崩落の絆 (27)
終章 ―エンデ・カピテル―
 
 誠也は不意に振り返る。
 背には街の雑踏が響き、女の子達の笑い声が聞こえては消えた。
 いま、何かを探していたような気がする。誠也はふと思う。しかし何を探していたのか、
よくわからない。
 車のクラクションが鳴り、早く早くと急かす。あいつらは何を急いでいるんだろうな、
とくくっと笑みを浮かべる。
「あー、もう。こんなとこでひっかかってたのか。ほら、セイ。急げって」
 聞こえた声に振り返る。
 いつも通り翼がまっすぐに誠也を見つめていた。
「そんなに急ぐ事でもないだろ。ゆっくりいこうぜ」
 誠也は軽く両手を広げてみせて、それでも止めていた足を歩ませる。
「急がないと、シンがまってるって。待ち合わせまであと五分しかないってわかってるの
かよ」
 翼は拳を握りしめて、今にも殴りかかれそうな体勢をとる。
「へいへい。わかったわかった。いけばいーんだろ、いけば」
 誠也は翼をおいて、突如すたすたと足を速める。急にスピードを上げた誠也に、翼は一
人ぽつんと置き去りにされていた。
「うわっ。なんだよ、だからっておいてくなよな。まてよ、セイ」
 翼は慌てて誠也を追いかける。何事も無かったかのように。
 誠也の心の中に何か晴れない霧のようなものがあった。何か大切な事を忘れてしまった
ような、そんな気がする。だけどそれが何なのか、全くわからなくて。記憶をどこか奥深
くにしまいこんで取り出す事が出来ないような、不思議な感覚。
「ったく、セイはいつもこうだよね。ボクはふりまわされてばかりだよ。ま、いいけどさ」
 翼はくすりと笑顔を漏らして、そして誠也の顔をじっと見つめる。その翼の言葉にも、
誠也は心ここにあらずといった様子で、静かにたたずんでいるだけ。
「あれ、セイ。どしたの? なんか顔がしけてるよ」
「いや、何でもない」
 呟くように答えて、空を見上げる。空はどこまでも高く、青く澄んで、白い雲がわずか
に流れる。
 平和な、日常の一コマ。永遠に続くだろう、毎日の一つ。それがどこか嘘のように感じ
るのは何故だろう。
「今日はさ、次のライブ目指しての打ち合わせだ。ひさしぶりのライブなんだから、そん
なぼっーとしてんなよ」
「ライブ、か」
 翼の言葉に何かを思い出しそうになる。しかし、その瞬間。ずきりと頭が痛む。いつか
にもこの痛みを感じたような気がしていた。
「そうだな。ライブ、成功させないとな」
「うんうん、そーだよ。楽しみだね。あ、でもまた今回もボクが歌うのか。いいかげんちゃ
んとしたボーカルいれようって。マジでマジで」
 翼は、ボクは本職はあくまでキーボードなんだってと溜息をつきながら呟いていた。も
うこの台詞も何度きいた事かわからないが。
「けどボーカルかぁ。ほんと、いい人いないかな。前のライブの時もさ、ボクが……あれ、
前のライブの時ってそういえばボクはキーボードだけやってた気がするよ。おっかしいな
ぁ、そんな訳ないのにね」
 翼は首を捻りながら、うーんと小さく声を漏らしていた。
「でも前のライブの時って、そういえば何かすごくすごく悲しい事があった気がする。な
んだろう、思い出せないよ」
「悲しい事なら、思い出さない方がいい」
 首を傾げる翼に、誠也はぼそりと呟く。俺はお前がそうあるように望んだのだから。ふ
と思い、そして自らの意志に唖然として口を開く。
 自分がそう望んだから。だから思い出さない。そんな事があるはずがない。翼の記憶は、
翼のものだ。望もうと封じる事なんて出来るはずもない。自分にはそんな力なんてない。
 俺には独り言だけでなくて、空想癖もあったか。誠也はわずかに苦笑を浮かべた。
 それでも翼は思い出さない方が、忘れている方がいい。なぜか強く思えて。それなのに、
自分が忘れている記憶だけは不思議と気になって、見つけださなくちゃいけないような気
