崩落の絆 (10)
 誠也は、あれから数日もせずに退院する事になった。体力が多少弱っていただけで、外
傷は殆どなかったからだ。
 刑事から事件についていくつか質問もされたが、誠也は殆ど答える事が出来なかった。
 誠也にとって意外だったのは翼が美咲について特に話していなかった事だ。男を溶かし
たという白い灰とやらの事も、彼女が殺したとも、一言も。
 あの後、翼は美咲に対して何も語ろうとしない。み、という声を出すだけで、ぴくんと
身体を震わせる程だった。
 それも当然かもしれない。二人は本当に仲良くなっていたから。だからこそ、裏切られ
たという気持ちが、余計に強いのだろう。
 ただ、誠也は思う。翼はたぶん今でも信じていないんだろうと。美咲が誰かを傷つけた
という事を。信じられないからこそ何も語らなかったのだと。あんな事を言っても美咲を
心のどこかで信じているんだと誠也は思う。
 あの紅色に光る瞳は、確かに恐怖を感じさせもしていた。
 だけど、確かに救われたのだ。美咲は自分を守ろうとしていた。少なくとも誠也はそう
信じている。だから美咲を失いたくなかった。翼の誤解もきっと溶けるだろうと、その願っ
ていた。
 誠也は美咲を捜しあちこち彷徨う。どこにいるかもわからない。手かがり一つもないけ
れど。
 心当たりなんて一つもなかった。美咲のことなんて誠也は何一つしらないのだから。
 ただ、それでもじっとしていられなかった。美咲のいった事のある場所を、何度も何度
も探して。
 それでも何一つ掴めずに、自分の街へと帰ってきていた。
 しとしとと雨が降り始める。冷たい霧雨が、じっとりと肌を濡らしていく。
 傘もなく、仮にあったとしても差す余裕もなく。ただ誠也は一人歩いている。
 美咲はどこにいってしまったのだろう。それだけが頭の中に残っていた。
 誰もいない。生きてはいない街の中。夜の闇だけが辺りを包んでいる。
 微かに消えそうになった電灯の明かりだけが見える。車も通らない国道の真ん中をゆっ
くりと歩く。
「どこにいるんだ」
 誠也は一人呟く。
 ふとその瞬間、昔交わした会話を思い出していた。そういえば翼に言われたっけ。「セ
イはいつまでたっても独り言の癖が抜けないね」って。
 確かにそのとおりだな、と内心思う。
 よくわからない人だと言われた事も一度や二度じゃない。誠也は自分でも、自分の事を
変わっていると思う。
 いま、こうしているはずもない美咲を捜しているのも、馬鹿をやっているのはわかって
いた。
 それでも誠也はやめられなかったのだ。
「馬鹿だな。俺は」
 もういちど呟く。
 その瞬間だった。
「そうだね。セイは馬鹿だよ」
 背中から声がかけられて、ゆっくりと振り返る。
 黄色の傘を差した翼が、今にも泣き出しそうな瞳で、ただそこにたっていた。
 あと数歩歩けば届く場所。なのに、そこからもう進もうとはしない。
「何をしているの」
 翼は、静かな声で誠也へと訊ねかける。
 言葉は笑っていない。いつものような元気もない。
 今は消えそうな眼差しで誠也を見つめ続けていただけで。
「美咲を捜している」
 誠也はただ淡々と答えていた。隠す事も、偽る事もなく。
 翼が、その言葉で顔をしかめる事も承知の上で。
 やっぱり、俺は馬鹿だな。心の中で呟く。優しい言葉の一つも言う事が出来ない。
「どうして」
 翼はいちど顔を沈め、しかしすぐに再び誠也へと向けて。張り裂けるような言葉を誠也
へと向けていた。
「言ったよね。あの人がやったこと。言ったよね」
 翼は静かに呟く。
 だけど、それが引き金になったかのように、その後は言葉がとまらなかった。
「それなのに、どうして。あの人は、あの人は人殺しなんだよ。それとも、それともボク
が言った事、信じられない? 信じてないの?」
「そうじゃない」
「なら、どうして!」
 翼は強く叫ぶ。
 その瞳が雨に濡れた訳でもないのに確かに潤んでいた。でも、もうそれを隠そうともせ
ずに、ただまっすぐに見つめているだけ。
「伝えたい言葉があるから」
 誠也は、それでも平静な声で答えて。そしてくるりと翼へと背を向けた。
 ゆっくりと歩き出す。
 翼を傷つけているのはわかっていた。それでも。この足をいま、止める事は出来ない。
 美咲に伝えたい事がある。伝えなきゃいけない事がある。
 今、伝えなければ、もう届かない。理由は一つもない。だけど、なぜか誠也にはそう感
じられた。
 だから歩いていた。
「いかないでよっ」
 声と共に背中に微かに温もりを感じていた。
 翼が、その細い両腕で誠也の背を掴んでいたから。
「いかないでよっ」
 もう一度、同じ台詞を繰り返す。
 誠也はその足を止める。
「行ったらセイも殺されちゃうよ。イヤだよ。そんなのイヤだ」
