崩落の絆 (20)
 地面に跪いて、四つんばいになる。ぶるぶると両手が震え、それですらままならずに。
 吐き出した異物が目の前に広がっていた。潰れた目玉の前で。それがまた誠也の胸の奥
を熱くさせる。
「ずいぶんとストレスが溜まっているみたいだね。少しリフレッシュした方がいい」
 ツヴァイは軽く告げると、そのままふわりと屋根の上から飛び降りる。猫のように軽や
かに地面に降り立つと、誠也の前に立つ。潰れた目玉をぎゅっと踏みつけて。
「お前」
 思わず声を漏らしていた。何について憤りを感じているのかも、もうわからない。だけ
ど何かやるせない思いが、誠也の中に広がっていた。
「じゃあ、行こうか。大人しくしていれば危害を加えるつもりはないよ」
 しかしツヴァイは気にする事もなく手を伸ばし誠也を捕らえかける。
 誠也は身動きするだけの気力も残っていないのか、その場を動く事すらできなかった。
そしてツヴァイの手が誠也に触れようとした、その瞬間だった。
 ぶぅん、と鈍い音が響く。その瞬間、ツヴァイは大きく右手へと飛び退いていた。その
瞬間、ツヴァイのいた位置に白い灰がふわと降り注ぐ。
 美咲の白い灰(ヴァイスアッシェ)だった。だが本気で放ったものではないのか、白い灰
はわずかに地面に降り注ぎ、誠也の吐き出した異物を腐らせ溶かしただけだ。
「勝手な真似をするな」
 力を放った手を伸ばしたままで、美咲が呟く。
 俺を守ろうとしたのだろうか。いや、違うな、と誠也は心の中で苦い笑みを浮かべてい
た。美咲の目は、獲物を横取りされようとした獣のそれと同じものだったから。
 もうあのどこか憂いを残しつつも優しい瞳をした美咲はどこにもいなくなってしまった
のだろうか。誠也はぎゅっと目を瞑る。
「あぶないあぶない。君がいたんだったね。でもね、君のやり方では叶わないよ」
 ツヴァイは軽く両手を広げて、くすくすっと笑みを漏らしていた。
「うるさい。私は私のやりたいようにする。貴様は黙ってみていればいい。死にたくなかっ
たらな」
 美咲はツヴァイには目もくれずに、誠也へと視線を向ける。
 ぎゅっと手を握りしめた。その手の中に力が集まりだしていた。
 それと共に誠也は軽く脱力感に襲われる。美咲の白い灰(ヴァイスアッシェ)によって力
を吸い取られているのだろう。
 今度は本気という訳か。誠也はただ冷静に内心で呟いていた。死体や目玉に対しては胸
の奥に何かがこみ上げてきた。だのに今にも死に面している自分には、なぜか恐怖は感じ
なかった。
 やっぱり俺もどこかが壊れているのかもしれないな。自嘲するように誠也は思う。
 そして美咲の手が伸ばされた瞬間。
 その声は響いた。
「やめて!」
 誠也の背中から、強く高い声。確かに聞き覚えがある、澄んだ優しい声。それは。
 誠也は振り返る事が出来なかった。もしも予想と違えていたら、二度と立ち直れないか
もしれないと。
 ツヴァイがにこやかに微笑みかける。優しさの垣間見えるような笑顔で。だけど冷たい
空気をともないながら。
「やぁ、ドライ。また会ったね」
 ツヴァイは動かない左腕を押さえながら、口元を歪ませる。確かに浮かんでいるのは悦
びの色。傷つけられた事への怒りは垣間見る事もない。
 確かに背中から聞こえてきた声は。
 誠也は振り返り、そして声を震わせながら、そこに立っている彼女の名前を呼んだ。
「美咲!」
 誠也はそのまま美咲へと駆け寄ろうとする。だが、その瞬間。不意に不穏な空気を感じ
取って、誠也はぴたと足を止めた。
 ぶわっ、と白い灰が舞った。全てを腐らせる白い灰(ヴァイスアッシェ)が。誠也と美咲
の間を裂くように、ちりちりと光に輝いている。
 そうだ。いま目の前にいるのが美咲なら、背にしている彼女は一体。
