鏡の国に戦慄を (25)
「だったら心なんていらない! 私はもうひとりぼっちになんか戻りたくないんだ!」
 佐由理の声が東京タワーの中を駆けめぐった。
 怒号のようなその声と同時に、唐突に辺り一面が炎に包まれていた。
「なっ!?」
 思わず巧は声を漏らす。
 だがその声は誰にも届かない。
 佐由理の表情は強く歪んでいた。
 涙をぼろぼろとこぼして、激しく目をつむる。
 髪を揺らしながら首を振るうと、暴れるようにして手を振るった。
 同時にその手の先から炎が生み出されていた。東京タワー中を佐由理の炎が包み込んで
いく。
「いやだいやだいやだいやだいやだ!! もう絶対に戻りたくない。もう一人になんてな
りたくないの」
 佐由理は悲痛な声を漏らしながら、激しく炎をまき散らしていた。
 巧はときおり向かってくるその炎を避けるだけでも精一杯だった。
 だがまき散らされる炎が、聖や七瀬にも迫っていた。
「聖! 七瀬!」
 巧は叫びながら二人の元に向かう。
 彼等は全く動けない。このまま放っておければ、焼け死んでしまうだろう。
 だが二人にはもう心がない。生きてはいないのだ。
 なのにどうして二人を守ろうと思うのか、巧は自分でもわからずにいた。
 二人へと駆け寄っていくが、二人は全く動かない。
 いや巧がそう思った瞬間だった。
 唐突に聖と七瀬が巧の体を押さえつける。
「な!? なにが」
 巧は思わず慌てて振り払おうとするが、感覚のない左腕が言う事を聞かなかった。
 そして二人によって地面へと押しつけられる。
「巧くん。馬鹿だね。二人は私は言う事をきくって言ったでしょう」
 ふと佐由理の声が響く。
 その声をきいて、やっと巧は二人が佐由理の指示で巧を押さえつけていたのだと気が付
いていた。
「佐由理さん! なんで」
「私はみんなと一緒でいい。もしもこんなに辛いのが心があるからというなら、心なんて
いらない。だってもう一人は嫌だよ。みんな私をおいて、どこかにいってしまう」
 佐由理は大きく首を振るって、それからまっすぐに巧を見つめていた。
「お父様もどこかにいってしまった。突然私の呼びかけに答えてくれなくなった。この世
界では誰も私の呼びかけに答えてくれない。辛いよ、悲しいよ。私はずっとこの世界で一
人ぼっち。
 でも入ってくる人間達はみんな私の仲間を殺していく。喋られなくても何も言えなくて
も、彼等だけが私の仲間だったのに。
 でもみんなは何も感じて無くて、ただ生まれては消えていくばかりで。
 私だけが一人悲しんでた。
 でもやっぱり私は違う。他のみんなと違うんだ。私には心があるから、みんなが感じな
い事を覚えていく。
 でも、こんなに、こんなに辛い思いをしなきゃいけないのなら、心なんていらなかった。
 巧くんがいなければ、私だけが違うって、気が付かずに済んだのに!」
 佐由理が張り裂けそうな声で叫ぶと同時に、巨大な火の球を空中に生み出していた。
 そしてその火球を巧へとぶつけようと手を掲げる。
 その瞬間だった。
 唐突にその声は響いた。
「やめてお姉ちゃん!」
 届いた声に顔を上げる。
 佐由理のむこうに、十二、三歳くらいの少年が立っていた。
 少年はふらふらと体をよろめかせながら、少しずつ佐由理の方へと近づいていく。
「タカヒロ……」
 佐由理は少年の名を呼んで、困惑したように動きをとめていた。
 高広は佐由理の力によって閉じこめられていた。その為に恐らく佐由理が混乱した事で、
縛めが解けたのだろう。
「飛行船から出てきちゃ駄目だよ。タカヒロ。あそこなら安全だから。もうすぐ終わらせ
るから。そしたらお姉ちゃんと一緒に暮らそう」
 どこか不安で崩れそうな顔つきで、それでも何とか笑顔を作って佐由理が語りかける。
 しかし高広は大きく首を振るう。
「お姉さんと一緒になんて暮らせないよ。だって僕はお姉さんの弟のタカヒロじゃないも
の。ボクにとってのお姉ちゃんは一人だけだよ。ね、菜々美お姉ちゃん。どうしてそんな
ことをしているかわからないけど、もうやめよう」
 高広は言いながら七瀬を見つめていた。
 高広は佐由理ではなく、本当の姉である七瀬を見ている。
 七瀬の心がどこかにいってしまっている事なんて、高広にはわからないのだから、それ
も当然かもしれなかった。
「……どうして。どうしてタカヒロまでそんなことを言うの。なんで私を一人ぼっちにす
るの。もういやだ。嫌だよ。そんなこというのなら、タカヒロだって、もういらない!」
 佐由理は強く目を閉じて、そして両手を大きく掲げていた。
「高広、逃げろ!!」
 巧に出来るのは大声でそう告げる事だけだった。
