崩落の絆 (17)
三.消えた願。届くことのない想い。
 
 コンクリートの上に、足音が響く。
 夜中の街並みを駆ける甲高い音。冷たい空気が身体を苛んでいく。
「いたぞ! あっちだ!」
 大きく声が響き、美咲は慌てて建物の影に姿を隠す。
「……このままじゃ、追いつかれる。使うか。だめ。私はもう術(クンスト)は使わないっ
て決めた」
 ぎゅっと手を握りしめる。
 双眸が痛む。紅い色の、右の瞳も。
 右目を押さえて、それから再び走り出す。タンタンと小さな音が、辺りに響いていく。
 街並みの雑踏に紛れ込めば何とか逃げ切れる。いかに奴らでも、一般人を巻き込んでま
では技を使う事はないだろう。美咲はそう確信して、ただ裏街を走る。この辺りは人気が
少なく、平気で技を使う可能性がある。危険だ。駆け抜けなければ。
 足音が小さく。しかし確実に響いていた。
 もう少し。もう少し抜ければ街中だ。美咲がそう思った瞬間。
 路地の向こうに、一人の若い男が立ちふさがっていた。
「やぁ、ドライ。ひさしぶりだね」
 声はまるでごく親しい友人と出会ったような。そんな優しい声。だが、ここにいる彼が
そんなつもりのはずはない。
「ツヴァイ。どうして貴方が」
 美咲は大きく叫ぶ。
「どうして? それは僕の台詞だよ。君がいなくなるとは思ってもみなかっ」
「お願い。通して。私はいかなくちゃいけない」
 ツヴァイと呼んだ青年の言葉を遮り、美咲は声を荒げる。
「通さないといったら。使うかい、君の白い灰(ヴァイスアッシェ)を。あれは最強の芸術
だからね」
「…………」
 美咲は声を押し殺して、ぎゅっと手を握る。その瞬間、力が集まってくる。
 だけど首を軽く振って、そしてツヴァイへとじっと視線を送る。
「私は、もう術(クンスト)は使わないって決めたから」
「無理だね。君は必ず使う事になる。なぜなら」
 ツヴァイは言葉を一度遮る。
 そして溜めたものを吐き出すように。告げていた。
「僕らは、そう創られたんだから」
 ツヴァイの言葉に、美咲の胸が強くうずく。
 創られたもの。確かに自分は創られた存在に過ぎないのだから。冷血動物(カルトブリュ
ータァ)として。

