死神と夏は終わり過ぎゆく (01)
「僕はこのまま死んでしまうのか」
 少年は病室の窓から、空を見上げていた。
 空は遠くカーテン越しからでも、ギラギラと強い日差しを浴びせてくる。はっきりと今
日が夏なのだと理解させた。
 少年の年の頃は十四、五歳だろうか。夏だと言うのに彼は黒ずくめのゆったりとした服
を着ていて、いかにも暑苦しい。
 少年の腕には、影のような黒い靄がまとわりついている。忌々しいと声には出さずに呟
く。
 しかし他の誰が見たとしても、その影に気が付く事はないだろう。それは少年だけが捉
えることの出来る影。
「嫌だ……どうして僕は」
 少年は俯いて、歯を食いしばる。どうしても浮かぶ邪念を首を振るって払う。
 それから振り返って、狭い個室の中をじっと見つめていた。
 少年の視線の先。ベッドの上に、一人の少女が横になっている。恐らくは少年と同じく
らいの年頃だろう。まだどこか幼さを残した面影が可愛らしく映る。
 ほっそりとした身体に白い肌。腕の先に伸びた点滴が、頭上から少しずつ彼女へと薬剤
を送っていた。いかにも病人といった風情で、どこか痛々しい。
 しかしその事にも少年は何の感慨も持つ事はなく、淡々とした口調で彼女へと告げる。
「相川菜緒。僕は君を迎えに来た」
 はっきりとした声。傍にいる相手に話しかけるには、大きすぎる声だったかもしれない。
 だけど少女は全く反応を返す事はない。まるで少年の存在に気が付いていないかのよう
にも見える。
 そして少年もその事を不思議には思わずに、菜緒と呼んだ少女を枕元で見下ろしていた。
「君はもうすぐ死ぬ。だから、それまでは僕が傍にいる」
 少年は菜緒へと手をかざす。それと同時に菜緒の身体に隠れていた黒い影が、はっきり
とうごめきだした。
 少年は頷いて、もういちど口を開く。
 少年の言葉は菜緒には届かない。
 それどころか少年の姿は菜緒には、いや他の誰にも見えなかった。なぜなら。
「僕は、死神だから」
 少年は呟いて、それから振り返る。
 これは死神の儀式。死にゆく相手の名を呼び、死の国へと迎えにきた事を告げる。
 それは彼が背負ってきた役割で、名を呼ぶと言う行為はこれから死者になろうとする者
に対する最大限の礼式。
 少年は菜緒を死の国へと連れにきた。
 まだ彼女は一見して、すぐに死にそうな雰囲気ではない。しかし少年には死の影を感じ
取る事が出来た。彼女はまもなく死ぬ。
 そして。
「その後に……僕も、死ぬ」
 少年は苦々しく呟く。
 胸の奥が深く痛んでくる。
 今までどんなに人を連れていっても、人が泣き叫んでも何も感じる事もなかった。
 だけどいざ自分が死を迎えようとした瞬間、少年は初めて死を迎える人の気持ちを理解
していた。
「死神も死ぬなんて思いもしなかったな」
 呟いて、それから病室を抜け外へと向かう。だけど少年はドアなんて通らない。窓をす
り抜けて、夏の空気を感じていた。
 激しい光がじりじりと照り返す。しかし少年はそれを気に止める事もなく、もういちど
空を見上げた。少年は死神だから、夏の暑さを感じる事もない。ただ強い光を認識しただ
けだ。
 少年は自らの手の平を見つめて、ぎゅっと目を瞑る。
「僕はもうすぐ死ぬ」
 呟く度に、胸の中が締め付けられた。彼は死神だから死という現実にもどこか淡々とし
て、けれど自身の死には苛まれている。それは受け入れがたい事なのに、何故か納得して
しまい、混沌とした心がこう呟かせてしまう。
 知ってしまった事実は何よりも重い。死を迎えると言う事が、こんなにも自分の中を空っ
ぽにして、狂おしいほどの焦燥を産むなんて事は今まで知らずにいた。
 死んだ後どうなってしまうのかも知らずにいる。死神も死の国へといけるのか、それと
も煙のように消えてしまうのか。心の中で問いかけるけれど答えは出ない。もちろん答え
るものもない。
 少年はいつだって一人だ。彼のそばには誰もいない。別の死神を見かけた事はあるけれ
ど、縄張り意識の強い死神は、お互いむやみに関わらないのが常だった。
「僕はもうすぐ死ぬ」
 何度となく呟いた言葉。