がして。再び誠也の頭に痛みが走る。
「ま、そうかもしれないけどさ。とにかく打ち合わせしないとね。シンが待ってるし。やっ
と怪我から復活してきたんだからさ。シンがいないとやっば引き締まらないからね、エヴ
ァグリーンは。ってかセイが一人で締まってないんだけど」
 楽しそうに告げて、翼はたたたっと駆け出していく。
 待ち合わせ場所は近い。真も確かに待っているだろう。誠也が真が入院して以来になる
から、会うのはかなり久しぶりだ。しかしどうして真がそんな大怪我をしたのか、誠也に
は何故か思い出せない。まるで靄がかかっていたみたいに。
 もういちど誠也は後ろへと振り返る。何かを探していた、その何かがいまもそこにいる
ような。そんな気がして仕方なかった。
 でも、ここにあるのは街の雑踏と知らない人々。車のエンジンの音に、時折クラクショ
ンが混ざる。
「ほらっ、セイ。なにしてんだよっ。そんなぼーっとしてると、おいてくからなっ」
 翼の声が背中から響く。
 そうだな、いつまでもこうしていても仕方ない。誠也は心の中で呟いて、そしてもうい
ちど向き直る。
 その瞬間、すっと隣を長い黒髪の女性が通り過ぎて。思わず誠也は叫んでいた。
「美咲っ」
 声と共に少女の姿を目で追いかける。その少女はすぐ先の曲がり角を曲がっていくのだ
けが見えた。
 急いで後ろ姿を求めて路地に飛び込んだけども、もうそこは街の雑踏だけしかなくて少
女の姿はどこにもない。いや、そもそも。
「セイ、どうしたんだよ。今、誰もいなかっただろ」
 翼が眉を寄せて呟く。
 いま確かに見えた気がしたのに。気のせいだったのだろうか。誠也は軽く首を振るう。
「だいたい、その美咲って誰だよ」
 翼はすぐ後にやってきていた。突然、反対方向に走り出した誠也に驚いたのだろう。慌
てて駆けだしたようで、少し息が荒い。
「あ、でも、そいやなんか聞き覚え有るような気がするよ。誰だろう。なんだか大切な人
だった気がするのに」
 頭をひねって、それでも答は見つからないようだった。
「あ、そだ。わかった。セイの昔の女だろ」
「わからない」
 誠也は呟いて、だけど街角の雑踏の向こうを、ずっと見つめ続けていた。
「わからないって、なんだよ。それ」
 翼は咎めるように告げて、そして思わず目を見開いていた。
 誠也が、大粒の涙を流していたから。もう誠也とのつき合いも長くはなるものの、そん
なものを一度も見たことはなかったから。
「あ、あれ。セイ、泣いてる?」
 誠也はいつの間にか確かに涙を浮かべていた。自分でも気がつかないうちに。翼は誠也
の泣き顔に困惑する以上の事は出来なくて、じっと誠也を困り顔でみつめていた。
「わからない。わからないけど、涙が出てくるんだ。……何を探せばいいのかもわからな
いけど、そう願っているんだ。それなのに」
 誠也の心に浮かんでくるのは、ただ一つ。美咲という名前。でも、その他は全く浮かば
ない。
 俺は忘れるつもりなんてなかったのに、と不意に感じて、そしてそう揺れた心そのもの
に驚きを隠せない。
 誰を示しているのか、知らない名前。なのに、どこか胸が苦しくて悲しくなる。
 彼女を捜そう。強く思う。きっと見つからない、探せない名前。
 でもみつけなくちゃいけない。誠也の心の中で、そっと呟く。
 もうどこにもいないはずの人。ただ忘れられない気持ち。苦しくて、悲しくて、もうい
ちど胸の中に封じてしまった、気持ちを。
 忘れたいけど。忘れたくないから。
 もういちど、探そう。
 あの時、確かに生きていたという印を。





                               了

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