崩落の絆 (15)
 ずぶぬれ三人が部屋の中ってのも、また馬鹿みたいだな。この寒いのに。誠也は一人、
口の中で呟くと、とりあえずエアコンのスイッチをいれる。
「ねー、セイ」
「ん。」
 その瞬間、不意に翼がぼっきらぼうに名前を呼んだ。
「すっげー寒い。シャワーかりていい?」
 身体をぎゅっと両手で包み込んで、ぶるぷると震わせている。
 確かに雨に濡れてあんなところでじっとしていれば凍えるのも当たり前だろう。風がな
い分、いくらかはマシとはいえ翼のマンションのように廊下にまで暖房が入っている訳で
はない。
「ああ。さっきもいったけど好きに使えよ。タオルはある場所知ってるよな」
「もち。勝手知ったる人の家ってね。練習おわると、よく皆でここにたむろってたもんね。
あ、ついでに着替えも貸りっからね」
 翼はへへっと笑いながら、誠也へと視線を送る。そしてすぐにくるりと振り返り、美咲
へと顔を合わせる。
 一瞬、美咲がぴくっと身体を揺らした。どう答えればいいのか美咲にはわからないよう
だった。
「あれ。美咲さん、何してるの。ほら、シャワーあびよ。風邪ひくよ、このままじゃ」
「……でも」
 ためらう美咲にしかし翼は気にもせず手を引っ張っていく。あの時化け物と呼んだ時と
は違う、もういつも通りの翼だった。
 ほっと息を吐き出す。美咲はまだ気にしているようではあったが、翼が普通に接してい
ればそのうち元に戻るだろう。誠也は軽く笑みを浮かべると、風呂場へ向かう二人の姿を
じっと見詰めていた。
 
