鏡の国に戦慄を (16)
「佐由理さんっ、神速を頼むっ」
 功が佐由理に望んだのは、さきほど逃げ出した時に唱えた足が速くなる術式だ。これを
唱えれば、そう簡単に追いつく事は出来なくなる。
「う、うんっ。わかった。風よ。私達を暖かく包んで! 神速!」
 佐由理がそう唱えた瞬間、ぐんっと強い風と共に感じていた体の重さがかろやかに変わ
る。
 だがそれとほぼ同時に、PKの女性がふと呟いていた。
「大地の霊よ。鈍き足元」
 その声と同時に、功は突如まるで何か重たい空気を上空から押さえつけられているよう
な感覚に囚われる。
 そしてかけられた神速の術式の効果が完全に消え去っていた事も感じていた。
「な……」
 思わず声を漏らして、PKの方へと振り返る。
 深々とフードのついたマントに身を包み、まるで物語に出てくる魔法使いのようだ。
「そうくるってわかってたよ。この手の術式は後に使った方が有効だからね。こうさん達
が先に唱えるのを待っていたんだぁ」
 彼女は静かな声で告げる。
 そして同時にかぶっていたフードを取り去っていた。
「な……お前……ななせ、か」
 殆どまともな言葉にはならなかった。それでも何とか喉の奥から振り絞ったのは、目の
前にいる少女。七瀬の名前だった。
「うん。そうだよ、こうさん。ご存じの通り、七瀬ちんです。あ、いっとくけれど、私は
天文じゃないからねっ」
 にこやかに告げる少女は、まるでいつも通りの口調で何一つ変わらない。
 ただ変わるとすれば、その瞳が笑ってはいないこと。
 いつも大きく笑い、時にはわんわん泣いて、あるいはぷぅと頬をふくらませてすねる、
あの七瀬とはどこか雰囲気を違えていた。
 まるでどこか無理していつも通りに振る舞おうとしているかのようだった。
「知り合いなの!?」
 佐由理が驚いて目の前の少女を見つめていた。
 PKの知り合いだなんて、とどこか避難めいたものも、どこかに含んでいたかもしれな
い。
「ああ。でも、俺の知ってるこいつは、PKなんてするような奴じゃなかった。いつもぽ
やぽや笑って、細かい事は気にしないでいて。出来ないくせに、でも仲間の為に、いつも
一生懸命で」
 功は混乱のあまり、いつもの七瀬の様子を口走っていた。
 まるでそうすれば元の七瀬が現れるかのように。
 いつものように、なんちゃって冗談だよと。そう告げる七瀬を期待するかのように。
 しかし現実はそれには届かない。
 ついさきほど人を殺したばかりの七瀬がそこに立っているだけだ。
 そう。人を殺した。
 七瀬が気が付いているのかどうかわからない。
 だけど現実とリンクしたこの世界では、PKは人を殺すという行為に他ならなかった。
 本人からしてみれば少したちが悪い程度の冗談くらいの気持ちかもしれなかったが、七
瀬は確かに人の命を奪ったのだ。
「なんで、なんでこんな事をしてる。わかってるのか。お前がした事は、殺人なんだぞ。
人殺しなんだ。なんで」
 思わず叫ばずにはいられなかった。
 七瀬はここが現実とリンクしているとは知らないかもしれない。そうだとすれば、何を
ゲームで熱くなっているのかと、さめた口調で言い返されて終わりかもしれなかった。
 それでも功は言わずにはいられない。
 人を守りたい。
 つい今し方、見知らぬ誰かは紙くずのように消えてしまった。
 ここでは簡単に奪えてしまう命。
 だからこそ、守りたい。傷つけさせたくない。
 功は深く感じていた。
 だけど。
「そうだね。私は人殺しだね。わかってる。こんな事するの。いけないって、私だってわ
かっているんだ」
 七瀬はただ小さな声で震えながら呟いていた。
「でもね。でも。だから許されるなんて、思っていないけど。でもね。そうしなければ、
いけないの。だって、そうしなければ」
 七瀬はかすかに顔を俯けて、そして絞り出すような声で続ける。
「高広が殺されてしまうのだもの」
 七瀬の言葉は何かに耐え忍ぶかのように、抑圧されて震えていた。
「どういう事だ?」
 巧は七瀬の話す事の意味がわからずに、思わず訊ね返す。
 高広と言うのは、七瀬の弟の名前だ。これは飛行船を追いかけた時に告げていたから間
違いがない。
「話すのはここまで。これ以上話す訳にはいかないの。悪いけれど」
 七瀬は言いながら、大きく杖を振るい上げていた。