 本来の意味とは違う。心の通わぬ武器として生まれただけだから。
 ツヴァイの手がすっと伸びる。その瞬間、美咲は大きく後へと飛び退いていた。
 美咲がいた場所に、バチバチッと激しく飛び散るような音が響く。黄色い火花と共に。
「よく避けたね。僕の《ゲルプシュランゲ》――黄色い蛇を。
 と、言ってあげたいところだけどね。今のはわざと外したんだよ。当てるつもりなら当
てられた」
 ツヴァイは、優しい笑みを浮かべながら。まるで恋人に接するように愛おしげな瞳で見
つめながら。
 美咲の身体に、ぞくりと冷たい何かが走る。今までもツヴァイの視線には慈しむような、
だけどどこか何か獲物を狙う獣のような眼差しが含まれていた。
 だけど今は違う。何よりも大切なものを、手にいれる喜びに満ちあふれている。何より
も大切なものを、壊す。嬉しさに。
「いたっ。こっちだ」
 その瞬間、背後から声が響く。しまった。囲まれた、と美咲は唇を噛む。いつのまにか
前後を数人の男達に取り囲まれていた。
「出来損ない」
 美咲は思わず声を上げていた。静寂に包まれている路地裏に、しんと響き渡る。
「死ね! 死ね! 死ね!」
 出来損ないのうちの一人。まだ二十代前半であろう若い男の腕が、ぎゅぅんと音を立て
て変化していく。
 硬質的な鎌の刃のような形状。男の持つ欠片(シェルベ)の力だろう。破片を意味するそ
の力は、身体の一部を強制的に変化させる事により力を得る能力。
 だが美咲に斬りかかった男は、次の瞬間大きく宙に浮かんでいた。そのまま壁に激突し、
ぴくりとも動かなくなる。
「馬鹿が。ま、出来損ないは所詮出来損ないって事だね。白い灰(ヴァイスアッシェ)を使
わなくても、ドライには紅い瞳(レーテプヒレ)がある。その紅い瞳がね」
 ツヴァイは言い放って、じっと美咲を見つめる。美咲のその右の瞳が、いまは真っ赤に
染まっていた。美咲の欠片(シェルベ)。全ての時間をコマ送りして見られる力。その力の
前ではたかだか腕の硬質化させる能力だなんて、まるで意味を成さないのだ。
「所詮、出来損ないは出来損ない。僕達、冷血動物には叶わないんだ。コマはコマらしく、
指示に従えばいいんだよ」
 ツヴァイはくすくす笑いながら、自分の指先をぺろりとなめる。紅い舌が、何か蛇のそ
れのようにすら見えた。
「私を、どうするつもり」
 美咲はきっと強い視線でツヴァイをにらみ返す。ツヴァイのどこか恍惚とした瞳が、再
び背筋に冷たいものを走らせる。
「そんなに怯えなくてもいいよ。僕は君の味方だからね。どうもしないさ。本部に連れ帰
るだけ」
 ツヴァイは唇の前にあった指先を、すっと美咲の顔へと向ける。わずかに濡れた指先か
街灯の光に当たってきらりと響く。
「ただ、君が欲しい。君のその紅い瞳が」
 ツヴァイの背がふわ、と揺らめく。いやそれは正しい表現じゃない。ツヴァイの背に闇
が広がったのだ。
「《シュヴァルツフリューゲル》!」
 美咲は一歩、後に飛び退いてツヴァイから距離を取る。ツヴァイの背にある闇を見つめ
ながら。
「そう。僕の欠片(シェルベ)、黒い羽根。数々の欠片(シェルベ)の中でも、もっとも謎に
包まれた力、だろ。君の中では。
 それはそうだろうね。人には翼なんてないから。欠片(シェルベ)は人の一部を強制的に
変化させる力なのに」
 ツヴァイの言葉に、ぴくっと美咲の肩が跳ねる。美咲にとって確かに未知の力だった。
「……それでも、私の紅い瞳には敵わない」
 本当はこの力も使いたくないけれど。美咲は内心呟く。だが欠片(シェルベ)は己の肉体
に宿った力だ。大きくは離れはしないと思う。
 半ば自分に言い聞かせるように、瞳に意識を集中する。いくらなんでもこの場を何も力
を使わずに抜け出せるとは思えない。
 美咲はツヴァイの事は良くはしらない。ただ同じ冷血動物の名を冠した同類だという事
しか。彼が持っている能力にしても、その名前以上の事ははっきりと知らなかった。
 対してツヴァイは美咲の力を良く知っている。戦いの場において相手の力を知っている
事はそれだけで大きな利を得ている。例え力に差があったとしても対策を立てられるし、
知られていなければ相手の隙をつける。
 戦いにおいて大切なのは力の多寡だけではない。いかに持っている力を活かし使うか、
