死神と夏は終わり過ぎゆく (02)
 次の日。再び少年は病室の中にいた。
 でも今日はいつもとは違う想いで、ベッドで横になっている菜緒を見つめている。
「僕はしばらくここにはこない事にする」
 彼女には聞こえないけれど、ゆっくりと告げて振り返った。
 あれから時間をかけて考え出した結論は、菜緒から遠く離れる事だった。
 死神は通常、死の影を感じる相手の近くで見守り続けるものだ。それがどうしてなのか
は少年自身も知らなかったけれど、本能的にそうするものだと感じていた。
 しかし負のエネルギーに触れてしまうから死ぬというのなら、傍にいなければいい。菜
緒が死ぬ直前に、またここにやってくればいいだけの話だ。
 男の言う事が本当ならば、それだけでも少年の命は少しは延びるはずだった。もっとも
死神には嘘を吐くという風習はなかったが。
 菜緒は少年が部屋の中にいる事になんて、気が付いてはいないだろう。ベッドに横たわっ
たまま空を見つめていた。
 菜緒の枕元に立つ。
 それからもう一言だけ呟いていた。
「僕はまだ死なない。だから、菜緒も」
 言いかけて、しかし最後まで言葉には出来なかった。
 少年は今なら死を避ける事が出来るかもしれない。だが菜緒はそうはいかないだろう。
少年には菜緒の死の影がかなり濃くなっているのが、はっきりとわかった。
 今まできちんと気にとめていなかったから気が付かなかったけれど、菜緒は入院当初と
は随分と姿を変えていた。肌の色は白を通り越して青白く変わり、ところどころ赤く斑が
出来てしまっていた。痩せ細り食も進まないようだ。手は触るだけで折れそうなほど、肉
付きが衰えている。かなりの発熱もあるようで、息も荒く落ち着かない。
 菜緒は死ぬ。
 奇跡でも起きない限り、菜緒は命を失う。
 なのに生きていて欲しいと願うのは、自分のエゴなのだろうかと少年は思う。
 自分と同じ時に、同じ想いを抱いた少女。たったそれだけの繋がり。それも少年から菜
緒への一方的な絆だったけれど、それでも少年にとっては特別に思えた。
 奇跡が起きてくれればいい。僕も菜緒も助かって二人とも生きていられたら。少年は心
の中で願うが、奇跡は願うだけでは決して起こらない事も知っていた。
 傍で菜緒を見ていたい、せめて彼女を最後まで見守っていてあげたいと思う気持ちも残っ
ている。
 それは死神としては、ごく当たり前の行為だったけれど、その中に普段とは違う心が少
しだけ含まれている事も少年は感じていた。
 しかしそうすれば、同時に少年の余命を縮める結果になる。
 なぜ生きたいのか、生きて何をしたいのか、それはわからない。ただ生物の欲求として
生きたいと願う、それだけの事なのだろうか。少年は自らに問いかけるけれど、答えは浮
かぶ事はなかった。
 死神も生物と言っていいのかは分からなかったし、普通の生物とは違ってはいるけれど、
それでも生と死との間で揺れ動く事だけは間違いがない。ならやはり生きたい気持ちは、
本能なのだろうかと少年は思う。
 少年は背を向けて、歩きだそうとする。
 だがその瞬間、不意に菜緒が身体を起こそうとしていた。
 少年は思わず歩みを止めて見つめてしまう。立ち去るタイミングを逃していた。
 もちろん菜緒が何をしようと、気にせずに行けばいい事だとは、少年もわかっている。
菜緒からは少年の姿は見えないのだから、気にする事なんてなかった。
 それでも少年は、なぜか菜緒が何をしようとしているのかを気にかけていた。
 菜緒はベッドの手すりを掴んで力を入れる。しかしうまく上がらないのか、少しふらつ
いて目をぎゅっと瞑った。はぁ、と息を吐き出して、何とか身体を起こす。
 以前ならもう少し楽に身体を起こしていたはずだった。それなのに緩慢としていて、動
きに精彩を欠いている。
 もともと菜緒は病人なのだから、健康な人のように平易には動けなかった。しかしそれ
にしても身体が重く、動かすだけでも辛そうに見える。今も身体を起こすだけの事で息を
荒げて、少し目まいがするのか目元を抑えている。
 それでも小さくだけど顔を左右に振るって、ベッドの脇から便箋とペンを取り出してい
た。いつもの彼へ手紙を書こうと言うのだろう。
 こんなにも具合が悪いなら、無理をしなくてもいいのに。少年は思うが、それでも菜緒
は書きつづりたい事があるのだろう。何かに耐えるように時々口元を抑えながらも、必死
でペンを走らせていた。
 ふと思い立って、その手紙を覗いてみる。