 自分の死を意識してから、まるで口癖のようになってしまった台詞。
 少年は死神だと言うのに、自身が死を迎えるとなった瞬間、吐き気がするほど身体が震
えていた。それでいてどこか冷静な自分も同時に感じていて、自分で自分がわからなくな
る。
 自分勝手だな、と声には出さずに呟く。少年は今まで恐れという感情を知らなかった。
理解する事すら出来なかった。
 いまやっとその感情を覚えて、初めて思う。
「……僕はまだ死にたくない」
 夏の空は深く青い。白い雲がなぜか嘘くさく思えた。
 空気がべったりと暑く迫る。


 あれから少し時間が過ぎた。
 少年はあの時と同じ病室の中に今日も立っている。
 少年が菜緒と呼んだ少女は今日もベッドの上で横になっていた。もっとも彼女がベッド
から降りているところを、少年は殆ど見た事がなかったが。
 恐らくは菜緒が最後に死を看取る人間になるだろう。
 彼女はもうすぐ死ぬ。ここ一、二週間の間、病気の進行は著しく、体力も以前と比べて、
格段に衰えている。
 菜緒が不意に両目を瞑る。手を強く握りしめて、何も言わずに歯を食いしばっていた。
 恐らくは痛みに耐えているのだろう。菜緒はこうして時々激しい胸痛や嘔吐を訴える事
があった。
「ふぅ」
 大きな溜息を一つついて、身体に入っていた力を抜く。少し落ちついたのかもしれない。
 菜緒は、今はまだ何とか普通にしていられた。しかしまもなく急激に体力が衰え死ぬこ
とになる。
 少年は何も言わず、そんな彼女を見守り続けていた。少し近くに寄って、菜緒の様子を
眺めてみる。
 人には見えなかったけれど、黒い死の影が彼女の周りを漂っている。彼女の死が近づい
ている証拠だった。
 不意に菜緒が少年の方へと顔を向ける。身体は動かすと辛いのか、寝そべったままだっ
たけれど、確かにこちらを見ていた。
 少年の胸が少し痛む。菜緒には少年の身体は見えていない。だから偶然に過ぎないとい
う事はよくわかっていたし、今までそんな事を気にした事もなかった。
 それでも今は、何故か菜緒の視線にズキズキと痛みを覚えた。
 一瞬だけ、彼女が微笑む。
 それから菜緒は少しだけ声を漏らした。
「私、がんばるんだから。絶対病気なんかに負けない。まだやりたい事残ってるもの」
 言って、しかしまたすぐに目を瞑る。身体に強く力が入っていた。痛みを堪えているの
だろう。
 菜緒は死ぬ事が怖くないのだろうか。少年は心の中で呟くが、彼女にはあまり死を恐れ
ている様子は見られなかった。
 もっとも菜緒はまだ知らないだけかもしれない。少年のように死の影を感じ取れる訳で
はない。だから病気が治ると信じているのかもしれなかった。
「知らないって事は、幸せな事かもしれない」
 思わず声に出していた。
 そして自分の手を見つめてみる。
 菜緒ほど色濃くはなかったが、しかし死の影がまとわりついているのが確かに見て取れ
た。

 自身の死が近い事も、少年は知ってしまっている。
 死を恐れてしまうのも、その癖どこか諦めたかのように落ち着いてしまう心があるのも、
死を知っているからかもしれない。少年の心の中には空のように何もない。
 不意に菜緒がもういちど微笑んでいた。
 その笑みに少年は少しだけ驚いて顔をそらす。
 彼女はこうして時々少年の方に向かって微笑む事があった。その笑みに少年は初め、も
しかして菜緒には自分が見えているのかと、胸を揺らさずにはいられなかった。
 しかしその笑顔の正体に気付いて、少年はほっと息を吐き出す。
 菜緒はいつも手紙を書いている。その手紙を書き始める前と、書き終えた時に、彼女は
いつも笑っていた。恐らくは手紙の宛主に向かって微笑んでいたのだろう。
 狭い病室の中だけに、自然と少年の方へと顔を向ける事が多くあった、それだけの事に
過ぎなかったのだ。
 菜緒は体を起こそうとして、手すりを持って力を入れる。最近は調子を崩していたよう
だったが、今日は比較的すんなりと起きあがれていた。
 それから引き出しから、ペンと便箋を取り出して菜緒は今も手紙を書いている。特にこ
このところは、まるで日記のように殆ど毎日書き続けていた。