その一点における。逆に言えば相手に力を出させなければいい。力を知られているという
事は、それだけで戦いの場において重い枷を背負っているという事。
「確かに、君の紅い瞳(レーテプヒレ)は欠片(シェルベ)の中でも最強クラスの力だ。白い
灰(ヴァイスアッシェ)と並び、最強の名を欲しいままにする力ではある」
 くすくすと笑いながら告げて、それから背にした翼をはためかせたかと重うと、ゆら、
と辺りの光が一瞬、遮られる。
「でも、いくら見えても避けられなければ同じ事だね」
 ぱちんっ、と指を鳴らすような音が響いた。その瞬間、周りを取り囲んでいた出来損な
い達の身体が揺らめく。
「! 何をっ」
 美咲が叫ぶ。出来損ない達は、ゆら、ゆら、と身体を震わせていた。まるで意志のない
風船のように。
「さぁ、なにかな。でも、君はすっかり精神干渉(ゲヒルンヴェッシェ)から覚めてしまっ
たみたいだね。君のあの全てを抑え込むような話し方は好きだったのに。いかにも心を忘
れまいとしてもがくようなさまがね」
 ツヴァイはくすくすと囁くように笑うと、美咲をまっすぐに見つめる。
 と、そうしているうちに出来損ない達の様子が激変していた。ゆらめいていたはずの彼
らが、初めと変わらず立ちつくしている。
 いや、どこか初めよりも強く意志を込めた瞳をじっと美咲へと向けていた。出来損ない
達の一人が、ふと一歩前へと向かう。
「憎い。お前が憎い。なぜ俺達だけが出来損ない(ニヒツヌッツ)などと呼ばれて屑のよう
な扱いをされねばならぬ。お前と俺達の違いは術(クンスト)を使えるか否かしかない。な
ぜ、お前だけが使える」
 その男はぎらつくような眼差しを隠そうともしない。そしてその足が、ぶうんという音
を立て明らかに人と違うものに変化していく。獣のように体毛に覆われた鋭い爪をもつ脚
に。
 みると他の出来損ない達もすでにあちこちに変化を見せていた。各々の欠片(シェルベ)
を発動させているのだろう。
「……その程度の力では私は倒せない」
 美咲はやや呟くように告げていた。例え術(クンスト)を使わないとは言っても、所詮は
出来損ない。その力などたかがしれている。美咲の紅い瞳だけでも十分以上に対抗出来る。
 それでも美咲は出来れば戦いたくない。戦えば傷が残る。相手にも、自分にも。いや出
来損ない相手ならば美咲は身体に傷を負う事すら無いだろう。だが、違う。傷は出来るの
だ。取り戻してきた心に。
 まだ美咲の記憶は完全には戻っていない。しかしすでに精神干渉(ゲヒルンヴェッシェ)
により抑えられていた心は解放されていた。
 皮肉にも歪んでしまった翼の心の闇に触れる事により。だから、痛い。傷つける事も傷
つく事も。
 罪は消えない。美咲が人を殺した事は事実だ。死んだ人間は生き返る事はない。犯した
罪の記憶は、確かに美咲の中に残っている。
 だから、これ以上に人を殺めたくない。それが許されるならば。
 戦いたくないからこそ、力の差を強調していた。戦っても無駄だと告げたかった。でも
それは美咲が、まだ人の心を理解しきっていない証拠とも言える。現に出来損ない達にとっ
ては挑発以外には聞こえはしなかった。
「ふざけるな! 例えてめえが冷血動物(カルトブリュータァ)だといっても、これだけの
数には敵うまいが。そしてこっちにはツヴァイもいるんだ。負けるはずがない」
 出来損ない達の数は十数人。さらに美咲と同じ冷血動物(カルトブリュータァ)であるツ
ヴァイもある。客観的に見ても負けるはずはない。それが出来損ないの思いだった。
 自分達と美咲がさほど変わる訳がない。そう信じているからこその思い。だか彼等はし
らない。同じ欠片(シェルベ)と言えども、彼等と美咲の持つ力は天と地ほどの差がある事
を。
 普通なら。
 出来損ないの男が走る。下肢を強化された男のスピードは明らかに人のそれと違う。普
通の人間なら、眼前に迫ったその瞬間まで何が起こったかわからないだろう。
 だが美咲の紅い瞳は、その動きを完全に捕らえていた。必要最低限だけ避けると、その
首筋に手刀を振り下ろす。
 出来損ない(ニヒツヌッツ)や冷血動物(カルトブリュータァ)と言っても、欠片(シェル
ベ)で強化されていない部分は身体の構造が大きく異なる訳ではない。それでも美咲達冷
血動物(カルトブリュータァ)には反射神経や反応速度が格段に早いという違いはあるが、