 菜緒はゆっくりと、揺れ動く手で文章を書き続けていた。
 思い返してみれば字は入院したての頃のような可愛らしい文字ではなくって、読むだけ
でも判別に悩むような、はっきりとしないものが増えていた。きちんとペンを持つ力すら、
もう残っていないのかもしれない。
「……痛い……よ」
 誰に告げるでもなくて、ただうわごとのように呟くと、ぎゅっと目を瞑る。
 無理をしているのだろう。息も荒い。手も震えていた。
 それでも菜緒は、まるで何かに取り憑かれたかのように書き続けた。
 少年は手紙をそっと覗いてみる。手紙の内容は、いつも通り斉という名の誰かに宛てら
れたものだった。
『斉くんへ
 元気していますか。私は、ちょっと元気がないです。
 なんだか急激に疲れてしまったみたい。気持ちも沈んでいます。
 ずっと見守っていてくれましたよね。すごく励みになりました。
 私の傍にいてくれたのは、斉くんだけだから、斉くんにいつか元気な姿を見てもらいた
いなって思っていました。
 でも、私はもう駄目みたいです。
 夢の中に出てきた男の人が、私を殺そうとしていました。
 その人の言う事には、私が生きていると斉くんが死ぬんだって言うんです。だからお前
は死ななくちゃいけないって。
 でも斉くんが助けてくれました。だから私は昨日も死なずに済みました。
 夢の話だけれど、もしも本当にそうだとしたら、とても悲しい事です。私もまだ死にた
くないです。生きていたい。
 でも私はたぶん助かりません。ドナーも見つからないし、体調も以前と比べてずっと悪
くなりました。自分の事ですからわかります。私はもうすぐ死ぬんだと思います。
 もしかしたら薬のせいで鬱になってるのかもしれません。今使っている薬は、そういう
副作用が出る事もあるって、お医者さんに聞きました。昨日、泣いて叫んだのも薬のせい
なのかもしれません。少ないケースだそうですけど、錯乱したりする事もあるそうです。
あるいは夢をみたのも、そのせいなのかもしれません。
 でも、私のせいで誰かに迷惑かけてると思うと、それだけでとても辛かったんです。
 私は何のために生きているんだろう。私は一人では何も出来ないのに、こうして手紙を
書く事だけでも精一杯なのに、生きている意味がわかりません。
 だから、もしも男の人の言う事が本当なのだとしたら、斉くんは私にもう構わなくても
いいです。
 私が生きていて、斉くんが苦しむなら。
 斉くんが、私を殺してください。
 でもそうは言っても、斉くんは自分の事だってわからないかもしれませんね。だって斉っ
ていうのは私が勝手につけた名前ですから。
 斉と言う字には等しいという意味があるそうです。
 だから私と斉くんと、一緒でいられたらいいなって、そう名付けてみました。
 勝手な事してごめんなさい。
 でも、きっといつも傍に感じている貴方は、寂しい私が産んだ空想なのだろうから、そ
れくらい許してくれますよね。
 もしかしたらこうして手紙を書いてる事自体、薬の影響で変になってるからかもしれま
せん。時々自分でもおかしいと思います。見えもしない人に手紙を書くなんて変な子です
よね。私、頭まで病気になってしまったのかもしれません。
 でも斉くんが傍にいてくれること、確かに感じているんです。
 一人はとても寂しかったから、初めて斉くんが近くにいてくれた時は、神様のくれた救
いのように思えました。だからずっと一緒にいたかったんです。そうあってくれるように、
毎日手紙を書こうと思いました。
 でも斉くんといるのは、これが最後ですね。
 一緒に花火が見られない事が残念ですが、でも――』
 菜緒はそこまで書き連ねて、そして筆を止めていた。
 手紙の上に、水滴が一つ二つ。
 いつの間にか涙をこぼしていた。
 昨日のように大泣きはせず、静かに、だけど深く。
 菜緒はぎゅっとまぶたを閉じる。
 ほんの少し、二秒だけ瞑った目を開いて、もう一度筆を進めていた。
『でも私の為に、誰かが苦しむのは、もう十分だと思います。
 だから、もし一つお願いを聞いてくれるなら、私を殺した後は、天国に連れて行ってく
ださい。
                                     菜緒』
 書き終えた手紙を折りたたんで封筒に入れる。そしてベッドの脇の中にある棚にしまい
込んでいた。
 今まで書いた手紙と一緒に。
 引き出しの中には沢山の手紙で埋まっていた。全て封筒に、斉くんへ、とだけ書かれた