 そしてその手紙をこっそりと覗き見るのが、最近の少年のささやかな楽しみだった。
『斉くんへ
 今日の菜緒はいつもよりもすごく具合がいいです。でも最近は体調を崩してしまって、
あまり起きている事が出来ません。
 早く病気が治るといいんだけど、まだもうしばらくかかりそうです。でも元気になった
ら、外で思いっきり遊ぼうって決めています。
 とはいっても、さすがに来週の花火大会には間に合いそうにないですね。
 残念だけど仕方がないので、病院の窓から見る事にします。去年も見ましたが、結構綺
麗な花火なんですよ。とても楽しみです。雨で中止になったりしなければいいけど。
 斉くんも花火を見たりしますか? 一緒の空を見られたら嬉しいです。一人は寂しいで
すから。
 それが今、私が思う一番の願い事です』
 いつの頃からか書き始めた彼女の手紙は、いつも通り斉と言う名の誰かに向けられたも
のだった。恐らくは菜緒の彼氏か、そうでなければ想い人なのだろう。
 しかしその想いは届かない。まだ彼女はすぐに死ぬようには見えなかった。けれど確実
に死の影は迫っている。
 事実、入院してから彼女の体重は十キロ近く下がっていたし、嘔吐や胸痛を訴える事も
多い。それは治療の副作用だった。
 菜緒は死ぬ。
 菜緒の死を考えた瞬間、少年はどうしても自分も死ぬのだと思い起こしてしまう。
 死にたくない。まだ消えてしまうのは嫌だ。そう願う一方で、少年の心のどこかで諦め
てしまっているところもあった。それは自分の死を知ってしまっているから。
「そうだ。知らなければ、僕も苦しまずに済んだのに。なんで僕は」
 呟いて首を振るう。
 考えても仕方がない事は分かっていた。それでも一人嘆きを独白せずにはいられなくて、
思わず言葉を漏らす。
 しかし聞いているものはいないとばかり思っていたのに、不意に少年の声に答えが返っ
てきていた。
「相変わらずとろい事言ってんじゃねーか」
 声の方へと振り返る。そこには少年と同じ黒ずくめの服に身に包んだ男の姿があった。
 少年よりはやや年上のように見える。人間でいえば高校生くらいだろう。よく言えば精
悍な、悪く言えば目つきの悪い男が一人立っている。もっとも若く見えるとは言っても、
本当の年と一致している訳ではないが。
「君は、隣町の」
 少年は男を眺めながら呟く。
 男は少年と隣接する地域を担当する死神だった。
 ただし何度か言葉を交わした事くらいはあったが、今までろくに話した事はなかった。
死神には縄張り意識のようなものもあって、殆どの場合、あまりお互いに干渉する事を好
まない。だから存在を知ってはいたが、特別に話しかけてみようとも思わなかった。
 しかしなぜかいま、男は少年の担当する地区に入り込んでいた。そしてくくっと笑みを
零して、少年の方へとあごを向ける。
「やっぱりな。お前、死にかけてるじゃねーか。死神の癖に情けない奴だ。そのままじゃ
せいぜい一月がいいとこって感じだな」
「……ほっといてくれ。寿命なんだ。僕の好き勝手に出来る訳じゃない」
 少年は憮然とした顔で呟くと、男から視線を逸らす。
「寿命ねぇ。くくっ。こりゃあいい。ならお前が死んだら、俺が代わりにこの辺りを仕切っ
てやるよ」
 男は口元に嫌らしい笑みを浮かべながら、少年とそれから菜緒の姿を見つめていた。
「おっと。そいつも死にかけてるじゃねーか」
 男はあごで菜緒を示すと、彼女の方へと近付いていく。
「この様子なら下手すればあと一週間、長くても一月ってところだな。じゃ、俺がこの地
域を貰う事になる訳だし、初仕事といくか」
 男は呟いて、それから手の中に巨大な鎌を生み出していた。
 この鎌は死神がもっている力の一つで、肉体と魂を切り離す能力がある。死神は死の瞬
間、この鎌で魂を刈り取り、死の国へと連れて行くのが役割だった。
 男は鎌を振り上げようとする。
 しかし男が鎌を振り下ろす前に、少年は男の服を掴んで叫んでいた。
「何をする!」
「決まってるだろ。どうせもうすぐ死ぬんだから、早いとこ引導渡してやるんだよ」
「ふざけるな! まだこの子は死ぬまでに時間があるし、何よりここは僕の担当区域だ!
