鏡の国に戦慄を (26)
 エピローグ

「こ……三枝。こんなところにいたのね。もう探したんだからねっ」
 頭上からかけられた巧は、顔を上げる。
 古川がすぐ隣に立っていた。
 学校の屋上。普段は生徒は立ち入り禁止になっているだけに、滅多に立ち寄る人はいな
い。ましてや今は放課後であり、風も強い。わざわざ敢えてこんな場所に来ようという人
は少ないだろう。
 けれどその人気のない屋上へと続く入り口の先で、巧は寝ころんでいた。
「なんだ、古川か」
「なんだって失礼ね。探しにきてあげたんだから、ちょっとはありがたく思いなさいよね」
 古川がぷいっと顔を背ける。
「別に探してくれっていった覚えはないけどな。つか、古川」
「なによ」
 古川がむっとした声を漏らす。
 ただそんな声も、現実ではなかなか素直になれないからだという事を巧はもう知ってい
た。
「そこに立ってると下着が見える」
 巧が呟いた瞬間、かぁっと古川の顔が赤く染まる。
 それと同時に腹部に激しい衝撃が走っていた。巧の腹を思い切り踏みつけていた。
「ぐおっ!? げほっ。げほっ。し、死んだらどうするっ。腹はやめろっ」
「知らないわよっ。ばかっ。変態っ。すけべっ。しねっ」
 まだ替えを真っ赤に染めたまま、制服のスカートの裾を抑えている。
「ひでぇ。俺は最初からここに寝てただけだうがよ。変な場所に立つ方が悪いっつの」
 巧は腹部を押さえながらも、斜めに古川の姿を見上げていた。
「お前、七瀬の時はあんなに天文なくせに、現実ではやっぱり乱暴なのな」
「う、うるさいわねっ。ゲームには不慣れなんだから仕方ないでしょ」
 再び古川は顔を真っ赤に染めて、そのままそっぽを向いてしまう。
 乱暴だって事は否定しないのか、と巧は軽く苦笑を浮かべる。どうやら自分でも自覚は
あるらしい。それに考えてみるとゲームの中でも十分乱暴だったとも思う。
 まぁ、どちらにしてもからかうと面白い奴には違いないけどな、と巧は内心ほくそ笑む。
ムキになって反応する辺りは、現実でもゲームの中でも変わりはしない。
「で、わざわざ探しにきて何の用だよ」
 巧はまだ寝ころんだまま、古川へと声をかける。
 しかし彼女は「別に」とだけ答えて、巧の隣に腰掛けていた。
「特に用事はないけどね」
「そうか」
 古川の答えに、巧は相づちをうってそのまままた空を見上げていた。
 しばらくゆっくりと時間が過ぎる。
 夕焼けが当たり一面を包み込んでいる。
「ねぇ、こう……。うんと、三枝」
「……ま、あっちではこうさんって呼んでるんだから、いまさら名字にしなくてもいいぜ」
 わざわざ言い直す古川に、巧はゆっくりと告げる。
「じゃあ、巧」
「呼び捨てかよ。さんづけはどーした」
「急にさん付けってのも何か変じゃない。名字っていっても、いつもは呼び捨てなんだし。
変に思われるわよ」
「……名前呼び捨てもいろいろ詮索されそうな気もすっけど」
 巧はぼそりと呟くが、どうやら古川には聞こえていなかったらしい。
「ついでに巧も私の事名前で呼んでみるとかどう?」
 古川が楽しげに告げると、巧は思い切りむせて咳をはき出していた。
「……勘弁してくれ」
 巧はゲーム内を除いて、女子を名前で呼んだ事なんてなかった。七瀬の事は名前で呼び
続けていたが、それがゲーム内では普通のことだったからに過ぎない。とてもでないが、
巧には出来そうも無かった。
「いいじゃないの。じゃ、1回。1回だけ。ね、1回くらいいいでしょ。ねー」
 しかし古川は楽しげに何度も巧へと懇願する。そのあまりのしつこさに、いいかげん根
負けして声を漏らす。
「わかった。わかったよっ。呼べばいいんだろ呼べば。えーっと……な、なな……ななな」
 しかしどうも恥ずかしくて、素直に言葉に出来ずにどもりが入る。
 その様子に古川はお腹を押さえて笑いをこらえていた。
「なななって何。おっかしいの」
「うっさい。もーいいだろっ。あっち行け、菜々美」
 思わず振り払おうとして、彼女の名前を呼んでしまう。今呼ぼうとしていただけに、無
意識のうちの事だった。
「いやだよーだっ」
 軽く舌を出して、でもよく見ると少しだけ頬を染めていた。
 そんな古川を見ていると、現実が戻ってきたんだなと強く思う。
 そしてその後はそれ以上この件には触れず、ただ二人で一緒に空を見上げていた。
「ここってさ、ちょっと似てるよね」
 古川の言葉に巧は何も応えない。
 何と似ていると言っているかは、訊ねずともわかっていた。
 夕暮れに包まれた一面と、眼下に見下ろす風景。
 あの時にみた東京タワーの展望台で風景と、わずかながらも雰囲気を同じくした風景に
思えた。だからこそ巧はこの場所を選んだのだから。
 あの後、セッションは終了し、無事に現実へと戻ってくる事ができた。
 そして誰一人、失われた命は無かった。
 聖もいつの間にか元に戻っていた。
 ただセッションの事は殆ど覚えていないらしい。
