしてこの時間を迎えられた事。
 菜緒と一緒に花火を見られた事。
 思ったよりも、ずっとうまく流れた事。
 奇跡とは、起きるものでなく、起こすものなのだと知った事。
 全てを嬉しく思った。
 少しして、もういちど花火が上がる。
 色とりどりで美しいなと、少年はふと思った。そんな気持ちを抱くのも、これが初めて
の事だ。
 菜緒は外を見ている。満面の笑顔を浮かべていた。
「花火だよ。この空を斉くんも見ているかな」
 大はしゃぎで、手を叩く菜緒。他の人の拍手のように、ぱちぱちと音を立てはしなかっ
たけれど、それでもゆっくりと二つの手が合わさっていく。
 少年は、そんな菜緒を見つめながら、静かに微笑んだ。
 生まれて初めて浮かべた、優しい笑顔だった。
 菜緒の呼んでくれた名前。死神として生を受けた彼には、名前を付けるという発想はな
い。だから今まで自分を認識する言葉を持たずにいた。
 けれど今の彼には、斉という名がある。数多くの死神の中で、もしかしたら自分だけが
得たのかもしれない、名前という贈り物。少年にとって、初めて受け取った心。
 あの時、少年は何よりも掛け替えのないものを得た。
 その事が何よりも嬉しくて、それを消してしまいたくないと思った。そして最後までこ
の名前が消えずに済むようにと。
 だから、今こうしてここにいる。
「花火、花火だよ。綺麗だね」
 菜緒は呟いて、それから不意に胸を押さえる。痛みが襲ってきたのだろう。ぎゅっと目
を瞑ると、花火、と小さく声を漏らす。この痛みが薬の副作用だという事も、少年は傍に
いるうちに知っていた。
 菜緒の前に立つ。
 ゆっくりと彼女の頬に手を伸ばした。
 最近毎日のように繰り返した儀式。
 だけどそれも今日で終わりを迎える。
 花火を見る事も出来た。目的は全て果たしたから。
 指先を伝い、少年の中に菜緒が入り込んでくる。
 菜緒の持っていた負のエネルギーを吸い込んでいく。
 胸の中がズキズキと疼く。しかしそれが必ずしも負のエネルギーによるものだけではな
い事も、少年はもう知っていた。
 喉が渇くような気がする。触れたままの指先から、全身に波のように痛みが広がってい
た。
 それでも少年は出来うる限り優しい笑顔を、少しも背ける事なく菜緒に向ける。
 体にどんな負荷が掛かっても、今はいつどんな時よりも、心地よかった。
 少年は微笑む。
「ああ、綺麗だね」
 呟いて。
 菜緒はふぅ、と大きく息を吐き出していた。痛みが治まったのだろう。もういちど外で
上がる花火をじっと見つめていた。もう花火と同じように大きな笑顔だった。
 そして一瞬の、花火が途切れた瞬間に、部屋の中へと振り返る。
「綺麗だったよね?」
 誰もいない部屋の中で訊ねる。
 菜緒の笑顔は変わらなかった。
 だけど少しだけ、顔を落として。それから外を見つめる。
「花火。斉くんと一緒に、みられたかな」
 告げた言葉に、答えはない。
 しんとした部屋の中に、時折花火の鳴らす音が響き渡るだけ。
 ここには何もない。
 だけど残された暖かな空気に、菜緒は頷いていた。もうここには少年がいない事を感じ
取っていたのかもしれない。
 そして病院の外。あの死神の男が立っている。
「相川斉。お前を迎えに来た」
 消えゆこうとしていた少年へと男は手を差し出す。
 少年は驚いて、だけど頷く。
 少年はもう死神じゃない。死を迎えた一つの魂に過ぎなかった。迎えがなければ、その
まま自分の意志ではなく、どこかを彷徨っていた事だろう。
「待っていてくれたのか」
「馬鹿いえ。俺がなんでお前なんかを待たなきゃいけねーんだよ」
 男は呟いて、それから少年の手を取る。
 少年は再度頷いて、それから一度だけ病室の方へ振り返った。
 もう戻ることは出来ない。しかし叶えられた願いに、少年の心の中には恐れもない。
 現れては消える光の中を、二人ゆっくりと登っていく。
 菜緒はいまこの空を見上げているかな。最後に振り返ったのは、そんな思いだった。
 既にここには死神の姿はない。
 空を見上げる少女だけが、一人残されている。夏の空気が辺りを包んでいた。
「私、生きるよ」
 呟いたその言葉は、もう誰にも届かなかったけれど。
 菜緒はぎゅっと目を瞑って、前を向いた。
 空に大きな花が咲いて、散る。
 何度も何度も繰り返された。
 夏は、もうすぐ終わりを告げる。
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