 勝手な事するんじゃない!」
 少年は男を睨みつける。だが男は少年の手を激しく払いのけると、逆にすごみを効かせ
て少年を見下ろす。激しい痛みが少年の手の中に走った。
「は。死に損ないが、偉そうな事言うんじゃねーよ」
 男は少年に手の平を向けると、触れもせずにぎゅっと握りしめる。その瞬間、少年の身
体が軋みを上げていた。これは死神の力の一つだ。
 そのまま腕を振るうと、男の手の動きに合わせて、少年は部屋の奥へと投げ出される。
全身が引き裂かれるように痛んだ。
「だいたい死ぬ直前まで待つなんて悠長な事言ってるから、お前は死にかけているんだよ」
 部屋の隅に倒れた少年に、男は吐き捨てるように告げていた。どこか苛ついた顔で、少
年を見下ろしている。
「……どういう……ことだよ……」
 やや息を荒げ倒れたままで、それでも少年は男へと睨み返した。自分の地区内で好き勝
手な事をさせるのは許せなかった。
 しかし男の物言いは、まるで少年が死を迎えようとしている理由を知っているかのよう
に思える。だから腹立たしくはあるものの、興味を引かれざるを得ない。
 そんな少年の内心を見透かしたかのように、男は嫌らしく口元を綻ばした。
「簡単なことさ。人間は死にかけた時、強い負のエネルギーを放つ。そんな時、口につい
て出るものさ。死にたくない、死にたくないってね。それは強いエネルギーだ。死神と言
えども長い間そんなものに触れていると、命を削られてしまうのさ。だから」
 男は菜緒の方へと一瞬だけ視線を移した。
「そんなものを放つ前に殺してしまえばいい。そうすればお前もまだ助かる。え、死にた
くはないだろーが。だから、殺せよ」
 冷たい笑みを浮かべて、少年を踏みつける。
「がっ」
 少年は痛みに呻きを漏らし、苦悶の表情を浮かべていた。
「まぁ、さっさと仕事を済ませて、せいぜい長生きするんだな」
 男は嘲ら笑いながら、病室の壁の向こうへと溶け込んでいく。死神にとって、その気に
なれば壁や扉なんてものはないのと変わらない。いつでも通過する事が出来た。
「くそっくそっくそっ……僕は」
 吐き捨てるように呟くと、男の消えていった方向をじっと睨みつける。
 本来同等の力関係であるはずの二人だったが、今の少年の力では男に抗う事は出来なかっ
た。これも男の言う負のエネルギーに触れ続けてきたせいだろうか。
 もしも奴の言う事が本当なら僕は。声には出さずに呟くと、傍にいる菜緒を垣間見る。
 彼女は疲れたのか横になって眠っていた。手紙に書いていた通り、今日は具合がいいの
だろう。珍しく見せた安らかな寝顔だった。いつもなら眠る事すらも満足に出来ずにいた
のに。
「菜緒を殺せば、僕は」
 いつの間にか声に出していた。しかしその声は菜緒には聞こえない。少年は菜緒の前に
立って、手の平をじっと見つめる。
 今なら菜緒は苦しみを感じる事もなく、簡単に死を迎えるだろう。少年にはそれだけの
力がある。男が見せたように、死神鎌で魂を刈り取ればそれで終わりだ。あるいは少年の
手は直接魂を掴む事も出来るから、無理矢理身体から引きずり出してもいい。
「僕は、まだ死にたくない」
 菜緒へと手を伸ばす。
 そして菜緒へと触れようかという瞬間。少年は不意に手を止めていた。
「僕は」
 死にたくない。そう願うのに、手が動かなかった。何故だかはわからない。ただ全身が
震えて、思うように操る事が出来なかった。
 それでも無理矢理に手を進めた。菜緒の頬に軽く指先が触れる。