 しかし高広は驚きの為か衰弱している為か、その場から全く身動き一つとれないでいる。
 駄目かっ。心の中で叫んで、巧は歯をぐっと噛みしめる。
 それと同時に不意に体が軽く感じていた。
 そしてゴゥンと激しい音が響きわたる。
 佐由理の投げつけた炎が、辺りを包み込んでいた。
 もうもうと激しく揺れる。
「なんで……」
 佐由理が困惑した言葉を漏らす。
 そして倒れた自身の体の上にしがみつくようにして捕まえている七瀬をじっと見つめて
いた。
 佐由理が術を唱えようとした瞬間、突如七瀬は駆け出していた。
 そして佐由理の手を押さえるようにして飛び込んでいた。
 炎は定めていた狙いを外れ、高広の真横を通り過ぎた。
「お姉ちゃん!」
 高広が慌てて駆け寄っていく。
「古川!」
 巧もまだ捕らえたままの聖を振り払ってそばに向かう。
「なんで……なんで私は何も指示していないのに動けるの」
 佐由理は呆然としたまま七瀬を見つめていた。
 押さえ込んでいる七瀬を振り払う事もせず、佐由理はただ驚きを隠せずにいる。
「心が、ここにあるからだと思う」
 七瀬が不意に呟く。
「私、この世界で命を失ったあと、ずっと辺りをさまよっていた。ずっとこうさんの側に
いたけど、声は届かなくて。こうさんも気が付いていなかったよ。だから私は幽霊になっ
てしまったんだなって思った。でも高広の姿をみて、何とかしなくちゃって必死になった
の。そしたらいつの間にか私の体に戻っていた」
 七瀬はゆっくりと呟く。
「お姉ちゃん、良かった。元に戻ったんだね」
 高広が七瀬に飛びつく。
「ちょ、高広。恥ずかしいよ」
 七瀬は照れて顔を赤くしながらも、まんざらでもない様子でえへへと笑い声を漏らした。
「古川、戻ってきたんだな。良かった。良かった……」
 巧の目から涙がこぼれていた。
 七瀬が戻ってきたことに心から安堵の息を吐き出していた。
 嬉しさと恥ずかしさと驚きで、困惑を浮かべていたが。
「三枝……ううん、こうさん。うん、私、帰ってきたよ。何たって天然を超える天文だか
らね。空気読めないの」
 もういちどえへへと声を出して笑う。クラスメイトの古川としてでなくて、ゲームの世
界の七瀬として彼女は巧へと声をかける。
 その様子はいつも通りの七瀬で、巧はほっと胸をなで下ろしていた。
「ねぇ、佐由理さんだっけ。もうセッションの時間もあと二、三分もすれば終わるから、
私達はこのままでも帰られるのかもしれない。でもね。でもでもだよ。このまま佐由理さ
んのことを放ってはおけないよ」
 七瀬は佐由理を押さえ込んだまま、軽く首を振るう。
「……そうね。私がこのままじゃ危険だものね。またこんな事を引き起こすでしょうから」
 佐由理は何か諦めた様に、憮然とした声で答えていた。
 七瀬はさほど力はないから、暴れ出せばいくらでも逃げられたかもしれない。それでも
佐由理は観念したかのように、もうじっとその場に留まっていた。
「そうじゃないよ。佐由理さんは一人ぼっちになるのなら、心なんていらないってそう言っ
てた。それって、私わかる気がする。だって、私もいつも高広と二人きりだから。高広が
いなくなった後から、ずっと私も心配で気が変になりそうだった」
 七瀬は告げながら、佐由理の手を離す。
「ずっと一緒にいてくれた人がいなくなるって辛い事だよ。一人でいるって悲しい事だよ。
私、佐由理さんの気持ちわかるよ」
「……そんなことっ!」
 佐由理は地面に倒れたまま、顔を背ける。
 どうしていいのかわからないようだった。
「佐由理さん。佐由理さんは本当は優しい心をもっているんだと思う。さびしさから少し
おかしくなっちゃっただけ。私が佐由理さんと同じ立場だったら、高広を無理矢理連れて
帰ろうとしたのかもしれない」
「お姉ちゃん」
 高広が七瀬を呼ぶ。
 七瀬は優しい顔をして、高広の手をぎゅっと握った。
「私にとって高広は大事な人なの。だから私は与えられたミッションの通りに、PKを繰
り返した。そんな私と佐由理さんと、何も違いなんてないよ。私のしたことだって、きっ
と許されない事なんだと思う。でも想いの為に人はおかしくなれる。それが心と言うもの
だと想うから」
「……」
 七瀬の言葉に佐由理は何も答えない。いや少しだけ自嘲気味に笑みを浮かべて、ゆっく
りと口を開いた。
「私を憐れむと言うなら、タカヒロを私にちょうだい」
「駄目だよ。私にとって高広は大事な人なの。だから佐由理さんにあげる訳にはいかない。
それに高広は誰かにあげたりもらったりするようなものじゃないよ。高広は高広自身のも
