崩落の絆 (12)
「名前は美咲。歳は十七歳」
 美咲の言葉に、誠也はやや苦い笑みを浮かべる。まさかそんなところから話し出すとは
思ってもいなかった。
 この調子で延々と喋っていたら風邪ひくかもな。何故か冷静にそう思う。
 しかし次に続いた言葉は、誠也の予想の範疇から完全に外れたものだった。
「覚えているのはそれだけ。初めはもっと忘れていたから。覚えていたのは、ドライとい
う言葉。私をそう呼ぶ人達と、私の、力。それだけ」
 ぎゅっとその手に力を入れる。そして誠也をじっと睨むようにして、眼差しを向けた。
 瞳が、少しずつ少しずつ紅色に染まる。その右の眸(ひとみ)だけが。
 確かにあの時みた、紅の瞳。初めて会った時に見た色。
「私の持っている力の一つ。レーテプヒレ、ドイツ語で紅い瞳。全てを見渡す力」
 そこまで告げると、ぎゅっと握った手をさっと誠也の奥へ向けてはらう。
 白い灰が、ほんのわずかだけ放たれる。その灰がブランコの柵に触れたかと思った瞬間。
 鉄柵が、突然強く発熱する。雨がじゅうっと音を立てて蒸発して湯気へと変わる。
 鉄で出来ているはずの柵が、あっといまに錆び付いて腐食していく。完全に腐り落ちる
ところまでは至らなかったが、自然現象ではありえない錆び方だった。
 そしてそれと共に。軽い脱力感を感じていた。目の前が一瞬、歪む。
「これがもう一つの力。ヴァイスアッシェ。白い灰。全てを腐らせ、破壊する力。この力
は辺りにある力を奪い発動する。誠也が倒れたのは、この力のせい」
 相変わらず淡々とした喋りではあったが、確かに口数だけは増えていた。美咲は必死で
何かを伝えようとしている。それだけは誠也にもはっきりとわかった。
「いまは精神潜行は行わなかったけど、本来であればこの力を使う時には三六〇度全てを
見渡す事も出来る」
 美咲は自分の手の中をじっと見つめて、そして錆び付いた鉄柵へと視線を移す。
「人じゃない力。人には無い力。化け物だと言われても。仕方、ない」
 再び手に力を入れる。そして強く瞼を閉じる。握りしめた拳が、微かに震えていた。
「美咲」
 誠也は彼女の名前を呼んで、じっと美咲を見つめる。美咲のまぶたが、そっと開かれる。
「誠也。私はもうこの力を使わない。いまそう約束したばかりだけど。でも誠也に見て欲
しかった。私がもっている力を。知っていて欲しかった。私が人でない事を」
 美咲は呟くように告げて、ゆっくりとその手を開く。
「だけど。だけど、いまから人に戻る。だからもうこの力は、いま全て捨て去ったから」
 ブランコから立ち上がり、そしてまっすぐに誠也へと視線をぶつける。
 目を離そうともせずに、美咲はただただ誠也を見つめていた。その中に、意志と、そし
て恐れが浮かんでいた。
 お前は何が怖い。誠也は声には出さずに呟く。何かをはっきりと恐れていた。美咲はそ
れでも視線を逸らそうとはしない。
 幾ばくかの時間が流れる。それは刹那だったのか、それとも永遠だったのか。冷たい時
間が静かに過ぎ去っていく。
 だけど、終わりを告げるかのように。美咲はその唇を振るわせる。
「嫌わないで欲しい」
 呟く声。淡々とした言葉。だけど、今まで聞いたどの台詞よりも想いの込められた。
 痛みすら感じる音。
「ばかだな」
 苦笑を浮かべて、誠也はもう一歩、美咲へと近寄る。
「嫌いになる訳ないだろ。そんな悲しい瞳をしている奴を」
 ぎゅっと抱きしめる。
 美咲を包み込むように。強くはない。力もない。でもそれでよかった。
 美咲に必要なのは強い包容じゃない。冷えきった心を暖めてくれる温もり。それだけ。
 まるで子供のようだ。誠也は心の中で呟く。今、目の前にしている少女は本当に少女で。
 ずっと虐げられてきた、恐れを抱き続ける幼い子供のように見えた。
「うん……」
 小さな声で頷く。耳を澄ましていなければ聞こえないほどの。だけどその声は確かに誠
也に届いていた。
 どこよりも深い胸の奥に。透き通る心の奥に。張り詰めた銀の針を飲み込んだように。
 ずきり、と鋭く。
「私は、この温もりを知ってる。知っていた。小さな頃に、確かに感じてた」
 震える声で呟く。
「でも。もう失ってしまったもの。無くしてしまったもの。見つからない宝物」
