崩落の絆 (16)
「ふぅ。さっぱりした」
 翼が髪の毛をタオルで拭きながら戻ってくる。誠也の白いボタン付きのシャツだけを上
からまとっていて、その下から素足を覗かせている。
「上がったか。……って、おいっ。翼、その格好だと風邪ひくだろ。ちゃんと服きろよ」
 誠也はわずかに翼から顔を逸らしながら告げると、タンスから抱え込むほど大量の服を
とってきて翼へ乱暴に手渡す。
「うわ。セイ、前が見えないよ」
「その中からどれでも好きな服を選んできろ」
 誠也は愛想のない声で告げると、リビングのソファに腰掛ける。
「もってくる量が多すぎだって。ったく。はいはい。着ればいいんだろ。着れば」
 翼はもらった服をそのまま床において、その中からごそごそと気に入った服を探し出し
ていた。迷っているのか時々、軽く声が聞こえ漏れてくる。
「そういや美咲はどうしたんだ。一緒に上がらなかったのか」
 誠也はソファに座り込んだまま、ふと翼に訊ねかける。
 翼は自身も床にぺたんと座り込んでいて、これでもないあれでもないと選別していたが、
誠也の声にふと顔をあげた。
「あれ。美咲さん、先に出たはずだけど」
 それだけ答えるとそのまま再び服へと顔を戻す。気に入ったものが見つからないのか、
あれだこれだと投げ捨てるようにして服を散らかしていく。
「トイレでもいってるんじゃない。そのうち出てくるって」
 平然と告げる翼の声に、誠也はわずかに眉を寄せた。何となく翼の言葉にトゲを感じて
いたから。いつもの翼と違う、どこかとがった言葉。
 本来、翼は優しい子だという事を誠也は良く知っている。もしいつもの翼だったら、もっ
と心配したはずなのに。美咲が好きだった翼なら。誠也はわずかに顔を伏せ、唇を強く噛
み締める。
「くそ、俺は馬鹿だな」
 一人、呟く。それから振り返った。まだ濡れているジャケットを手にとって羽織るよう
にして着込む。
「セイ!」
 翼のあげた声は、明らかにうわずっていた。これもいつもの翼と違う反応だな、と誠也
は心の中で思う。しかし翼には何も答えずにそのまま背を向ける。
 そして部屋のドアを開こうとして手を掛けた瞬間だった。背中に強烈な違和感を感じ、
慌てて身をよじる。
 黒い影が走った。そうとしか思えなかった何かが、今誠也がいたその場所を通り過ぎて
いく。かと思った瞬間。
 パンッ……と甲高い音を立てて扉の一部が弾けていた。まるで風船が弾けるように。
「セイ、どこにいくの。外は寒いよ」
 翼はにこやかに微笑みながら、ゆっくりとした声で告げる。その背に黒い闇。そうとし
か言えない何かを背負って。
「それに暗いよ。外は暗いんだよ。だからセイはボクとここにいるんだ。ね。ほら、ボク
は暖かいよ」
 両手を伸ばして、翼は誠也を手招きしていた。ボタンをとめていない白いシャツの裾口
から、その肌をさらと覗かせていた。ほそりとした腕と素足を覗かせて、確かに温もりを
伝えようと。
 誠也は軽く息を飲み込む。もしも今この瞬間でなかったら、あるいは誠也はその手をとっ
ていたのかもしれない。翼の事は嫌いじゃない。いや、むしろ強い好意を持っていた。好
きだからこそ、ついからかってしまうのだから。翼はずっと一緒にやってきた仲間で、そ
して同じ孤独の中の住人だったから。
 深夜コンビニの駐車場に、一人ずっと座っていた少女。初めは男の子に見えたし、きっ
と見かけた人達もそう思っただろう。だから誰も声を掛けなかったのかもしれない。今時
夜中のコンビニに集まる少年なんて珍しくもない。
 女の子だと分かっていれば、もしかすれば危ない趣味のオヤジにでも声を掛けられたか
もしれなかった。しかしそれもなく翼は一人俯いて座り込んでいるだけだった。
 翼は自分が少年のようにしか見えない事を気にしていたが、この時ばかりはそれが幸い
したのかもしれない。
 翼はあの時、声をかけてきた人には誰彼構わずついていっただろうから。今の苦しみか
ら救い出してくれる人なら、誰でも良かっただろうから。例えその先に痛みしか待ってい
ないのだとしても。
 翼は父親の愛人の子供だ。だがそれでも母親と弟と三人で仲良く暮らしていた。弟の父
親とは血は繋がっていない。しかし翼にとって父とはその人の事だった。認知もされてい
なかった翼を連れた母を本当に愛してくれた優しい人だった。
 その義父も病気ですでに亡くしていたが、それでも翼は家族と一緒だった。幸せだと思っ
ていた。あの日がくるまでは。
 家に帰った翼を迎えたのは、母親や弟ではなかった。見も知らないスーツ姿の男だった。
それが実の父親の秘書だと言う事を知ったのは、ずっと後の事。その日から突然、翼は何
も聞かされぬまま、白川の家に引き取られ暮らす事になった。子供が産めない為に捨てら
れた一人の女と共に。
 その女の痛みが、抵抗も出来ない幼い子供、それも旦那の愛人の子である翼に向けられ
るのは当然の成り行きだったのかもしれない。それからの毎日は、翼にとって空白の時間
だった。何も生まない、何も残らない日々。
 あの時座っていた翼の顔には、一つも傷は無かった。誠也は初めずいぶんと綺麗な顔の
