鏡の国に戦慄を (08)
 翌朝。
 功はいつも通りの時間に登校していた。
 昨日は結局、ミッションを成功させて高得点をはじき出していた。おかげでかなり気分
も良い。
 結局、あの後に七瀬がどうなったのかはわからなかったが、魔の飛行船が討ち取られた
という話も聞かないので返り討ちにあったのかもしれない。
 セッション終了後に話し掛けてみようと思ったが、すでにゲーム内からは抜け出してい
る様で七瀬の名前は暗い色の文字に変わりオフラインとなっていた。
「ま、いつもの事だけどな」
 心の中で呟きながら、功は教室の扉を開ける。
 その瞬間の事だった。
「さえぐさぁぁぁっ」
 その叫び声と同時にびゅんっと音を立てて黒板消しが飛んでくる。
 慌てて避けると、後ろの壁がぼんっとチョークの粉をまき散らしていた。
「うおっ。なんだっ!?」
「なんだじゃないっ。あんた、何、こんな時間にのうのうと登校してんのよっ」
 容赦なく浴びせられる声に振り返ると、黒板の前にでんと仁王立ちした少女の姿があっ
た。
 長い髪の片側を少しだけリボンで結んで、ワンポイントを作っている。少しだけつり上
がり気味の目が、きつめの雰囲気を醸し出していた。もっともそれは今はっきりと怒りの
色を浮かべているせいかもしれなかったが。
「こんな時間って、まだチャイムはなってねぇじゃねーかよっ」
 巧は壁に掛けられた時計を見ながら答える。時計の針はまだ予鈴まで三分あった。全く
遅刻はしていないよな、と声には出さずに呟く。
 しかしそれと同時に少女が右手で黒板の片隅を刺して叫んでいた。
「ここ。ここになんて書いてあるのよっ」
 少女が指さした先には「日直」の文字と、その下に「三枝」「古川」の二つの名前が並
んでいる。
「あー。そか、俺日直だったっけ。すまん」
 そうかそうか、と口の中で呟きながら、しかしあまり悪びれた様子も見せずに教室の中
に入る。
「すまんで済むなら警察いらないわよっ。おかげで私一人で朝の仕事すませる羽目になっ
たでしょうがっ」
「そういうなって。どうせ朝の仕事なんて教室のドア開けるのと、チョークや黒板消しの
準備くらいだろ」
 怒りに震えている少女をよそに、巧はひょうひょうとした声で答える。
 実際遅れてきたのは悪かったとは巧も思うのだが、日直の朝の仕事はそれほど多くはな
い。チョークや黒板消しの準備はだいたいの場合、始めからする必要もないし、教室の鍵
も早くきた人間がすでに開けていたりするものだ。
「そうだけど。日直は早く来るって決まってるんだから、ちゃんと来なさいよ。せっかく
私が」
「悪い悪い。じゃあ、この授業の後の黒板消しは俺が一人でやるよ。それでいいだろ」
 目の前の少女、古川の言葉を遮って溜息混じりに答える。
 古川菜々美。それが彼女のフルネームだ。巧のクラスメイトであり、クラスの委員長で
もある。
 巧とは小学生の頃から何度か同じクラスになった事もあって、それなりには面識がある。
要は幼なじみと言ってもいいかもしれない。だからそこそこには話す事もあった。
 しかしそれだけだ。特別な仲と言う訳でもなく、むしろこうして喧嘩している方が多い
くらいかもしれない。巧は少し勝ち気な彼女とは波長がぶつかり合いやすかった。
 もっとも仲が悪いと言う訳でもない。彼女の暴力癖には少々辟易としているところはあ
るものの、むしろ言い合いを楽しんでいる節もあった。
「そういう事をいってんじゃないわよ。もう。三枝はいつもそうなんだから」
 古川の方もこれ以上言っても無駄だと思ったのか、しぶしぶといった感じで諦めた様だ。
 代わりに巧へと教室の鍵を差し出して、「じゃあこれをお願い」とだけ告げていた。
 巧は鍵を受け取ると、自分の席に座る。そしてそのまま鍵は引き出しの奥へと放り込ん
でいた。
「そんなところにいれてなくさないでよ」
 古川は右隣の席に座ると少し疑うような目で、じっと巧を見つめる。日直は席順で決め
ている為、必ず席は隣同士となり、古川もすぐ横の席と言う訳だった。
「んなこたしないって。信用ないのな、俺」
「三枝を信用しろって言う方が不思議でしょ。今日だって昨日散々早くきてねって言って
あったのに何で遅れたのよ」
 あきれ顔で告げる古川に、巧は軽い口調で答えていた。
「いやー。東京タワーを守っていてさー」
「は?」
「なかなか大変だったんだよ」
 当然の事ながら、昨日のゲームの話が古川に通じるはずもない。巧もその事はわかって
いて、敢えてはぐらかすつもりで話していた。
 しかし古川は眉を寄せて、巧をじっとにらみつけていた。
「ちょっと、東京タワーってまさかあんたが犯人じゃないでしょうね」