 誠也は身体を捻り、『彼女』へと視線を移す。右手に美咲を、左手に『彼女』を、やや
目の前にツヴァイを置いて。
 全く同じ顔。同じ背丈。さすがに服は違えているが、もしも同じものをまとっていれば
絶対に区別は付かないだろう。ホクロ一つすら同じなのだから。
 『彼女』が一歩、美咲へと向けて歩み寄った。憮然とした顔を浮かべて、でも少しずつ
少しずつ口元が歪みだしていく。
 まるで蠱惑的な、魔女のような笑みを隠そうともせずに。
「こんにちわ、『私』」
 彼女はすっと腕を差し出して、そのまま招きよせるように手の平を向ける。
「……フィー。完成していたの」
 美咲はぽつりと呟く。このフィーと言うのが彼女の名前なのだろう。ツヴァイ、ドライ
に続いて四番目という意味の。
 フィーの言う『私』の意味が誠也にはわからない。だが美咲もツヴァイも、そしてもち
ろんフィー自身にもその声がはっきりと理解できているようだった。
 確かに美咲とフィー自身はまるで双子のようにそっくりだ。だが双子だからと言って、
姉妹の間で相手を『私』と呼び合う事もないだろう。ましてや偶然そっくりなだけの人間
をそう呼ぶ事もない。
 なら考えられるのは、一つだけ。現在の技術ではまだ不可能なはず。しかしこうして目
の前にいるのだから、信じざるを得ない。
「クローン、か」
 誠也は美咲とフィーを交互に見つめながら言葉を漏らした。
 クローン。すでに一般化したこの言葉は、本人の細胞などを利用して全く同じ個体を作
り出す事が出来る。クローン羊や牛が話題をさらった事もあるし、技術的には人間のクロー
ンを作る事も十分に可能だと言う。
 だが現在のクローン技術はあくまで母胎に遺伝子情報を組み込んだ卵子を埋め込み出産
させるというもの。従って成長には普通と同じだけの時間が掛かる。
 だから有り得ないはずなのだ。こうして全く同じ顔をした二人が並ぶなどと言う事は。
歳の分だけ顔や身体というものは変わるはずなのだから。
「そう。私はそこにいる彼女、ドライのクローン。最強の力を生み出した彼女と、同じ個
体を生産する為の試み。それによって生まれたのが、私。つまり私と彼女は全く同じ個体。
だから目の前にいるのは――――私」
 フィーは美咲をじっと見つめると、くくっとくぐもった笑みを浮かべた。
 あからさまに雰囲気が変わっている。美咲がいない時のフィーは、どこかが微妙に狂っ
てはいたが美咲のように淡々とした喋りで静かな雰囲気を身にまとっていた。
 だが今は違う。明らかに笑みを浮かべ、きびきびとした動きを見せ始めていく。まるで
美咲と出会う事で火がついたかのように。
「遺伝子が同じでも、貴女は私じゃない。私は人だから。人である事を忘れたくないから。
だから違う」
 美咲は静かな声で告げる。そしてその手をぎゅっと握った。
 しかし手に力が集まりはしない。白い灰を呼び出す事もない。
「白い灰(ヴァイスアッシェ)は使わない」
「ふふっ。まさか白い灰(ヴァイスアッシェ)を使わずにあの場を抜け出すとは思ってもみ
なかったよ。今の君なら、僕の黒い羽根(シュヴァルツフリューゲル)だけで十分片が付く
と思っていたのに。あの場から抜け出すには白い灰(ヴァイスアッシェ)を使うしかないと
ね」
 ツヴァイはくすくすと笑みをこぼしながら、その右手を背へと伸ばす。刹那、闇色の翼
がツヴァイの背に広がっていた。
 確かにかつて見たその羽根は、翼の持っていた闇の羽根と同じ。いやそれよりも遙かに
深い深い闇を伴う。真闇の羽根。
「その羽根は」
 誠也は思わず叫んでいた。翼の背にあった羽根。彼女にいつの間にか生まれていた不思
議な力。誠也はなぜか冷静に捕らえていたものの、疑問に思わなかった訳ではない。