「ん……」
 少年が触れた事に気が付いた訳でもないだろうが、その瞬間、菜緒が小さく声を漏らす。
 菜緒はまぶたをゆっくりと開けて、ぼんやりと少年を見つめている。
 本当は恐らく目が覚めて、そのまま天井を眺めていただけだったのだろう。それでもまっ
すぐ自らにぶつけられた視線に、少年は思わずその場を飛び退いていた。
 そんな少年をよそに、菜緒は少し身体を起こして、辺りをぎこちない動作でゆっくりと
見回している。
「誰も……いないね」
 菜緒は不意にささめくと、それから突然ぼろぼろと涙を零し始めていた。
「でも、確かにそこにいたのに。それで私を。私を」
 夢でも見たのだろうか。菜緒は何かを思い出すかのように、強く目を瞑っていた。
 そして布団を叩き付けながら、突然大声で泣き叫んだ。
 その声に気が付いたのか、部屋の中に看護士の女性が駆けつけてくる。
「菜緒ちゃん、どうしたの?」
 心配そうに訊ねる看護士に、菜緒は振り向いて、もういちど目を瞑る。
 そのまま大声で叫び始めた。
「伊藤さん伊藤さんっ。私、生きてちゃいけないんだ。私が生きてるから、迷惑かけてる。
それだけじゃない。私、伊藤さんにも迷惑かけてるよね。お父さんもお母さんも、私のせ
いで辛い目に合わせてる。インターフェロンなんて高い薬使っても、私、ぜんぜん効果が
無かった。毎日毎日、一生懸命注射したのに。痛くて痛くて溜まらなかったのに。私、薬
すら満足に効かない身体なんだ。何の役にも立たない。お金だってすごく掛かったのに。
お父さんがその為にどんだけ苦労してるのか、私、知ってる。私、生きてるだけで、迷惑
しかかけない。だから私、死ななきゃいけないんだ。生きてちゃいけないんだ。でも私、
まだ死にたくない。死にたくないよ。いつになったらドナーが現れるの? もう私、待て
ないよ」
 大きな声で泣き崩れながら、菜緒は看護士にすがるように抱きついていた。
 看護士も突然の事に驚いてはいたのだろう。初めはやや慌てた様子を見せていたが、す
ぐに落ち着きを取り戻して、菜緒を軽く抱きしめる。
「大丈夫だから。そんなことないよ。生きてていけない人なんていないんだから。私はぜ
んぜん迷惑じゃないし。菜緒ちゃんのご両親も、なかなかここにはこれないみたいだけど、
一生懸命助けようとしてがんばってるからね。菜緒ちゃんに助かって欲しいからだよ。そ
れに菜緒ちゃんはまだ死んだりしない。ドナーもいま一生懸命探しているからね。諦めちゃ
だめ。ね」
 看護士が必死で宥めていたが、菜緒はあらん限りの声を上げて泣き続けていた。
「いやだっ、もう待てない。どうせ私、だめなんだから。生きていられないんだから。待っ
ても変わらない。お母さんやお父さんがここにこないのも、私がいらない子だからだ。私、
もういちゃいけないんだ。うわああ」
 菜緒は泣きながら、その手で看護士を何度も叩き付けていた。しかしろくに音が立つ事
もなく、力は殆ど入っていなかった。入れる事が出来なかったのだ。
 痩せこけた細い腕には、沢山の注射痕が見える。そういえば菜緒は毎日、自分で注射を
していたなと少年は思う。
 菜緒が使っている薬は、他の薬と違い自分で注射するのが通常だった。ただでさえ痛い
注射を自分で打つというのは、余計に気分を滅入らせるだろう。それくらいの事は少年に
もわかる。今まで気にも留めなかったけれど、こうしてみると痕が痛々しくも感じた。
 昼間見ている時は菜緒は泣く事なんてなかった。時折、病気のせいか嘔吐したり、発熱