「え?」
 今度は巧が聞き返す番だった。古川が何を言っているのかわからない。
 何と反応して良い物かためらっていると、そんな巧の様子を察したのか、古川がすぐに
言葉を継ぎ足していた。
「東京タワーの前に飾られている南極犬の像が誰かの悪戯で壊されたって、今日ニュース
でいってたの。その様子じゃ、犯人って訳じゃあなさそうだけど。まぁ、いくら三枝でも
そこまでの事はしないわよね」
「いや、まぁ、そりゃそうだ」
 少し言葉を濁して巧は答える。
 古川は巧の態度に訝しげな目を向けていたが、すぐに溜息をもらして自分の席の方へと
戻っていく。
 冷静を保とうとしながらも、それでも巧は驚きを隠せずにいた。
 東京タワーの前にある南極観測犬の像。それはゲームの中で爆撃によって破壊された箇
所だ。
 偶然だろう、とは思う。
 しかしそれにしてはあまりにもピンポイントで一致している。完全な偶然とばかり言い
切っても良いものか、巧には判断がつけられなかった。
 あるいは昨日の現場を見たゲーム内の誰かが、面白半分に行った事なのかもしれない。
 しかしどこかその推測にも違和感を覚えながらも、しかしやはりただの偶然だろうと答
えを濁してしまっていた。
「ゲームと現実をごちゃまぜにするのはいい加減にしておきなさいよね」
 古川はぴしりと鋭い口調で言い放つ。東京タワー防衛がゲームの話だと言う事も、すっ
かりばれてしまっていたらしい。
 功は鏡面世界の話を以前していた事もある。古川と直接その話をした訳ではなかったけ
れど、現実世界そっくりのゲームにはまっている事はどこからか耳にしていたのだろう。
「りょーかい。まぁ、後の仕事はちゃんとするから許してくれよ」
 こういう時は素直に謝る方が、あとあと都合が良い事を功は理解していた。軽く頭を下
げる。
「朝から災難だったなー」
 クラスメイトの一人が声を潜めて話しかけてくる。
「委員長、最近ちょっと怒りっぽいよな。なんかぴりぴりして怖いんだよね」
 彼の言う委員長とは古川の事だ。少々性格はきついところがあるが、基本的には真面目
な彼女は先生の受けはいい。また案外面倒見が良いところもあってクラスの皆からも信頼
は厚く、それゆえにクラス委員長を任されていた。
「まぁ、そうかもな。でも良くしらねぇけど、女子の話によるといまあいつんち何か家庭
が大変らしいからさ。だから少しくらいのヒステリーでも受け止めてやろうぜ」
 泰然として告げる功に、彼はおお、と歓声を上げる。功の大人ぶった態度に感銘を受け
たのかもしれない。
 しかしすぐに功の肩に手をおいて、にやりと口元に笑みを浮かべていた。
「ま、三枝は委員長と仲いいもんな。なに、ひょっとしてつきあってんの?」
「なっ……ちがっ、そういうんじゃねぇよっ。なんで俺があんな乱暴女と」
 冷やかす声に功は慌てて否定する。
 と同時に、ぶぅんっと風を切る音が響く。
 ガンッと鈍い音が響いて、後頭部に激しい衝撃を感じていた。
「ぐぉ!?」
 思わず声を漏らすと頭を抑えなが振り返る。
 そこには古川が鬼のような顔をして功を睨み付けて立っていた。どうやら思い切り日直
日誌を投げつけたらしい。床に開いた形で日誌が転がっていた。
「乱暴女で悪かったわねっ」
「いや、本気でわりぃよっ。マジで痛かっただろうがっ」
 抗議の声を漏らすが、古川はべーっと舌を出してみせて顔を背ける。
「おいっ。こらっ、人に物ぶつけといて何て態度だよっ」
「日直日誌を渡し忘れてたから、渡してあげただけよ。こっちもちゃんとしまっておいて
よねっ」
 古川はいちど功へと向きなおって言い放つと、再び顔を背ける。背中からもはっきりと
怒りのオーラが漂っていた。
「やっばお前ら仲いいよな」
「どこがだよ……」
 にやにやと笑いながら告げる学友に、功は大きく溜息を漏らした。
 いつもと変わらない日常の始まり。
 しかしまだこの時は、変わりつつある事態に功は気が付いていなかった。

 放課後。功は一人、机の上に腰掛けていた。
 日直の仕事は全て終えて、あとはゴミ捨てにいった古川が戻ってきたら戸締まりをして、
それで終わり。
 早くゲームの世界に向かいたくて、そわそわとしていたが、しかししばらく待っても古
川は戻ってこなかった。
「古川。おせぇな」
 時計をちらりと眺める。
 ごみ捨てにいってから、もう十分以上は過ぎていた。ゴミ捨て場が校舎の外れにあると
は言っても、少しばかり遅い。
 古川は黙って帰るようなタイプではなかったから、もしかすると向こうで何か起きたの
かもしれない。
「しょうがねーな。様子見ににいくか」
