鏡の国に戦慄を (18)
「そう。そうだよ、三枝はいつも私のこと古川って名字で呼んでいるよね。でもその三枝
が私のこと、名前で呼んでくれるの。すごく嬉しかった。だから私も、そっと名前で呼ん
でいたよ」
 七瀬は顔を伏せたまま、震える声で答える。
「三枝は、本名のままだったし、見た目も殆ど変わらなかったからすぐわかった。でも三
枝は全く私の事に気が付いていないみたいだったから、だから、三枝には知られないよう
にしようって、あんまり高広の事は話さなかった。だって、だっていつもよりも、ずっと
素直に話せていたから」
 七瀬に返す言葉が見つからず、功はただ黙り込む事しか出来なかった。
 何と声をかけていいものかわからない。
 功の中での彼女は攻撃的で、けどしっかりしていて、真面目で。ただ思えば時々可愛ら
しい面も見せていたような気がする。
 いつものきつめの態度が、素直になれないゆえの言葉だとしたら、それらの垣根を取り
払えばいつもの七瀬に変わるのかもしれない。
「私は三枝のこと、よく知ってる。私、昨日もいつも通りの三枝に救われてた。変わらず
に振る舞えて、それは私にとっての救いだった。
 PKを行えってミッションがくだった時、三枝の姿を思い浮かべた。出会わなければい
い。そう願った。
 全く知らない人なら、ゲームの中のキャラクターだからって、自分を納得させてた。そ
うしなくければ、とても私には出来なかった。
 知らないから。何も知らないから。ひと言も喋らなければ、ゲームの中で作られたもの
に過ぎなかったから。
 でも、三枝と出会ってしまった。三枝はゲームの中のキャラクターじゃない。ちゃんと
生きている人間なのだもの。私は三枝の事を知ってる。知ってるのに、PKなんて、殺す
事なんて出来ないよ」
 七瀬はただ一人言い募っていた。
 何を求めているのか、もうわからない。ただ彼女は独白せずにはいられなかったのだろ
う。
 こうして吐露する事で、何とか自分を保っていたに違いない。
 人を殺す。
 それは誰しもに簡単にできる行為では無かった。
 命の大切さ、尊厳さ。それは現実でも失われかけているかもしれないもので、ゲームの
世界ではなおさらだった。PKを行う時に人の命を奪っているだなんて考える人は普通は
いない。
 でも七瀬にとって、それは苦悩と後悔に苛まれ続けた行為だったに違いない。
 それでも自分をごまかし続けて、弟を救おうとした七瀬。彼女の行為が正しいものなの
か、それとも誤っているものなのか。功にはわからなかった。
「古川……」
 現実での彼女の名を呼ぶ。
 それがふさわしいものなのかはわからなかったけれど、いま功の目の前にいるのはゲー
ムの世界の住人ではなくて、現実で苦しむ一人の少女だった。
 思えば古川が一人で苦しんでいたのも、高広の事だったのだろう。三人で暮らしてきた
家族のうち、もっとも近しい存在だった弟が突如いなくなったのだ。それは激しく彼女の
胸をえぐっていたに違いなかった。
「私もうどうしたらいいか、わからない」
 七瀬は小さな声で呟く。
 そのとき、功はふと彼女へと手を差し伸べていた。
「古川」
 彼女の名を呼ぶ。
 考えてそうした訳ではなかった。ただそうしなければいけない。功は理屈でなく理解し
ていた。
 功は理屈も正義も関係なく、目の前の少女を救いたい。そう願っていた。
 けれど。
 七瀬はその手をとる事はしなかった。
 いや、出来なかった。
 唐突に銃声が鳴り響いた。
 どこから生まれたのかもわからない。おそらくは沈み行く日のむこうから、確かにその
音は伝わっていた。
 同時に。
 何が起きたのかもわからないまま、七瀬は大きく目を開いていた。
「え……?」
 呟きをもらし、自分の胸に手を当てる。
 七瀬の手にぬるりとした暖かい液体が触れていた。
 七瀬の手の中が真っ赤に染まるのは、夕焼けの光のせいだけではない。
 よろよろと足元を揺らして、それでも何とか振り返る。
「どう……して……」
 最後のそのひと言だけ呟いて、七瀬は音もなく地面へと崩れ落ちる。
「ふるかわっ!?」
 慌てて駆け寄って、その体を支えていた。
 暖かい温もりが腕の中に伝わってくる。
 確かに七瀬はここにいた。
 ここにいたのに。
 彼女の体が少しずつ薄れていく。ゲーム内での死を迎えようとしているのだ。
 そして同時にそれは現実にも訪れる。
 彼女の存在が消えてなくなるということ。
「よせっ、やめろっ。いくな、古川っ」
 功は叫びを漏らすが、しかし何も手だてがなかった。
 この状態になったらもはや助からない。
 彼女は消えて無くなる以外に方法はない。
 それなのにまだ七瀬の意識は全て消えた訳でなくて、背景にとけ込んでいく腕を伸ばし
て、功の頬へと触れる。
 まだわずかに感触はあった。だけど始めほどの温もりはもう感じられない。
 それが余計に七瀬の命が消えようとしている事を、功に無理矢理に覚えさせていた。
「わたし……さ」
 七瀬の声。
 もう大部分が掠れて聞こえない。
 だけど七瀬は懸命に喉を振り絞っていた。
「さいごに……あえて……よかった……だって……わたし……さえ……さのこ……す……っ
たから……」
 そしてその声を最後に七瀬は消えた。
 功の腕の中から。
