崩落の絆 (19)
 誠也は走っていた。とにかく走っていた。
 この時間だ。電車はすでに走っていない。なら行ける場所には限りがある。もしどこか
に行くつもりなら街へと向かっただろう。
 一時間も走れば隣街には辿り着く。小さな街ではあるが、この寂れた街よりはずっと街
らしい息吹がある。小さいながらも繁華街もあるし夜の街もある。良くも悪くも人間らし
い彩りに染まっている。
 車が通りもしない国道は、隣街と山にしかつながっていない。行くならば街の方だろう。
 無論、美咲が敢えて街を避けたという確率もある。元より無口な美咲の事だ。人を避け
て山を選ぶ事だって有り得る話ではある。ましてや翼とやりあった後だ。人恋しく感じる
とは思えなかった。つい数時間前だって誰もいない公園で一人座っていたのだから。
 しかしそれでも誠也には美咲が街に向かったのだという確信があった。いや目的の場所
は隣街ではない。
 あの時と同じ街。美咲と、もう一度出会った街。理由も根拠も無かったが、理屈ではな
く誠也は感じていた。美咲はそこに向かっていると。
 雨はすでに上がっていた。濡れた路面がもうわずかに凍り付きだしているところもある。
かなりの冷え具合だ。
 美咲がどれだけの速度で移動しているかはわからないが、すでに誠也は一時間走り通し
だった。そろそろ追いついても不思議ではないはずだった。もちろん同じ方向に向かって
いるとすればだが。
 隣街の光が見えてくる。その街明かりの向こうに、ちらりと少女の影が見えた。遠目で
はあったが、確かに美咲の後ろ姿を見つけていた。
「美咲!」
 思わず大きく声を上げる。だがその声も届いていないのか、美咲はすっと角を曲がる。
「聞こえてないのか。くそ。距離が遠すぎるたか」
 誠也は苦々しく呟くと、すぐに足を速めていた。さすがに無理をしすぎている。足が棒
のように重い。
 それでも半ばひきずりながらも、誠也はただ見えた影を追いかけた。美咲に会いたい。
ただその想いだけで。伝えたい言葉があるから、と。
「美咲っ」
 美咲の曲がった角にさしかかったところで、彼女の名を再び呼ぶ。しかしそこに美咲の
姿はなかった。あったのは、一つ。
 腐りかけた、人の、死体。
 まるで腐食性の薬品をかけたかのように、どろどろに溶け落ちた肉。ところどころこそ
ぎ落ちて白い骨を覗かせている。
 目玉が、とろりと白い液体と化して落ちながらも、まだ微かに形を残していた。
 まるで、話に聞いたような。あの時、この目で見たような、腐り落ちたモノ。
 白い灰(ヴァイスアッシェ)。美咲の術(クンスト)。美咲の通った後に残された死体。こ
の惨状を省みれば、それ以外には考えられなかった。
 二度と使わないと誓ったはずなのにどうして力を使ったのか。あるいは翼とのやりとり
で自暴自棄になってしまったのだろうか。
 信じたくない。誠也の心の中は、その思いだけでしめられていた。信じたくはなかった。
「嫌わないでほしい」と告げた、あの時の瞳が忘れられないから。人であろうとしたはず
なのに。力があっても美咲は美咲だとは思う。だけどその力で人を殺して欲しくはない。
「くそっ、美咲。どこだ」
 まだ遠く離れてはいないはず。だとしたら今なら追いつける。誠也はかすかに唇を噛ん
で駆けだしていた。
 腐れた死体の横を誠也は追い越していく。目を背け直視しないようにして。視界に入る

だけでも、胸の奥から酸っぱいものが上がってくるような気がする。
 急激に身体に疲れが降りてきていた。何かが壊れ始めているような、そんな感覚に包ま
れていた。
 美咲は翼の言うとおり俺達を壊してしまうのだろうか。永遠の緑を壊す、白い灰なのだ