 脱衣所はひやりとした空気が包み込んでいる。しかし美咲にはその寒さも感じ取る事が
できなかった。
 目の前に立っている翼だけが気になっていた。頭の中がぐちゃぐちゃとかき混ざられて
いく。
「ごめんなさい」
 美咲は思わず呟いていた。
「何が?」
 雨に濡れたブレザーの上着を脱ぎながら、翼はきょとんとした顔で訊ね返す。
「さっき名前よんだ」
 美咲は翼をじっと、だけど微かに視線をそらして見つめていた。目線を合わせるのを避
けるようにして。
 軽々しく名前を呼ぶな。あの時、確かに翼が美咲に告げた言葉だった。
 翼はわずかに口元に笑みを浮かべると、上着を脱いで脱衣かごの中に入れる。
「そんなことよりほら、早く脱いで。暖まらないと風邪ひいちゃうし」
 翼は何も気にしていないかのように美咲を急かして、自身も濡れた服をどんどん脱いで
いく。脱衣かごからはみ出た服の裾は水滴が落として小さな水溜まりを作っていた。
「うん」
 美咲は静かに頷くと、翼に続くようにして着ているものを脱ぎ去っていく。
「美咲さん、綺麗な肌してるよね」
 唐突な翼の言葉に美咲は困惑した顔で応じていた。何と答えていいのかわからない。し
かし翼はそれも気にしないかのように、にこりと微笑みを返しただけだった。
「うー。さむ。さ、はいろ」
 バスタオルだけをまとった姿で、翼が軽く呟いて風呂場のドアを開ける。美咲は無言で
頷くとその後に続いた。
 水が流れる音が響いている。暖かなお湯が、あっという間に室内を蒸気で満たしていた。
 翼はときどき「あったかーい」などと呟いて、手にしたシャワーからお湯を浴びつつ浴
槽にお湯を溜めている。翼のまだ幼さを残したほそりとした体を伝い、少しずつ湯船が出
来上がっていく。
「美咲さんもはいりなよ」
「うん」
 さほど広い訳ではないが、二人くらいなら入れない事もない。湯船につかった瞬間、冷
え切っていた体にきゅっと温もりが広がる。
「暖かい」
 美咲は以前と変わらないように思える翼の様子に少しほっとしたのか、微かに笑顔を覗
かせていた。ささやかな笑みのように見えた。
 と、その瞬間。急に跳ねるようにシャワーのホースの向きが変わって、ばしゃとお湯が
美咲の顔にかかった。
「きゃっ」
 美咲は小さく声をあげて思わず目をつむる。決して熱くはなかったが、いきなりの事に
驚きが隠せなかった。
「あっ、ごめん。ちょっとスペースをあけようと思って動いたら、そっちにシャワーがいっ
ちゃったみたい」
 翼はすまなそうな顔を微かに浮かべて、美咲をじっと見詰めていた。
「ううん、いいから」
 にこりと微笑んで翼へと答える。そんな事よりも美咲にとって翼が元に戻ってくれた事
が何よりも嬉しかった。
 自分が翼を傷付けた事は間違いのない事だから。何を言われても素直に受け止めるつも
りだった。
 いろいろと少しずつ記憶も取り戻してきていた。《ゲヒルンヴェッシェ》の影響が薄れ
てきているのだ。
 自分の名前。自分のやってしまった事。幼い頃の記憶。まだ靄が掛かっているように思
い出せない事が多かったが、確かに記憶は戻り出している。
 それと共に美咲は無くしていた心も取り戻しかけていた。誠也と公園で出会った時、確
かに悲しさや辛さを感じていたから。だから今は翼が笑っていてくれる事が嬉しかった。
「美咲さんって胸も大きいよね。ボク、ぺちゃんこだからなぁ。だからセイの奴は余計、
人のことを男扱いするんだよね」
 美咲と自分の胸を見比べながら、翼はふぅと溜息を吐く。普段はさして気にしてもいな
いようだったが、こうして見比べてみると気になるのかもしれない。
「あっと、そろそろ身体も洗わなきゃね。そうだ。いいこと思い付いた。美咲さんの背中、
ボクが流してあげるよ」
「うん、ありがとう」
 翼の言葉に素直に頷くと、美咲は浴槽を出てバスチェアに腰掛ける。見ると翼も洗い場
でスポンジにボディソープをつけていた。
「ほら。美咲さん、背中向けて。洗うよ」
 翼はにこやかに微笑みながら告げると、スポンジを軽くこすっていた。ふわふわと泡立っ
ていく。
 翼へと背を向けると、美咲の背中を翼は力を込めて洗い始めていた。泡が背を包んでい
くのがわかる。
 半分くらいを洗ったところで、不意にちくっとした痛みが走る。美咲は小さく声を立て
てその顔を歪ませた。
「あ、ごめん。爪たてちゃった? 痛かったよね」
 背中ごしに翼の声が響く。どうやら翼の爪が当たってしまったらしい。しかし感じた痛
みはほんの微かなものだ。
「ううん、平気」
「うん。じゃあ、続けるよ」
 美咲の言葉に頷いて、翼が再び背中を洗い始める。背中にスポンジが撫でるように触れ
られていく。だけど。
「っ!」
 再び背中に痛みが走った。先程よりもさらに強く。
「あ、ごめん。またひっかいちゃった? 痛かったよね」
 翼の声。優しい声だと美咲は思う。
 だけど、何かどこかに違和感を感じていた。いつもの翼と違う、声。
「平気」
 美咲の答えに、また翼がスポンジを背中に当てた。だが今度こそ本当に強く、引き裂く
ような痛みが走る。
「ぅ!」
 言葉にならない声を漏らす。その瞬間、くすくすっとこぼれるような笑みが響いた。
「ごめん。痛かった?」
 翼の声は。笑っていた。囁くような声で、でも確かに笑っていた。
 どこかに感じていた違和感。そうだ。そもそも翼はキーボードをやっているから爪は極
端に短い。だから普通にしていて爪でひっかくなんて事は有り得ないはずなのに。
 翼が自分の意志で行わない限りは。気がついた事実に締め付けられるような感覚が胸の
内を走る。
「でも仕方ないよね。少しくらい痛くても」
 翼は美咲の頭の上で、スポンジをぎゅっと握る。洗剤を含んだお湯が、ぼたぼたと美咲
の髪を伝い顔の上を流れて落ちていく。
