崩落の絆 (05)
「戻ってこない?」
 白衣の男が冷たい声で静かに呟く。
 幾つものコンピュータが放つ明かりが、並べられた試験管に反射して煌めく。
 まるで男の瞳のように。
「は、はい。現在、消息を絶っています。恐らくは《ゲヒルンヴェッシェ》が解けたので
はないかと推測されます」
 入り口付近で報告書を手にしたスーツの男が、びくびくとしながらもしどろもどろに告
げる。
「かもしれんな。暴走を恐れて強化したツヴァイと比べれば、有り得ない話ではないか」
 頷く白衣の男に、スーツ姿の男がほっと息を吐き出していた。機嫌を損ねるのではない
かと、顔色を伺っている様子がありありと出ている。
「ならば《ニヒツヌッツ》どもを探索に向かわせろ。そして万が一《ゲヒルンヴェッシェ》
が解けているのだとしたら。可能ならば連行、しかし難しいとあらば処分しろ」
 白衣の男は何も感情の含まれない声で、ただ淡々と告げていた。
「は。了解致しました」
 スーツの男が深々と頭を下げ、部屋を後にする。
「大変な事になっているみたいだね、両堂さん」
 その瞬間。賢げな、それでいてどこか優しそうな風貌の若い男が不意に声をかけていた。
 その整った顔立ちは、誰もが綺麗だと認めざるを得ないだろう。下手な女性よりもよほ
ど秀麗なその笑みは、アイドル事務所に所属していてもおかしくはない。
 両堂と呼んだ男の脇へとすっと歩みよると、にこやかに微笑んでいる。
「ツヴァイか」
 両堂は目の前にいる男、ツヴァイをちらりと横目で眺める。しかしそれ以上の反応は見
せずに、近くにあった椅子へと腰掛けていた。
「いなくなったんだってね。どこで道草くっているんだか」
 ツヴァイは微笑みながら。しかしそのどこかに冷たさを隠して、ゆっくりと指先を眉間
に当てる。
「でも、万が一の場合には。《ニヒツヌッツ》では手に負えないと思うよ。彼女の《ヴァ
イスアッシェ》は最高の芸術だからね」
 首を軽く振るって、くくっと口元を歪ませる。冷笑と言う言葉が何より似合う笑み。
「かまわん。《ニヒツヌッツ》ごときがいくら倒れても気にもならん。所詮、完全にはほ
ど遠い出来損ないだ」
 両堂は顔も向けずに答えると、近くにあった書類をぱたぱたとめくりだす。もはや関心
を無くした様に机へと向かい目もやらない。
「使い捨てって訳だね。怖い怖い。僕もいつ捨てられる事やら」
 ツヴァイは両手を広げて、両堂の背中でくすくすと笑い声をこぼす。
「そんな事よりも、自分の仕事は終わったんだろうな」
 両堂は振り返りもせずに、感情の無い声で訊ねる。
「もちろん。あの程度の仕事、僕には物足りないね」
 ツヴァイは静かに告げると、懐からガラスの瓶を取り出して、ぽんと机の上に投げる。
 中に入っていたものが、びちょっと鈍い音を立てて瓶の中で転がっていた。
 大きさの違う。二つの眼球。半ば血にまみれ赤く汚れていた。
「綺麗だろ。標的のものだよ」
 ツヴァイはにこやかに微笑んだまま、じっと瓶の中の目玉を眺めていた。
「くだらん。こんなものを持ってくる必要はない」
 両堂はぴくりとも反応もなく、目の前の書類に向かっているだけだ。
「そうだね。無粋な貴方には、わからないかな。この美しさは」
 くすくすと声を漏らしながら、ツヴァイはこの部屋を後にしていく。入り口まで歩いた
ところで、一旦振り返り、にこりと極上の微笑みを浮かべていた。
「……醜悪だ」
 両堂はぼそりと呟く。
「《ゲヒルンヴェッシェ》の影響か。《カルトブリュータァ》の完成はまだ遠いな」
 