のだから、高広自身しか決められない」
「お姉ちゃん」
 七瀬の言葉に高広が七瀬の手を強く握る。二人の間に何か暖かい空気が包まれたような
気すらしていた。
 しかし逆に佐由理はまた顔を伏せて、再び自重の笑みを漏らす。
「だったら……私は結局一人だね。なら、やっぱり心なんて持たなければ良かった」
 佐由理は顔を背けたまま、力無く地面に伏せている。
 一時的にぶつけようとした強い感情も、もう全て枯れ落ちてしまったのだろう。その場
から動こうとも立ち上がろうともしない。
「佐由理さんは一人じゃない」
 不意に巧が告げる。
「いまこうして俺達と話しているじゃないか。俺はどうしても佐由理さんの事を悪く思え
なかった。佐由理さんがどんな風に辛い気持ちを抱えていたかなんて俺にはわからないけ
れど、でも佐由理さんが悪い人だとは思えなかった。普通に一緒にパーティを組んで、一
緒に冒険ができて。他の人達と変わらなかった。だから、友達になればいいと思う」
 巧は強く思う。
 佐由理はゲームの世界の住人かもしれない。だからこそ多少考え方が異なるところはあ
るかもしれない。
 だけど彼女はごく普通の少女だった。
 家族が愛しくて恋しくて、ただ震えているだけの少女だった。
 家族への想いが過ぎて、間違った方向につっぱしてしまっただけだと巧は思う。
 七瀬が高広の為にPKをしてしまったように、強い感情に揺れてしまっただけだと思う。
「こうさん、うん。それがいいアイディアかも。なら私も友達になるよ」
 ぽんと柏手を打って、七瀬がうなずく。
 そして佐由理へ向けて手を伸ばす。
「うん。友達になろうよ。そうしたらもう一人じゃないよ。そうしたらもうこんなことし
なくてもいいよ」
 七瀬は笑顔を浮かべて、佐由理を見つめていた。
 たぶん七瀬は巧よりもずっと佐由理の事を理解していたのだろうと思う。七瀬は家族を
失う辛さを誰よりも知っている。
「友達……」
 佐由理は呟いて、七瀬と巧の二人を見つめる。
 それからゆっくりと立ち上がっていた。
「そうだよ。友達になろうよ。そうしたら寂しくないよ」
 七瀬は真剣に佐由理へと向き合っていた。
「そうだね。そうしたら、私も一人でいなくてもいいのかもしれない」
 佐由理は口元に微かな笑みを浮かべる。
「でも七瀬さんがPKをしなくちゃいけなかったのも、元はといえば私のせい。巧くんが
辛い想いをしたのも私のせい。聖くんの魂がまだ戻らないのも私のせい」
 佐由理は言いながら二人へと背を向ける。
「佐由理さん」
 巧は佐由理の名前を呼ぶ。何か急激な不安が全身を包んでいた。
「現実とゲームの世界が重なったのは、元はといえば私のせい。だけど私の力はごく制限
されていて、全てに影響を及ぼせる訳ではないの」
 佐由理は静かな声で背を向けたまま呟くように告げる。
「例えばいま七瀬さんの心が戻ってきたみたいに。たぶん失われた人の心は、まだゲーム
の世界でさまよっているんだと思う。だからたぶんさっきみたいなちょっとしたきっかけ
で戻ると思うんだ」
 佐由理は背を向けたまま、その背を震わせてていた。
 どこか嗚咽のような声を漏らして、そして振り返る。
 佐由理は満面の笑顔を浮かべて。
 だけど瞳からはぼろぼろと涙をこぼして。
 佐由理は巧と七瀬、高広の三人をじっと見つめていた。
「ありがとう。私、すごく嬉しかった。心があるって、命があるって、すごく嬉しいこと
なんだね。私、やっといまわかったよ」
 佐由理は呟く。そしてもう一度、皆へと背を向けていた。
「だから私ももうこのままではいられない。私は七瀬さんや聖くんや、その他このゲーム
に参加した沢山の人の命を奪った。でも、でも私がいなくなれば、たぶんきっとみんな元
に戻ると思う」
「な!?」
 巧が叫びを漏らしていた。
 そして佐由理へと駆け出していく。
 しかしそれよりも早く、佐由理は駆け出していた。
 そして展望台の窓へと向かい、思い切り飛び込んでいた。
 ガラスが砕ける音が響く。
 強い風が吹き抜けていく。
 ひゅんっと鈍い音が伝い、そして消えた。
「佐由理さん!!」
 皆が佐由理を呼ぶ声がこだまする。
 同時に辺り一面がカッと白く輝いていた。
 セッションの終わりを告げる時間が来たのだ。
 ゲームの世界は現実へと引き戻されていく。
「佐由理さん! 佐由理さん! 佐由理さん!!」
 巧は何度も何度も彼女の名前を呼んでいた。
 だけど次の瞬間には、輝きが巧の意識を全て包んでいた。
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