「見つからない? ここにあるだろう。なんでそんな事を言うんだ」
 包んでいるのは誠也自身だ。いまここにあるはずなのに。
「違う。私はこの手でもう人を殺した。白い灰(ヴァイスアッシェ)で。全てを腐食させる
力で」
 美咲は言って自分の手をまっすぐに見つめる。まるでそこに何かが見えるかのように。
 手に感じているのは、集まってくる力なのか、それとも流れる血なのだろうか。
「そうか。あのニュース。お前が」
 あの日の朝に伝えられた事件。腐食性の薬品をかけて殺されたという水瀬製薬社長の事
件。あれは薬品などではなかったのだ。
 それは美咲の力によるもの。今みた力、白い灰(ヴァイスアッシェ)を使い、殺害した。
 誠也の推測を裏付けるように、美咲はこくりと頷く。全く否定するそぶりすら見せなかっ
た。ただ言葉を受け止めるように。
「私が殺した。組織の指令だった。特に考える事もなく現場に向かって。殺した」
 淡々と告げる声。
 でも顔を俯けて、誠也をみようとはしない。後悔しているのだろうか。それとも人を殺
したという事実に打ち負けているのだろうか。それは誠也にはわからない。
「その時から記憶が少しずつ、崩れ始めた。忘れていた事。思い出してきた。知っていた。
私は、確かに犯してはいけない罪を犯した。犯したの」
 わずかに美咲の台詞が揺らぐ。冷たい言葉を語りながらも、抑揚の無い口調。だけどそ
れが、いま初めて震えた。その心と共に確かに。
「だから、私には資格がない。誠也にこうしていてもらう資格がない。それでも、私は嫌
わないでいて欲しいと思う。この矛盾が何なのか私にはわからない」
 美咲はぎゅっと目を瞑り、そして誠也から離れる。包んでいた手を振りほどくようにし
て一歩後に下がる。その両手で互いの二の腕を抱えるようにして。
 誠也は一瞬、離れていく美咲をじっと見つめていた。だけどすぐに口元に苦い笑みを浮
かべた。
 人を殺した。美咲のその台詞をきいても、未だに実感がなかった。彼女の力を、全てを
腐らせる力を見た後だというのに。いや、違う。彼女が人を殺しただろう事は、もうどこ
か心の中で納得していた。
 納得したにも関わらず、それを受け止めていただけで。
 我ながらおかしな感覚だなと誠也はわずかに自嘲の笑みを浮かべる。美咲の事は何も知
らないに等しい。その彼女が人殺しだと納得したならば、もっと違う感情を抱いてもおか
しくはないのに。
 それでも誠也には、恐れも忌みも感じてはいなかった。ただ感じていたのは。
「資格か。別にそんなものはいらないだろ。俺はこうしていたかったからした。美咲もし
たかったらすればいいし、嫌だったらやめればいい。それだけだろ。それとも、嫌だった
のか。俺が抱きしめた事が」
 微かに責めるような口調。でもその言葉の中にトゲはない。温もりすら感じる声。
「嫌じゃない」
 美咲は答えていた。ためらう事も無く。
「ならそれでいいだろ。別に泣く必要はない。躊躇する事もない」
 その手をぎゅっと握りしめて、そして払うようにして開く。美咲が白い灰(ヴァイスアッ
シェ)を使った時のように。だがもちろんそれで何が起こるハズもない。
 微かにふわと冷たい空気が流れただけで。冬の空気が、そっと揺れたのだろう。
「みての通り、俺にはお前のような力はない。でもお前はもうその力を使わないと決めた
んだろ。なら、俺と変わらない。お前はただの人だ。それでいいだろ」
 誠也はそういって美咲の手をとっていた。
 冷たい、冷えきった手だと誠也は思う。それも当たり前かもしれない。霧雨とは言え、
冬空の下で雨が降り注いでいるのだから。
 ふと自分もいつのまにかずぶぬれだという事に、やっと気が付いていた。身体が冷たく
冷え込んでいる。
 翼は家に帰られただろうか。なぜかいま思い出していた。悲しい瞳をした翼。あの人は
普通じゃない、と美咲の事を告げた翼。
 確かに美咲は普通じゃないかもしれない。でも、俺もどこかおかしいのかもしれないな。
苦笑を浮かべて、美咲をじっと見つめる。
 その瞬間だった。
「やれやれ。こんなところにいたんだね。探したよ」
 その声は確かに冷たく優しく響いていた。
 誠也の背中から。
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