 聖自身、信じがたい事が続いて気持ちが暴走してしまっただけだったのかもしれない。
あの時の聖はいつもと全く異なっていた。
 人の心というものは、ほんの少しの事で壊れてしまう。大切な家族の為に自分の気持ち
を押し殺した七瀬も、あり得ない事実を知ってしまった為に、心がはじけてしまった聖も。
細かい事はわからなかったけれど、あるいは聖はPKの経験があったのかも知れない。セッ
ション中に相手と競合したような時、聖は普通にミッションを優先させるようなところが
あった。そんな聖ならミッションの為に誰かを倒した事もあっただろう。
 だけどそれが実は人を殺す事につながっていた。そんな事を知れば、心が折れてしまっ
てもおかしくはないと思う。そうした事が聖の暴走につながったのではないかと巧は思っ
ている。
 本当のところはわからない。ただもう聖のした事を憎むつもりもなかったし、たぶん聖
も苦しんでいたんだと巧は思う。もしも自分が同じ様な立場であれば、巧も聖と同じよう
にならないとは言い切れなかった。
 人の心のもろさを改めて知ったと思う。
 それから七瀬の弟、高広も姿を戻していた。
 古川によると気が付くといつものように部屋で眠っていたらしい。
 その事を連絡したら普段殆ど家にはいない古川の母も、大あわてで戻ってきて泣き叫ん
で大変だったそうだ。やはり家族の繋がりは、薄れているように思えても強くつながって
いるのだろう。
 またあの後、ゆみとも出会えた。ゆみとは戦友になっていた為、すぐに連絡をつける事
が出来た。
 話をきいてみれば、彼等はあの時はたまたま一緒にパーティを組んでいたけれど、普段
からずっと一緒だったという訳ではないらしい。
 ただ佐由理とはそれまでも何度か一緒にゲームを楽しんだ事があったとの事で、それな
りに仲が良かったらしい。
 その佐由理の姿はゲームの中にはない。
 戦友リストの佐由理の名前はいつインしても、黒く染まったままだ。ゆみに聞いてもあ
れ以降、一度も見かけていないと言う事だった。
 失われた命は全て戻ってきていた。
 七瀬がPKしたとおぼしきPCも、元気な姿を見せていた。
 そのことには誰よりも七瀬が安堵の息を漏らしていた。やはり自分のせいで命が失われ
たとなれば、古川もこんな風に話す事は出来なかったかもしれない。それだけに命があっ
た事には、やはり心の底からほっとする事が出来ただろう。
 そしてそれどころか崩れたはずの東京タワーの銅像も元に戻っていたらしい。
 ニュースでは犯人が改心した懺悔の印か、それとも奇跡か、と連日放送されているとい
うが、巧はそのニュースをみていないので詳細はわからない。
 ただ重なり合っていたゲームと現実が、また元のあるべき姿に戻った。それだけは確か
な様だった。
 全てが元に戻っていた。
 佐由理の姿が消えた事だけを除いて。
「ねぇ、巧。心ってさ、誰にもどうにも出来ないね」
 不意に古川が呟く。
 その言葉になぜか胸の奥が痛む。
「そうだな」
 何気ないように答えると、巧は少しだけ顔を背ける。
「どうして心ってあるのかな。無ければ辛い思いも悲しい思いもしなくてすむのに」
 古川は静かな声で呟くように告げる。
 たぶん答えを求めている訳ではないのだろう。ただ起きて、そして過ぎていった事実に
声にせずには居られなかっただけだ。
 巧は顔を背けたまま、ただぼそりと何気ないように答える。
「たぶん、誰かと生きる為だろ」
 心があるからこそ悲しく思う。だけど嬉しい事や楽しい事も心があるからこそ感じられ
る。悲しく思うのも、楽しく思うのも。互いに心があるからこそ、つながる事が出来るか
ら。巧は強く思う。 
「そうだね。どうにも出来ないからこそ、一生懸命に想うんだよね。だから生きてるって、
とても大切なことだよね」
「そうだな」
 もういちど同じように答える。
 思い出して少しだけ涙がにじんでいた。
「私、本当に大切に思うよ」
 古川は呟くように告げる。
「辛い事も悲しい事も沢山きっとあるかもしれないけど。でもきっとそれも大事な事なん
だと思う。乗り越えていかないといけないんだよね」
 古川は言いながら、巧の手の上に自分の手のひらを重ねる。
 巧は何も言わずに、だけどその手を払う事もしなかった。
 たぶん心のつながりと言うのは、こうしたものなのだろう。巧は思う。その先に楽しさ
も嬉しさも、きっと待っている。
 そして空を見上げる。
 日が静かに沈んでいた。真っ赤に染まる夕日が、どこかまぶしく思えた。
 二人はゆっくりと空を見ていた。
 重ねた手のひらから感じる温もりを大切に想いながら、ただ遠く想いを馳せていた


                                                                        了

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