出来損ない(ニヒツヌッツ)にはそれすらもない。寸分違わず振り下ろされた手刀によって
気を失いそれで終わり。終わりのはずだった。
 だが美咲の手刀が触れようとした瞬間。バチバチッっと火花が飛ぶような音が響く。
 刹那、美咲は後方へと飛び退いていた。いま美咲の手があった場所が弾け、爆風が巻き
起こる。美咲も出来損ないの男も、それによってわずかにたたらを踏んだ。
 紅い瞳によって時間をコマ送りにしていたからこそ避けられていたが、普通の人間であ
ればかわせるタイミングではない。もしあと一瞬でも遅ければ、風を生んだ何かに巻き込
まれていたはず。
 大した威力ではない。だが戦いの最中に一撃を受ける事は大きな隙を生む。痛みは集中
力や判断力を鈍らせるし、動きそのものの妨げにもなる。小さな傷でも侮る事は出来ない。
 精神干渉(ゲヒルンヴェッシェ)の影響化にあった時ならば、多少の痛みならば感じる事
もない。全ての心を消しさる為に、痛みによる麻痺は少なくする事が出来る。だが今はそ
れもない。傷を受ければその事実はすぐに負担と化す。
 美咲は一瞬、たたらを踏んだもののすぐに体勢を整える。すぐに第二波がくると身構え
たものの、不思議な事に次の攻撃は訪れなかった。バランスを崩した今こそチャンスだと
言うのに。セオリーに反している。
 だがツヴァイは動かない。いや、それを言うなら初めから動いてなどいなかったはずだ。
紅い瞳(レーテプヒレ)ならば、全ての動きを見通せる。しかしツヴァイには力を使った様
子などなかった。ましてや出来損ない達にそんな力があるはずはない。
 だが何もない空間で何かを弾かせるなど、術(クンスト)以外には考えられなかった。そ
して術(クンスト)が使えるのは、冷血動物(カルトブリュータァ)のみ。だとすればツヴァ
イの黄色い蛇(ゲルプシュランゲ)以外に考えられはしないのに。
 冷血動物(カルトブリュータァ)は廃棄処分になったはずのアインスを除けば、美咲とツ
ヴァイの二人しか存在しないはずだから。
「いったい何が」
 警戒し、辺りを見回してみる。出来損ない達が挑むような視線で、しかしどこか遠巻き
にして美咲を取り囲んでいるだけ。おそらく美咲の実際の力を見て、わずかだが恐怖を抱
いたのだ。
 術(クンスト)を使わずとも、美咲は強いと。そして奥の手とも言える力を持っている。
出来損ない達は美咲の白い灰(ヴァイスアッシェ)がどんな術なのかは知らない。あるいは
数で対抗できない力なのかもしれないのだから。
 ならば、力を放ったのは出来損ない達ではないはずと再び美咲はツヴァイへと視線を向
ける。しかしツヴァイは優しげな笑みを浮かべて美咲を暖かい視線で見つめているだけ。
もっとも正しくいうのなら、生暖かい視線というべきかもしれないが。
「何が起きたかわからないかい。わからないだろうね、君には。君は時間をコマ送りにし
て見ることが出来る。だけどその時の映像はまるで赤外線スコープで覗いているような色
の無い世界が見えているんだろ」
 ツヴァイはくすくす笑いながら、自分の右目に指先をあてる。美咲の紅い瞳を示すかの
ように。
「君が見た通り僕は何もしていないさ。今は、ね。動いたのは闇さ。闇が、君を襲うんだ
よ」
 ツヴァイの視線が出来損ない達へと向かう。その瞬間、再びツヴァイの身体が揺らめい
たように見えた。
 まるでその背にある羽根が、ツヴァイの身体を覆い隠したかのように。
 ツヴァイの欠片(シェルベ)。《ツュヴァルツフリューゲル》――黒い羽根。黒い、翼。
「まさか」
 美咲が叫ぶ。だがその瞬間に出来損ない達が大きく飛び出していた。その身体を時々、
揺らめかせながら。
「影! 影か。貴方の欠片(シェルベ)は」
 美咲は叫ぶ。
Back Next
良かったら読んだ感想を下さい!
タイトル
お名前 (必須)
メール

★このお話は面白かったですか?
すごく面白かった  まぁ面白かった  普通
つまんない  読む価値なし


★一番好きな登場人物を教えて下さい
誠也  美咲  真  翼  ツヴァイ
両堂

★もしいたら嫌いな登場人物を教えて下さい(いくらでも)
誠也  美咲  真  翼  ツヴァイ
両堂

★好きな台詞があれば


★印象に残ったシーンがあれば


★その他、感想をご自由にどうぞ!