 鏡面世界のゲームの中から。
 つながっている現実から。
 どこからも。
 もう七瀬はいない。
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
 功はまるで雄叫びのような嗚咽を漏らしていた。
 何が起きているのか、理解はしていても、心が考える事を否定していた。
 だけど抱きかかえたままだった腕の形が、七瀬がいなくなった事を示している。
「なんでだっ。なんで」
 功は強く目をつもり、拳を握る。
 そして目の前をまっすぐににらみつけていた。
 さきほどまで七瀬がいた場所のさらに奥。
 もう殆ど沈もうとしている日の手前に、彼は銃を手にして七瀬がいたはずの場所を見つ
めていた。
「君はさっきの!?」
 佐由理が目の前にいる少年に向けて語りかける。
 少年は構えていた銃をしまい、淡々とした声で功達に顔を向けていた。
「やぁ、さっきのパーティの人だね。そして巧。これで君もこのミッションをクリアした
みたいだね」
 落ち着いた声で呟くのは、功も良く知った人だった。
 そこにいたのは聖の姿だったから。
「なんでっ、どうしてこんな事をした!? なんで古川を殺したんだっ」
 功は聖へと鋭い言葉を投げつける。
 もはや問いつめる行為しか功には残されていなかった。
「なんで。それは僕のミッションがPKを倒せだったからだよ。僕と君とはパーティを別
れた瞬間から、別のミッションとして取り扱われた。だから君に下ったミッションとは少
々異なっていたって訳さ」
 聖はまるで悪びれた様子をみせずに、ただいつもと変わらない口調で告げていた。
 このゲームの世界は現実と鏡のように背中合わせで重なっているのかもしれない。そし
てこのゲームの中での死は、現実でも訪れるかもしれない。
 そう告げたのは聖だと言うのに。
「そうじゃないっ。そんなことを言ってるんじゃない。この世界で死ねば現実でも死ぬ事
になるって言ったのは、お前だろ。なのに、なんでそんな事が出来る。どうして古川を殺
した!」
 功は激高して、激しく手を振るいながら告げる。
 どうして聖が七瀬を殺す事が出来たのか、全く理解出来なかった。
「それがミッションだからさ。確かにこの世界は現実とリンクしている。でもそれは僕の
想像に過ぎないかもしれないさ。僕は今までこの世界で死んだ事はない。だから目で見て
確かめた訳じゃあないからね」
 しかし聖はまるで動じる様子は見せなかった。
 聖にとっては自分のした事はどうという事でもないかのように。
 いや実際にどうという事はないのかもしれなかった。
 現実でも簡単に人を殺してしまう人もいる。ましてやここはゲームの世界だ。聖には人
を殺しているという意識すらないのかもしれない。
「でも、これが人殺しだって言うのなら。だったらあの子はどうなんだい。あの子はPK
を行っていた。つまり人を殺していたってことだろ。だから僕が止めただけさ。それが僕
のミッションだったからね」
 それがゲームの中で自分のすべきことだった。
 聖はただその理屈だけで、簡単に七瀬を手にかけていた。
 七瀬のように弟を救う為に苦悩した訳ではない。七瀬は自分が行っている事の重さを知
りながらも、みてみぬふりをしていた。
 だけどそれが許されざる事であると、七瀬は理解していた。
 七瀬はわかっていながらも、そうする以外に方法は残されていなかったのだろう。
 だけど聖は違う。
 ゲームのミッションがクリア出来なかったとしても、それはゲーム内だけの話だ。
 七瀬はもはや功に限らず、誰も殺める事は出来なかっただろう。
 現実である事を知ってしまったから。
 自分が行っている事が、誰かの命を奪う事なのだと知ってしまったから。
 七瀬は人を殺めたかもしれない。それは罪には違いなかった。
 だけど、だから殺してもいい。そんな理屈がある訳はない。功は強く思う。
 でも聖はそれすらも考えはしなかった。
 この事は功の責める言葉に対して、後から付けた理由に過ぎない。
 聖の理由はただそれがゲームの中で行うべきし定められた行為だったから。それだけに
過ぎなかった。
 けどこれはゲームの中だけれど現実なのだ。
 ゲーム内での理屈は現実では通用しない。
 そのはずだった。
「そうじゃない。そんなの、許されるもんか。古川の行った事は許される事じゃないだろ
う。でもだからといって、簡単に人を殺すなんて行っていい訳がない」
 功の言葉に、聖は微かに首を傾げる。
 両手を肩の辺りで広げて、理解出来ないとばかりに溜息をこぼした。
「まぁ、これ以上、言っても平行線をたどるだけさ。さて僕には次のミッションが下った。
もう、そろそろセッションも終わる。時間がないからね。いかせてもらうよ」
 聖は言うが早いか功達に背を向けて、すぐに走り出していた。
「聖、まて!」
 功は思わず呼び止める。
 しかし聖か制止の声をきくはずもなく、すぐにその姿が遠ざかっていた。
 そしてその瞬間、ゲーム内の声が響いた。
『最後のミッションを下す。東京タワーの展望台にて待つ、囚われの少年を救い出せ』
 その声に功はただただ憤る事しか出来なかった。
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