したりする事もあったけれど、それでも苦しそうにしながらも、涙を見せはしなかった。
 だから少年は、菜緒は死ぬのが怖くないのかと考えていた。
 しかしそれは違っていたと少年は今になって気が付く。普段はずっと感情を押し込んで
いて、平気な振りをしているだけだったのだ。
 小さなことで、恐らくは夢の中で何かを見たのだろう、それだけの事でも、きっかけが
あれば、こうして感情を爆発させてしまう。
 これがもう一人の死神の言う負のエネルギーなのかもしれない。少年はふと思い、自身
の胸に手を当ててみる。
 こうして菜緒が感情を爆発させていく度に、少年の命は失われていく。その証拠なのか、
胸がズキズキと強く痛んだ。
 この痛みを止める為には、菜緒を殺すべきなのか。少年は心の中で自分自身に訊ねる。
 自身が生きる為に、他の誰かを殺す。それは自然では珍しい事ではない。動物は食事を
得る為に他の生物を殺し食らう。
 少年は食事を取ることは無かったけれど、その事と、少年が生きる為に菜緒を殺す事に、
どれだけの違いがあると言うのだろう。そこに差異はないはずだった。
 どちらにしても菜緒は死ぬ運命にある。ならここで殺めたところで、ほんの僅か死期を
早めただけ。大した差など有りはしない。
 少年は強く手を握りしめる。
 菜緒はまだ泣いていた。
 それでももう大声を上げる事もなく、なんとか涙を堪えようとしている。あるいは泣き
疲れてしまったのかもしれない。菜緒は泣き続けるだけの体力も残っていない。
 もうすぐ菜緒は死ぬ。彼女自身もうすうすは、それを感じ取っているのだろう。
 だからこそ負のエネルギーを吐き出し続けている。それは少年を捉え、そして命を削ら
せていた。
 なら生きる為には菜緒を殺すしかない。
 手の中に死神鎌を生み出す。そして菜緒へとゆっくりと鎌を向けていた。
 苦しむのは一瞬の事だ、すぐに終わる。少年は声には出さずに呟くと、大きく鎌を振り
かぶった。その瞬間。
「私はまだ……死にたくない」
 すすり泣く菜緒が、最後にもう一度だけ声を漏らした。
 同時に振り下ろそうとした鎌を、どうしてか直前で止めてしまう。そのまま鎌を落とせ
ば、確実に菜緒の命を奪えたと言うのに。
 だけど出来なかった。
 菜緒の中に同じ感情を感じ取っていたから。
 まだ死にたくない。生きていたい。恐らくはまともな生物であれば誰しもが抱く感情。
 今まで相手のそんな想いに耳を傾けた事など無かった。それは少年にとっては理解出来
ない感情だったから。あるいは聞いても無駄な事だったから。
 けど今は違う。
 自身が死に面して、初めて感じ取っていた。
 人も死神も変わらない。そのことが胸の奥深くに強く染みこんでいく。
 そしてどうして手を止めたのか、気が付いていた。気付いてしまっていた。
「今の菜緒は、僕自身だ」
 同じ気持ちを抱く相手。
 少年は彼女の心が痛いほどにわかった。だから、殺せなかった。そうした時、自分の気
持ちまでも切り裂いてしまうようで。
 それが自らの死に繋がっていくのだとしても、少年には菜緒の命を奪う事なんて出来な
かった。
 少なくとも最後の願いだけでも叶えてあげたい。いつの間にかそう感じていた。
 せめて夏の空に映える、大きな花火が咲くその日まで。彼女を見守っていたい。
 少年は深く願った。
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