少年だな、と思ったくらいだ。だけどその翼には爪が「なかった」。赤い痕が指先に残っ
ているだけ。だらしなく着た服の隙間から見えるのは、傷のない場所を探す方が難しいよ
うな大量の赤い印。
 それに気が付いた瞬間、誠也は何も言わず翼の隣に腰掛けていた。だけど翼は誠也に気
が付いていないかのように座り続けていた。ただ二人、何も喋らずにそこに座っていた。
 それが翼と誠也の出会い。言葉は無かったけど、いつのまにか共有していた時間。それ
が翼にとって、空白から抜け出す事になるのは、もう少し後の事だったけども。
 誠也はあの時の事を、思い出していた。一人きりでいた翼を。笑わなかった翼を。自分
と同じ目をしていた翼のことを。だけどそれでも、誠也は今はその手をとれなかった。
「そう。どうしても美咲さんを探しにいくっていうんだね」
 ためらう誠也に、翼はわずかに沈んだ声を漏らす。ぎゅっと目を瞑って、そして開く。
その目がもうどこにも向かっていない事に、誠也は思わず息を飲み込んでいた。
「なら。死んで」
 翼がその手を大きく横に振るう。翼の背にあった闇が突然、誠也へと襲いかかる。
 慌てて身をよじって避けると、誠也が今たっていた場所がボンッと小さな音を立てて弾
け飛んでいた。
「どうせボクをみてくれないなら、いないのと一緒だ。でもセイを殺せば、ボクだけのも
の。セイはボクをみてくれる。セイはボクを抱いてくれる。だからセイを殺すんだ」
 翼の背にした闇がどんどんと膨らんでいく。まるで大空を飛ぶ鳥の羽根のように大きく
大きく広がりながら。
 誠也が軽く目を伏せる。見ていられなかった。翼の背に浮かぶ闇の正体、翼の心に。
「ねぇ、セイ。ボクをみてよ。どうして顔を伏せるんだよ、セイ」
 翼は寂しげな声で、闇を解き放つ。誠也の周りがその度に、バチッと音を立てて弾けた。
 だけど誠也は翼をみていられなかった。あの闇に飲まれたなら誠也自身も弾けてしまう
のだろうが、それでも翼と顔を合わす事が出来なかった。
「どうして顔を伏せるんだよ。ねぇ、ボクをみてよ。ボクはセイを殺すんだよ。抵抗しな
いとセイは殺されちゃうんだよ。セイはこんな事で死にたくないよね。なら、ボクをみて
よ。ねぇ、なのに、どうしてボクをみてくれないの」
 翼が自分の顔を両手で覆う。その様子に、再び誠也はぎゅっと目を閉じる。
 もしもこの瞬間、翼に殺されたとしたら。それならそれでもいい。誠也は内心そう思っ
ていた。翼に答えられないでいる自分は、翼に殺されるなら仕方ないかもしれないと。
 俺も正常じゃないな、と誠也は内心呟く。悲しいとは思う、切なくもある。でもなぜか
不思議な力を得ている翼にも、殺され掛かっている自分にも。いつのまにかこんなにも求
められていた想いにも。どこか冷静さを保っている自分に。なぜ自分はこんなに冷めてい
るのだろうと。
「……いやだ。蔑みでも嘲りでもいい。侮蔑でも軽蔑でもいい。でも、いやだ。ボクをみ
てくれないのはイヤだ!」
 翼が背にした闇の羽根が、翼自身を飲み込んでいく。あまりにも大きく育ちすぎた暗い
想いが。そして包み込んだ闇は、弾ける。
 バチバチッっと激しく火花が飛ぶような音が大きく響いた。
「翼!」
 誠也は思わず声を上げていた。伏せていた顔をあげ、目を見開いて。
 闇は一気に弾け、そしてそのまま消えていなくなる。翼の背には、もう何もない。
「……ああ。セイ。やっとみてくれた……。ボク、他に何もいらない。セイだけが欲しい。
美咲さんを探すなら、それでもいい……。だから、ボクから目を背けないで……」
 翼は静かに声を漏らす。傷だらけの素肌を晒して。にこやかに微笑んで。
 その場に、崩れ落ちる。
「翼!」
 慌てて誠也は翼を抱え上げる。だけど、翼は目を覚まさない。ただ笑顔のままで誠也へ
と力なく身体を預けていた。
「ごめん……翼。俺は」
 いかなくてはいけない。声には出さずに言葉を紡ぐ。
 俺は酷い奴だ。心の中で何度も呟きながら、翼を軽く抱きしめる。幸い命に別状ないだ
ろう。あの闇の翼は、音ほどの力はもっていないのかもしれない。
 まるで翼の背に黒い羽根が生えたように見えた。翼の想いが沢山こめられた翼。
 皮肉なものだと、首を振るう。誠也はもういちど目を瞑りそして開く。翼は嬉しそうに
笑っていた。
 それが何よりも、誠也の胸の奥に沈み込んでいく。
 翼をベットにねかせて、毛布をかける。
「帰ってくるから。必ず帰ってくるから。……その時は」
 誠也は翼を見つめて、その額に軽く指先を当てる。この先の言葉は、声には出せなかっ
た。それでも必ず叶えるつもりで、ぎゅっと手を握りしめて、もういちど、心の内でごめ
んなと呟く。
 どうして俺はずっと傍にいて、今も激しく求めてくれる翼ではなくて。何を考えている
のかもよくわからない、何を望んでいるのかもわからない美咲を捜しにいくのだろう。誠
也の心の中に、何かが揺れている。
 だけどその想いの正体を見つけなくてはいけない。誠也は何故か強くそう思った。
 探さなくては。と。
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