 誠也の身体に、再びぞくりと身体に震えが走る。  あれから何度も練習を繰り返して、その度に美咲の歌に魂が込められていく。  初めはただ澄んだ透き通る声。それに魅了されていたに過ぎない。しかし歌えば歌うほ ど、声は心の琴線に触れていく。 「すっげ。すごいよ、ホントに。ボクの歌とは比べモノにならない」  翼は驚嘆の声を上げると、美咲をじっと見つめていた。 「ありがとう」  淡泊に一言だけで美咲は声を返す。だけどその顔に小さな。ほんの微かにだが笑顔が浮 かんでいるのが見て取れる。  初め無表情に感じたのは、この小さな仕草まで感じ取れていなかったのかもしれない。 誠也は思う。  だけど初めて歌を披露した時の縮かんだ顔は何だったのだろう。その思いが誠也の頭か ら離れない。  だが誠也は美咲を知らない。昨日であったばかりの少女だ。第一印象と今が違っても不 思議はない。名前も知らなかった昨日と、ややうち解けてきた今と比べても仕方がない事 かもしれない。誠也は思い直して、美咲を見つめる。  しかし美咲は殆ど変わらない面持ちで、じっと見返してくるだけだ。 「なに?」  殆ど抑揚の無い声に、くくっと誠也が笑みをこぼしていた。 「あ、セイ。失礼だぞ。女の子の顔みて笑うなんて!」  それを見ていた翼が、あからさまに怒りを込めた声で言い放つと、再び誠也は笑い声を 漏らす。 「お前ら、対称的だな」 「うるさいっ。どうせボクが落ち着きがないって言いたいんだろ。わかってるよ、そんな 事」  翼はぷんっと顔を背けると、バンっと強くキーボードをかき鳴らす。 「でもこの激情がボクの演奏を支えてるんだよっ」  流れるように、強く。まるで叩き付けるような激しい演奏。  ピアノと違って演奏の強弱はさほど音には影響しない。しかしその翼らしい激しさがエ ヴァグリーンの曲を支えているとも言える。 「そうだな。男の子はそれくらい激しくないとな」  笑みを隠そうともせずに、翼に近寄ってぽんぽんと頭に手を置いた。同時に。 「ボクは女だっ」  翼の右ストレートが繰り出されていた。しかし誠也は、ひょいと避ける。  それでも諦めずに何度も殴りかかっていた翼をみて、ふいに美咲がゆっくりと言葉を紡 いでいた。 「……女の子だったんだ」  ぼそりと言う表現が良く似合う呟き。 「ひ、ひどいよ。美咲さんまで」  翼はうーっと唸りながら、胸の前で両の拳を揺らしていた。 「確かに翼さんは、顔つきがきりっとしているので少年っぽく見えなくもないですね。で ももう少しすればとびきりの美人になると思いますよ」  ずっと黙っていた真が、不意にフォローの言葉を入れる。この辺りはいつものお約束だ。 「ごめんね」  美咲は、やや顔を赤らめながら静かに呟く。 「ううんううん。いいよ。ボクも何も言わなかったしさ。こいつみたいにわざと間違えて る訳じゃないし。気にしないでいいよ」  ジト目で誠也を睨みながら、美咲へとぱたぱたと手を振る。しかし誠也は全く気にして いない様子でギターの弦を張り直していた。 「で、セイは少しは気にしろっ」  翼は誠也を背中から蹴り飛ばす。うおっ、と声を漏らして誠也が振り向くが、ぷいっと 顔を背けてしまう。 「おやおや、相変わらず二人とも仲が良い事で。しかし痴話喧嘩はそれくらいにして、そ ろそろ次の曲に移りましょう」 『誰がこんなのとっ!』  真の言葉に、誠也と翼の二人がハモる。その様子ににこにこと微笑んだまま、真は歌詞 カードを美咲に渡す。 「いつも?」  美咲は二人をちらりと見つめながら、真へとぼそっと呟くように訊ねた。 「そうですね。いつもこのお二人はこうですよ。ま、気にしないで私達は打ち合わせを進 めましょう」  淡々と答えると、真はラジカセでテープを鳴らす。 「あ、『消えなかった雨』だね。