ろうか。誠也は胸の内で呟く。
 真は重傷で身動きもとれず、翼は悲しみからか壊れてしまった。そして、いま誠也は翼
を振り払ってまで美咲を追いかけて伝えようとした言葉の意味を失い始めている。
 崩落の始まり。永遠なんてどこにもいないのだと、彼女は告げにきたというのだろうか。
 いや。違う。違うはずだ。
 誠也は強く噛み締めて曲がり角に差し掛かる。この道に姿が見えない以上は、ここを曲
がったはずだと誠也は勢いをつけたまま曲がり角へと向かう。
 そこで、見えたものは。
「白い灰(ヴァイスアッシェ)」
 ややトーンを低くした、しかし確かな美咲の声が強く響いた。
 ヴァッと鈍い音が奏でられて、美咲の向こうにいた誰かを白い灰が包み込んでいた。
 誰かは、声を上げる瞬間もなく溶けさっていく。肉が腐り、そげ、その骨身を少しずつ
露出させていく。
 だが、それだけではなかった。美咲の周りには何人もの死体が、その身を腐らせていた。
中には死にきれないのか、じたばたと手足を動かし、その度にぼたぼたと溶け去った肉を
飛び散らせているものもいた。
「みさ……き」
 誠也は美咲の名を呼んで、だが次の瞬間には思わず口を押さえていた。胃から何かが上
がってくる。その感覚を抑えるだけで、目が回りそうになる。
 美咲はだが何も答えずに、誠也をじっと見つめていた。その目に浮かんでいたのは悲し
みでも悔悛でもない。
 悦び。ただ、それだけ。
 しかしこの瞳は誠也と出会えた事に向けられているものではなかった。誠也にはわかる。
美咲の目に浮かんでいたのは、確かな充実感。
 自らの存在意義を示し、やりとげたその事に対しての。人を殺す。ただその為に創られ
た自分の役割を果たした事への。
 確かに瞳の中に見えているのは、他の何でもない。ただ一つ――――狂気。
「なぜだ。なぜ、殺す。もう力は使わない。そう決めただろ。なのに、なぜ」
 誠也はそれでもなんとか意識を保ちながら、美咲をじっと見つめていた。
 その問いに答えたのは、冷たい視線。浮かんでいた悦びの色は消え、すっと凍り付くよ
うな瞳へと移る。
「私は、そう創られたから」
 美咲は静かに答え、微かにその顔を沈ませた。誠也から視線を逸らす。
 今も理性が残っているのだろうか。そうだとすれば、まだ。まだ間に合うはず。
「言っただろ。人にはない力があっても、使わなければ、人でいられるって。もうやめる
んだ、そんな真似は。自分が傷つくだけだ」
 誠也は強く言い放つと、一歩だけ美咲へと歩み寄る。しかし美咲は顔を沈めたまま、た
だその場にじっとしているだけだった。
「まだ間に合う、間に合うはずだ。戻ろう。俺達の居場所に。永遠は壊れないから永遠な
んだ。みんな、待ってる。お前が帰ってくるのを」
 誠也は目の前から後ろへと、大きく手を振って。それから美咲へと手を差し出した。だ
が美咲はその手に気がついているのかいないのか。身動き一つする事はない。
 いや。
「嘘。」
 ぼそり、といつもの様に呟く。ただ静かに告げた声は、微かな力で響く。
「嘘なんかじゃない。翼だって。あいつはあんな事があって取り乱しているだけだ。落ち
着ければ、必ず」
 誠也はじっと美咲を見つめ、そして差し出した手の平をぴんと開く。その場の取り繕い
なんかじゃない。心からそう信じている言葉。美咲は俯いたまま、ただ肩を震わせていた。
「美咲」
 声をかけて、そしてもう一歩近付こうとしたその瞬間。
 不意に、美咲は顔をあげた。その紅い瞳をまっすぐに誠也に向けたまま。
 その中に嘲りの。色を浮かべて。
「嘘よ。だって――永遠なんてないもの」