「ああ。やっぱりあの子にも生まれたんだね。闇の羽根が。素質はあると思っていたんだ
よ。僕の黒い羽根(シュヴァルツフリューゲル)は心の中に深い闇を秘めたものが受ければ、
その闇を増加させる。その闇の持つ、最大の形にまで」
 ツヴァイは、あはははっと大きく笑い声を漏らしていた。今までの微笑ではない、はっ
きりとした冷笑を。
「あの子はドライを殺そうとしたかい。それとも君をかな。でも二人ともここにいるって
事は彼女は返り討ちにあったのかな。ごく普通の子だからね、敵う訳もないだろうけど」
 ツヴァイの言うあの子が翼である事は間違いないだろう。恐らくあの街で翼はツヴァイ
と出会い、そして彼の言う黒い羽根を受けた。
 翼は心の中に残していた闇。美咲への恐れと妬み、誠也への求心。それをどこまでも深
め、そして。
「貴様……」
 誠也は苦い声を漏らして奥歯を噛み合わせる。ぎり、と歯が軋む音が響いた。
 翼が壊れてしまったのは、翼自身の持っていた闇のせいかもしれない。だけどその背中
を崖に向けてぽんと押したのは、目の前にいる男。ツヴァイ、彼に他ならなかった。
「そんな事はどうでも良い。大事なのは、彼女と私、どちらが優れているのか答えを出す
事。『オリジナル』を越えたはずの、私が。――《ブラオレーデン》」
 突如、フィーが叫ぶ。両手を高らかに頭上へと挙げて、一気に落とす。
 その瞬間、蒼色の光の粒が流星のように降り注ぎ始める。美咲の周りから少しずつ間を
狭めるようにして。
「紅い瞳(レーテプヒレ)」
 美咲の右の眸が深紅へと彩られていた。その瞬間、美咲の動きがまるで機械のように精
密な動きに変わった。
「無駄なことっ。紅い瞳(レーテプヒレ)は陰を捉える事が出来ないように、光も捉える事
が出来ない。それでは私の《ブラオレーデン》は避ける事は不可能っ、不可能ぉぁっ」
 突如、切り裂くような声で叫んだかと思うとフィーは、高らかに哄笑する。かかかかっ
と奇妙な笑い声が響く。
 狂っているのか。ふと誠也は感じていた。
 いま美咲が熾烈な攻撃を受けようとしているというのに。
 俺は、どうしたんだ。誠也はなぜか胸の中がうずき出していた。あまりにいくつもの事
件が重なって、感覚が麻痺してしまったのだろうか。こんなにも冷静でいるだなんて、全
くおかしな事だ。
 蒼色の光の粒は、シュゥと甲高い音を立てながら、いくつもいくつも降り注いでいた。
普通の人間であれば絶対に避けられないはず絶え間ない流撃。その流星は何かに触れた瞬
間、キィンと鋭い金属のような音を立てて。空間を崩す。その場にあった存在が、さらさ
らと砂のように散って、そのものを消し去っていた。物を腐らせる白い灰(ヴァイスアッ
シェ)などとは違う。
「《ブラオレーデン》――蒼の装弾は受けた存在の分子を強制的に分解する。欠片でも受
ければ、全てが単一の原子に変えられるぅぅっぉああ」
 フィーの叫びの共に、蒼い光が美咲へと幾重にもなって襲いかかる。地面が、あちこち
砕けたガラスが飛び散るように姿を変え、舞い上がっていく。
 だが。美咲はそのことごとくを紙一重の動きで避けきっていた。
「な、なにぃぉ」
 フィーは驚愕を全く隠そうともしない。避けられないはずの光の粒を美咲はことごとく
かわしてみせたのだから、当然なのかもしれないが。
「その技は私には利かない。ツヴァイの黒い羽根も。すでに見切ったから」
 美咲は淡々と告げる。そしてすっとその手を挙げた。
「ばかなばかなばかなっ。私自身とて、蒼の装弾(ブラオレーデン)の光を捉える事は出来
ないのに、なぜっ、なぜっ捉えられる」
「……教えない」
 美咲は呟くと、一気に駆けだしていた。
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