 翼はもう涙を隠そうともせずに、ただ誠也の背にすがりついていた。傘も放り投げて、
雨に濡れて。
 霧雨が、二人を濡らしていく。音も無く。しっとりと。
 闇の中に、翼の声だけが響く。
「イヤだ。誠也がいなくなったらイヤだ。あの人、普通じゃない。普通の人じゃない。何
があるかわからないよ。お願いだよ、セイ。ボクから離れていかないで。いなくならない
でよ」
 翼は、ぎゅっとその手に力を入れる。
「ボク。やっと一人じゃなくなったのに。セイがいてくれたから、一人じゃなかったのに。
夢も、目指すものも。くすんだところから、やっと抜け出せたのに。セイがいなくなった
ら、また戻ってしまう。また壊れてしまうよ」
 翼はただ叫び続けていた。何もかも、気にする事もなく。
 いつものように、気持ちを隠す事もせずに。
「オヤジも、あの人も。ボクの事なんて見てくれなかった。ううん、ボクはいちゃいけな
かったから。本当は、二人にとって、ボクは邪魔以外の何者でもなかった。そうだよね。
だって、ボク、あの人とは血がつながってないもの」
 翼は、もう何がなんだかわかっていなかった。自分で何を叫んでいるのかも。
 だけど言わずにはいられなかった。言わなければ壊れてしまうと思った。壊れそうなほ
ど溢れ出していたから。
「ボク、本当は生まれたらいけない子だった。でも、あの人が子供が出来ない身体だった
から。だから、だから母さんの元から無理矢理引きはがされた」
 別に翼の素性は、別にいま初めて知った訳ではない。ここでいうあの人。つまり翼の母
親が、本当の母親ではない事も、もちろん知っていた。そして母親から目の敵にされてい
たことも。今はその母親も、余所に男を作り、殆ど家に戻らなくなった事も。
 翼は、ずっと一人だった。家族なんて言葉は知らなかった。
 そんな翼にとって、唯一温もりを感じられる相手がセイとシンの二人。つまりエヴァグ
リーンの中だけだった事も、誠也は確かに知っていた。
 その一人、真は傷ついて今も意識を失ったまま。そしていま誠也は美咲の元へ行こうと
している。エヴァグリーンを壊した張本人の元に。
 客観的にみれば、美咲が何かをした訳ではない。誠也にしてみれば、美咲は自分を守っ
てくれた事になる。それで人が死んだとしてもそれは結果に過ぎたいと思う。
 しかし美咲がいなければこんな事にはならなかった。そう思う翼の心もわからない訳じゃ
ない。翼は美咲と心を通じさせていた。病院にいる時も思ったが、だからこそ余計に裏切
られた気持ちも強いのだろう。美咲が好きだという気持ちと事実とが反芻するのだ。
「いかないでよ。あの人の元にいかないで。あの人は、普通じゃないよ。普通じゃないん
だよ。だから何があるかわからない」
 誠也からは呟く翼のその顔は見えない。
 見えなくて良かったと、誠也は口の中で呟く。もしも今の顔を目に入れていたら、きっ
と歩みを止めてしまっただろう、と。
「ボクはセイがいなくなったらイヤだ。だって、だってボクはセイ」
 一気に言い放とうとする翼の言葉を遮るように、誠也は口を開いていた。
「背中に翼なんてない」
 誠也の言葉に、びくん、と翼の肩が大きく震える。
「あの歌の歌詞。あれは特別な人なんていない。そういう意味だ」
 誠也の言葉に、翼は思わず掴んでいた手を離していた。
 離すはずじゃなかったその手を。
「俺は美咲に伝えたい事がある。だからいかなくちゃいけない。例え美咲がどうだったと
しても、美咲は美咲だ。特別なんかじゃない」
 振り返ろうともせずに誠也は呟く。
 いま、もし翼が手を離していなければ、本当は誠也も震えていたのに気がついていたか
もしれない。
 だけど、もう手は離れてしまった。もういちど掴む事も出来ずに、ただ翼はじっと誠也
を眺めていた。
「翼。俺は倒れなんかしない。消えてしまいもしない。またもういちどエヴァグリーンで
演じる日までは」
 静かに、しかし強い言葉で誠也は告げる。
 本当はいますぐ振り返りたかった。振り返って、翼を抱きしめてあげたかった。
 だけど、それは出来なかった。崩れてしまう心を抑えられなくなりそうだから。
「その時は、美咲も一緒だ。だって、俺達は色褪せない永遠なんだから」
 強がっていると思う。本当は誠也にも怖い気持ちがない訳ではない。
 それでも信じていた。自分の中にある気持ちを。それから翼の事も。
「美咲さ……ん」
 翼がゆっくりと彼女の名前を呼ぶ。
 あの時以来、初めて。
 そしてそのまま、ぺたんとその場に座り込んだ。雨にぬれた地面の上に。
 だけど、誠也は振り返らなかった。
 決心が鈍らないように。
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