 美咲は呟いてその手を高らかに挙げた。手の中に力が集まりだしているのがわかる。
「美咲! 違う。確かに時間は流れ人は変わる。だけど、永遠はある。それは自分の中に
あるんだ」
 誠也は叫び、左手で自らの胸を押さえてみせる。そして今にも力を。白い灰(ヴァイス
アッシェ)を解き放とうと力を集め出している美咲に、それでもまた一歩寄った。
 誠也はその間、差し出した手を一度も引こうとはしない。まっすぐに伸ばした右手は、
美咲へと向けたまま。
 美咲は何も答えずに、だけど差し出された手へ自らの手を向ける。いや、向けようとし
た瞬間だった。
「やめた方がいい。死ぬよ、君」
 その声は頭上から響く。思わず誠也は声のする方へと視線を移していた。
 住宅の屋根の上。声の主、ツヴァイはそこに立って不適な笑みを浮かべている。
「貴様。確かツヴァイとか言った」
 誠也は思わず声を漏らして、そして挑むような目でツヴァイを睨みつける。
 しかしツヴァイはまるで気にしていないかのように、口元に笑みを浮かべていた。あか
らさまな嘲笑を。
 誠也は眉を寄せ、次の瞬間。大きな目を見開いた。ツヴァイのその左腕がだらんと力な
くぶら下がっている事に。明らかに大きな怪我をしているのは間違いがない。
「お前、その腕」
 微かに案ずるような声で、誠也はツヴァイの腕と顔を交互に眺めた。かなりの重傷に違
いないはずなのに、その顔には苦痛の色の一つすらない。痛みを感じていないはずはない
のに。かつて傷つけられそうになったとはいえ、いまあからさまに傷ついているツヴァイ
に軽く唇を噛む。
「ああ。この腕? やられたよ。甘くみていた訳ではないけど、想像よりも一枚上手だっ
たという事かな。さすがは、ドライ。僕と同じ冷血動物だけはある」
 ツヴァイは、くすくすと笑みを漏らす。
 ドライと言うのが美咲の事だと言う事くらいはわかる。だが怪我をさせた本人の前で、
しかし何事も無く笑っている。
 こいつもどこかおかしいのだろうか。誠也は口の中で歯を強く噛み締める。
 翼も、美咲も。少しずつ狂っていく。どこか感情を壊していく。誠也はただそれが悲し
かった。いや自分自身もすでに壊れてしまっているのかもしれない。何もかもがわからな
くなる。
「そんな事より、君も一つどうだい。こういう時はこれに限る」
 ツヴァイはくすくすと笑い声を消す事なく、懐から何かを取り出して、ぽんと誠也へ向
けて投げる。
 慌てて誠也は後へと下がっていた。何を投げたのかはわからなかったが嫌な予感がする。
そして、それは間違いではなかった。
 誠也が思っていたような、爆発物や酸の類ではなかっただけ。
 それは地面に落ちて、べちょっと鈍い音を立てて潰れた。じわ、と崩れて地面の上で微
かに液体を撒き散らした。それは。
 白い。目玉。恐らくは、人間のものであろう、眼球。
「お前、何を」
 思わず声を荒げていた。喉の奥に戻りだしてくるものを必死で抑える。
「ふぅん。もったいない。ドライの紅い瞳には敵わないものの、なかなか美しい瞳だった
のに」
 ツヴァイは言いながら、もう一度懐から目玉を取り出していた。
 ぞく、と誠也の身が震える。それ恐れなのか、怒りなのか。誠也にはもうわからない。
ただ胸の奥から消えていくような。残っているのは、そんな感覚。
 何も言えず、誠也はただ呆然とツヴァイを見つめていた。その次の瞬間。
 じゅるぃり……。
 ツヴァイは奇妙な音を立てて。吸い込むようにして一口で。喰らう。
 誠也はその瞬間もう抑えきれずに、喉の奥から一気に吐き出していた。
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