「どうして美咲さんは、何食わぬ顔でセイと一緒にいられるのかな」
 翼は呟いてお湯のでなくなったスポンジをそのまま手放す。ぽとんと美咲の頭に当たり、
スポンジは落ちて転がっていた。
「……翼」
 顔を拭いながら、美咲は翼へと振り返る。
「いいよね。美咲さんは美人だし胸も大きいし。うまくセイの心を掴んでいて」
 翼の声は確かに笑っていた。でもその顔は、冷たい瞳が見下ろしている。
「だからあんな事があっても平然としてそばにいられるんだよね。化け物のくせに」
 吐き捨てるように告げると、翼は美咲の胸をまるで握り潰そうとするかのように鷲づか
みに締め付けていた。
 美咲の顔が苦痛に歪む。しかし何も声を漏らそうとはしなかった。
「あんたにだけは、絶対セイは渡さない。そばにいるつもりなら必ず邪魔してやる。覚え
とけっ」
 言い放つと同時に思い切り突き飛ばしていた。ガンと大きな音を立てて、美咲の体はし
たたかに浴槽に打ちつけられる。
 よほど力を入れたのだろう。ほとんど伸びていないはずなのに、しかし爪痕が美咲の胸
にはっきりと残っていた。微かに血がにじんですらいる。
「どうした」
 と、不意に誠也の声が洗面所の方から響く。響いた音を聴きつけてきたのだろう。
「なんでもないって。ちょっとすべって転んじゃっただけだよ」
 翼は何事も無かったように誠也へと答える。その唇の端を確かに歪ませて。
「そうか。気をつけろよ」
「はいはい。はやくいっていって。覗かないでよ」
 いつもと変わらない声。
 だけどそれが全く違うものだという事を、美咲は今はっきりと気が付いていた。
 美咲は記憶と感情を取り戻し初めている。だが翼は今こうしている間にも失い続けてい
るのかもしれない。平穏な心を。
 誠也はもう脱衣所からは抜けたようだった。気配が感じられない。
 翼はにこやかに微笑んでいる。その瞳だけは除いて。
 ぴちょん、と水滴がお湯の上に落ちた瞬間、翼は再び湯船の中へと戻っていく。
「ふぅ、暖まるね。で、美咲さん、何ぼうっとしてんの。咲さんもお湯つかる? それと
も先に上がるの? 好きにしていいよ。美咲さんの」
 翼の言葉に思わず美咲は顔を背けていた。もう翼の顔を見ていられなかったから。喉の
奥に何が詰まったような、そんな感覚。
 身体が震える。だけどこの震えは寒さから来るものじゃない。
「……先にでるね」
 小さな、揺れる声で翼に答えて美咲は洗面所へ続くドアをあけた。背中か嘲るような笑
い声が聞こえてくる。
「そっか。あ、タオルは洗濯機の隣の一番下だよ。着替えはその上にシャツが入ってるか
ら、適当に借りてもいいんじゃない」
 何事もなかったかのように平然と告げる翼。この台詞だけ聞けば、いつもと変わらない
ように見えるのに。
 どうしてこんなに変わってしまったんだろう。美咲はぎゅっと強く目を閉じる。
 あの時、襲い来たのは間違いなく出来損ない(ニヒツヌッツ)だった。美咲のような《カ
ルトブリュータァ》にはなりきれなかった出来損ない。欠片(シェルベ)しか使えない中途
半端な存在。
 だけど、彼等の方が自分よりマシなんじゃないだろうか。自分のような《カルトブリュー
タァ》――冷血動物なんかより。
 渦巻く思考の中、美咲は心の中で呟いていた。
 何も考えず、何も求めず。ただ目標を殺す為だけに生まれたきた存在。それが美咲達冷
血動物(カルトブリュータァ)だ。出来損ないとの違いは術(クンスト)が使える事。人の持っ
ている知られざる力により発動する力。ツヴァイはこの力を『芸術』だと呼ぶ。なるほど
確かに《クンスト》には芸術という意味がある。
 だけど、人を殺す力の何が芸術なのだろう。美咲は濡れた身体も拭かないまま、軽く首
を振るい、手を強く握りしめる。
 冷血動物(カルトブリュータァ)としての力を持つものは、完全な冷血動物になるべく
《ゲヒルンヴェッシェ》――精神干渉をかけられる。人工的に無理矢理精神を抑えつける
技術は、まだ完成したものではないらしく、必ず歪みとなって現れる。私が感情を失い、
ツヴァイが目玉に偏執的な執着を見せるように。
 なら出来損ないの方が精神的には人間的だ。美咲は胸の内で呟く。
 それもそうかもしれない。冷血動物だけが使える術(クンスト)には『人工的なもの』と
言う意味もあるのだから。
 このままここにいれば、恐らく出来損ないやツヴァイが誠也や翼の前に現れるだろう。
組織から抜け出した美咲を捕らえる為に。
 限界が来たのだ。美咲は強く思う。
 初めは気にもならなかった。ただ拠点が欲しかっただけ。失っていた記憶、自分という
存在を探すための。
 殺した相手の家、事件の現場を再び訪れてみたりしていた。何かの手がかりが残ってい
ないかと思って。結局手がかりは殆どみつかりはしなかったが、その後にエヴァグリーン
と出会った。
 そして忘れていた。記憶を探す事を、罪を思う事を。何よりも楽しかったから。
 まだ記憶ははっきりとしない。だが、もうこのままでいる訳にはいかないだろうと美咲
は強く思う。
 いかなくてはならない。これ以上、誰かを傷つける前に。傷つけないように。そして無
くしている記憶を全て取り戻す為に。
 美咲は、わずかに一人頷いていた。
Back Next
良かったら読んだ感想を下さい!
タイトル
お名前 (必須)
メール

★このお話は面白かったですか?
すごく面白かった  まぁ面白かった  普通
つまんない  読む価値なし


★一番好きな登場人物を教えて下さい
誠也  美咲  真  翼  ツヴァイ
両堂

★もしいたら嫌いな登場人物を教えて下さい(いくらでも)
誠也  美咲  真  翼  ツヴァイ
両堂

★好きな台詞があれば


★印象に残ったシーンがあれば


★その他、感想をご自由にどうぞ!