「高広の為に、大人しく殺されて」
 七瀬は唐突に声を冷たく変えて、呪文を唱え始めていた。
「破邪~光! 火球の舞レベル7!」
 七瀬の言葉と同時に、巨大な炎の球が巧めがけて降り注いでくる。
「なっ!?」
 慌てて避けようとするが、しかしすぐに思い至って刀を構える。
「いけ、村正!」
 大きく声をかけると同時に、目の前を思い切りなぎ払う。
 それと共に風が舞いおきて、襲い来る火球の勢いを削いでいた。
 避けても火球の術は自動的に襲いかかってくる事を、直前で思い出していた。それゆえ
に巧の持つ技を使い相殺していた。
 それと共に、巧の後ろで佐由理が新しい呪文を唱え始める。
「よくわからないけれど、こうなったら迎え撃つしかないってことだね」
 佐由理も身構えて、杖を高く振るう。
「風よ。舞い散る刃となれっ。風刃レベル7!」
 佐由理が術を唱えると同時に、風の刃が七瀬の周りを取り囲んでいた。さきほど鬼に対
して使った術式だった。
 鬼には全く効果が無かったが、レベル7の術式はこの術の最大レベルだ。普通のPCが
受ければ、死なないまでもかなりのダメージを受ける。
 風の刃が鋭い音を立てて七瀬を切り刻んでいく。
 だが次の瞬間、七瀬から鈍い光が放たれていた。
 同時に全ての刃が逆に辺りへ飛び散っていく。
「きゃっ……!?」
 とばされた刃の余波で、佐由理の頬に切り傷が走る。
 そして巻き起きた風の威力に押されて、佐由理は思わず尻餅をつく。
 何が起きたのかははっきりとはわからなかったが、恐らく七瀬は始めから術を跳ね返す
術を自分に唱えておいたのだろう。巧は術式には詳しくなかったが、そのような術がある
事は話には聞いていた。
「佐由理さんっ。くそっ。七瀬、やめろ。やめるんだ」
 佐由理の前に立ちふさがって、巧は大声で七瀬を止めようとする。
 しかしそれ以上には何も出来なかった。
 七瀬を止める。
 それはすなわち七瀬を倒す事になる。
 説得しようにも、七瀬は争いをやめそうな雰囲気を全く見せなかった。
 それでも止めようとすれば、力で訴える他にはない。
 だがそれは七瀬を傷つける事になる。
 自分や佐由理が殺される事。巧にしてみても、それはどうしても受け入れる事は出来な
い。
 しかしだからといって、人を七瀬を傷つける事は、巧にはとても出来そうにも無かった。
 だからただ声を張り上げる事しか、巧に残された手段はない。
「やめろといわれても、私はその子には何もしていないよ。私がしたのは君に向かって術
を唱えただけ。むしろその子の方が私に向かって術を発してきたんじゃない」
 冷めた口調で七瀬は呟く。
 しかしその声に巧はどこか違和感を覚えていた。
 天文と呼ばれるくらいの天然ぶりをみせて、最弱の魔物であるゼリンにすら食べられよ
うとしていた七瀬。
 いま目の前にいて、巧を殺そうとして向かい合う七瀬。
 全く同じ姿形にも関わらず、何か根本的に異なっているように思えた。
 もちろんPKをしようとしている時と、普段明るく接している時が全く同じ訳はない。
しかしそうしたところだけではなくて、どこかもっと深い部分で異なっている。そんな風
に感じられた。
「お前……本当に七瀬なのか」
 だから思わず疑問を口にしていた。
 今の巧には深く考える事は出来ない。ただ目の前で起きる唐突な出来事についていくだ
けで、精一杯だった。
「もちろん私は私。別に中の人が変わっている訳じゃないよ」
 七瀬は静かな声で告げると、再び杖を振り上げていた。新しい術を唱えるつもりだろう。
 しかし巧には他に抗う手段がなかった。
 いますぐに七瀬を止めてしまえば、この術は発動せずに済むだろう。
 しかしその為には七瀬を倒してしまう必要がある。すなわちそれは七瀬を殺すと言う事
と同じ事だった。
 功はためらいを隠せなかった。
 ただ戦いの最中は、その一瞬のためらいが全てを決める事もある。
 もしもいま七瀬が術をぶつけてきていたとすれば、功はそれを防ぐ事は出来なかっただ
ろう。
「でも中の人が変わらなくたって、人はそのままじゃいられない。いろんな事が変えてし
まうものなんだ」
 しかしためらう功に、七瀬はゆっくりと静かな声で、ただ語り始めていた。
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