 功は一人呟いて、それからコミ捨て場の方へと歩き始める。ここからで有れば行き方は
一つしかなく、途中ですれ違う事もないはずだったし、カバンもおいてあるからすれ違っ
てとしてもまだいる事はわかるだろう。
 しばらく歩く。
 そして靴を履き替えて外に向かってゴミ捨て場に続く裏庭に出たところで、古川がゴミ
箱をおいて、立ちつくしている事に気が付いていた。
「あ、古川。どうしたんだ……よ」
 声をかけて、しかし途中で声が掠れてしまっていた。
 声をかけてきた功に気が付いて、古川が一瞬功の方へと振り返る。
「えっ、あっ。こ……三枝っ、なんでっ」
 古川は慌てて答えて、すぐに背を向けていた。必死で隠すように袖で顔をぬぐっている。
 だけど功はもうはっきりと見てしまっていた。
 古川は泣いていた。
 ぼろぼろと涙をこぼして。
「お、おい。誰かにいじめられでもしたのか!?」
 不穏な様子に慌てて功は駆け寄っていく。
「ち、違うから。そんなのじゃないからっ」
 古川は焦ったように首を振るって、それから功をじっとみつめて、今度は大きく息を吐
き出していた。
「変なところみられちゃったね」
 えへへと照れて笑う姿は、いつもよりも少しだけ幼く感じられた。
 ただ巧にはその直前にみた涙が強く印象に残っている。
「……あのさ。俺がこんな事言うのは余計なことかもしれないけど、話くらいなら聞くか
らさ、何かあるんだったら言ってくれよ」
「うん。ありがと」
 小さく笑って古川は、そっと背を向けていた。
「ごみ、捨てないとね」
 そしてゴミ箱を抱えて、ゴミ捨て場の方へと歩き始めていた。
「俺が持つよ」
 巧はそのゴミ箱を受け取って何も言わずに、古川の前へと進む。
 すぐに辿り着いたゴミ捨て場にてゴミを移す。その間、古川はひと言も口を利かずに、
巧の後ろにそっと立っているだけだった。
 そして帰り道、さきほどの場所まで辿り着く。
 特に何事もなくそのまま通り過ぎようとした巧に、不意に古川が背中から語りかけてき
ていた。
「あのさ。こ……三枝はさ。家族ってどんな感じ? 家族のこと好き?」
 唐突な問いに巧は古川の方へと振り返る。
「ん。そうだな。まぁ、うちは普通だよ。両親共に健在で、父親は会社員、母親はパート
勤め。兄弟は俺一人。そんな感じかな。ま、好きかって言われると、まぁ普通に好きだと
思う」
 いつもであれば恥ずかしくて何でんなこと聞くんだとでも答えそうな場面であったが、
つい先ほどみた涙のせいかごく真面目に答えていた。
 家族について答える事はやや照れくさい感じもしたが、ただ恐らくこの事が古川の涙と
何か関係があるのだろうと巧は思う。
 そして古川はそれが間違いでないと、すぐに言葉を続けていた。
「私は家族のことが大好き。ほんとに大事に思ってる。でも私のうちはさ、お父さんがい
ないんだ。私がちっちゃい頃に病気でさ。だからお母さんがその分沢山働いてて、殆ど家
にも帰ってこられなくて。あ、でも兄弟がいるから、まだ寂しくはなかったんだけどね」
 古川はその先の言葉をためらうように、やや俯いていた。
 でもすぐに顔を上げて、でも巧から少しだけ視線をそらして照れたように告げる。
「でも、ちょっとここのところ家族間でいろいろあってさ。それでなんか急に一人になっ
たら思い出しちゃってね。うん、なんかそんな感じ」
 一気に言い放つ。恐らく先ほど泣いてしまった理由なのだろう。そして古川はごまかす
ように手を振って、それからすぐに小走りで駆け出していた。
「えーっと、そろそろいこっ」
 古川はそのまま教室の方へと先に向かっていく。
 巧はその後を、ゆっくりと歩き出していた。
 ゴミ箱を持っている事もあったが、ほんの少しだけ古川に時間を上げようと思った。教
室はすぐそばだ。歩いていても、すぐに追いつく。
 いつも強気に見えても、彼女もごく普通の中学生の女の子なのだ。やはり寂しかったり
悲しかったりする時もあるのだろう。ゴミ捨て場のある裏庭の辺りは人気が無くて何か物
寂しい空気がある。だからいろいろな事を唐突に思い出してしまったのかもしれない。
 家族のことを大切に思うのはごく当たり前の事だ。しかしそれを口にするのはやはりど
こか気恥ずかしくもある。
 だから古川は家族を思って泣いてしまったところを見られて恥ずかしく思っているのだ
ろう。
 だけど巧はむしろそんな古川の姿に、今までとは違う感情が生まれだしていた。
 その気持ちの正体が何だったかはわからないけれど、少しだけ胸の奥が痛んだ。
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