切手も貼られていない差し出し先のない手紙。
 手紙はどこにも出されていなかった。あるいは以前思ったように、手紙は菜緒にとって
の日記のようなものだったのかもしれない。そして斉とは、本当に菜緒が産んだ空想の中
の住人という可能性もある。
 昨日、もう一人の死神と起こした激しいやりとりが、眠る菜緒の心の中にほんの少しだ
け届いて、夢にも影響しただけかもしれない。
 普通に考えるなら、孤独な寂しさを紛らわせる為に菜緒が産んだ一人遊びに過ぎないの
だろう。菜緒は病気と闘っている。薬のせいで心が乱れてもいた。だから一人が辛くて自
分を守ってくれる誰かを空想したのだろう。
 だけど、もう少年にはそうは思えなかった。
「菜緒は……僕のことを……知っていた」
 斉と言う誰かが、自分の事だと理解していた。少なくとも少年の中の事実は変わってし
まった。少年は死神だ。名前なんてものは持っていない。だけど今は違う。少年は、斉と
言う存在に変わっていたのだ。
 少年は今まで泣く事も笑う事も知らずに生きてきた。淡々と現世と死の国とを往復して、
魂を導き続けていた。
 今まではそれで十分だったし、他に望むものも感じる事も無かった。
 でも今、少年の胸の中に激しく痛みが走る。それは菜緒の持つ負のエネルギーに身を犯
されていたからかもしれない。一度も感じた事のない、張り裂くような、締め付けられる
ような想いを胸に、少年は強く目を瞑る。
 涙は出ない。声も失われている。
 だけど、少年は生まれて初めて泣いていた。確かに心の内で感じている。
 泣くという行為は苦しくて辛いものなのだろうと、少年は漠然と考えていた。今まで一
度も泣いた事がなかったから、実感として分からなかった。
 しかしいま涙も声もないけど、自分が泣いている事を理解していた。
 そして泣くという行為が、ただ苦しいだけでも辛いだけでもなくて、心の奥底に訴えて
くる何かを感じる事なのだと知ってしまった。
 少年は口を押さえ、込み上げてくる心を抑えながら、じっと菜緒を見つめてみる。
 菜緒はすでに横になって眠っていた。いや時折苦痛に耐えるように目を強く閉じている。
目は覚めているものの、もう起きあがってはいられないのだろう。
 息も荒い。恐らく手紙に書いたように体調も優れないのだ。昨日はたまたま調子が良かっ
ただけで、最近はずっと発熱にうなされて眠れずにいた事も少年は覚えている。
 菜緒は苦しいのか悲しいのか、時折すすり泣くような声を漏らして、目を瞑り歯を食い
しばっている。ここ数日の体調と比べても、かなり深刻な状態に違いなかった。今まで傍
にいて、菜緒はどんなに苦しい時でもあまり声を上げる事はなかった。だから微かにとは
いっても呻きを漏らすのは、菜緒が本当に苦しんでいるのだと少年にはわかる。
 手紙の中で、菜緒は少年に殺してくれと嘆願していた。
 それは苦しみから逃れたいからかもしれないし、本当に斉と名付けた少年の事を案じて
いたのかもしれない。だけど菜緒は死を望んでいる。
 少年は死にたくなかった。生きていたかった。だから今こそ菜緒を死の国へと連れて行
くべきなのかもしれない。二人の気持ちが重なっているはずだった。それは苦しんでいる
菜緒を救う事にもなる。
 それなのに、少年は震えていた。
 殺すべきだ。
 殺した方がいい。
 彼女もそれを望んでいる。
 僕はそれで助かる。
 だから、殺そう。
 心の中で何度もそう繰り返すのに、手の中に死神鎌を生み出す事は出来ずにいた。少し
願えば、すぐに手の中に現れるのに。
 だけど大きく首を振るう。今のままではいけない事もわかっていた。
 喉の奥から、気持ちを振り絞る。
 菜緒へと手を伸ばして、その頬に軽く触れていた。
 死神は肉体に触れる事は出来ない。菜緒は少年の指の感触を感じ取る事は出来なかった
だろう。
 それでも少年はそうせずにはいられなかった。菜緒に触れてみたいと初めて思った。
 それは叶わない願い。だからせめて形だけでも指先を届けてみた。
 菜緒の温もりを感じたような気がする。何かが流れ込んできていた。
 その時、少年は心に決める。
 そしてゆっくりと呟いていた。
「僕は」
 だけどそこから先は言葉にはならなかった。
 ぎゅっと手を握りしめる。
 そして少年が願うと同時に、その手の中に生み出される。
 強く力を込めて。もうためらう事はしなかった。
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