この曲、ボクは好きだよ」  イントロをきいて翼がにこりと微笑む。この歌はエヴァグリーンの持ち歌の一つだ。  テープの中は翼のボーカルが入っていた。まだ幼さを残した声が優しい雰囲気を作り出 しているが、しかし確かに演奏と比べるとどこか物足りなさもある。 「美咲さん、次はこの曲を歌ってください。よろしくお願いします」  真はそれだけ言い放つと、テープの演奏が終わるのを待って、ちらりと誠也と翼へと視 線を送る。 「了解っと」  誠也は片手を上げて答えると、所定の位置についてギターを弄っている。翼もキーボー ドの前へと移っていた。 「じゃあ、いきますよ。スリー、ツー、ワン」 カウントダウンに合わせて、一斉に演奏 を始めていく。イントロが終わったと同時に、美咲の歌が流れていく。  どこまでも深い一体感があった。  今までも皆の演奏はぴったりと合っていた。しかし今、美咲の歌によって、より深く結 びつけられているのを皆は感じていた。  演奏が終わる。しかしまだどこか余韻が残っているのか、誰も何も口をきかない。放心 したように、力を抜いて立ちつくしている。 「すっげー。ボク、本当にすごいと思うよ。絶対これならデビュー間違いなし」  翼が不意に声を張り上げていた。  もともと元気の良い翼ではあったが、それでも演奏の後にこれだけはしゃぎまくる事も 無かった。  確かに、一人の新たなメンバーによって、より強く結ばれていくのを感じている。エヴ ァグリーンの誰もが、永遠の色を手に入れたと確かに思っていた。 「美咲さんって、ホントすごいよね」 「そう?」  翼の問いに、ただ軽く首を傾げて。きょとんとした目で返す。 「そうだよ。自覚ないの。だったら自覚しなよ。あ、もしかして美咲さんってさ。今まで 歌とかやってた? 実は声楽とかやってたんじゃないかってボクは睨んでいるんだけど、 どう。当たり?」  一気にまくし立てるように言い放つと、じっと美咲へと目線を合わせる。  しかし美咲は何も答えずに、ただ軽く目を瞑っただけだった。 「美咲さんって。物静かだよね。ま、ボクがうるさいだけかもしれないけどさ」  翼はちらりと誠也へと目をやって、ふん、と顔を背ける。誠也が言いそうな台詞を、先 に自分で言っておいたらしい。 「そう?」  美咲は、自分ではよくわからないと言うように軽く首を傾げると翼をじっと見つめる。 「少しね。あ、でもボクはそんな美咲さん好きだよ。なんか憧れちゃうね」 「まぁ、翼には無い落ち着きがあるしな」  誠也が口を挟む。 「うるさいな。ほっとけっ。まだボクは若いんだから落ち着きなんかいらないんだよ」  翼は言い捨てると、胸の前で両手を握りしめて上下に振るっていた。これは翼の癖の一 つだ。悔しい時に、思わずやってしまう。 「そうですね。翼さんは今は元気な方がいいですよ。今しか出来ないものがあるんですか ら、無理して落ち着く必要はないですよ」  真が優しくにこりと微笑む。翼の癖が出た時には、真がこうしてフォローをいれる。す でに三人の関係は、強くできあがっていた。  美咲が、くすっと口元に笑みを浮かべる。ささやかな笑顔ではあったが、はっきりと笑っ ていると感じられたのは、これが初めてかもしれない。  優しく可憐な笑顔だったと誠也が思う。それ一つで、いつもの無表情さが消えて無くな るような。そんな笑顔。 「お前さ。笑った方がいいよ」  誠也は、ぼそりと呟くように告げると、そのまま背を向けて元の位置に戻る。  しかし美咲はきょとんとした顔で、軽く首を傾げただけだった。
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