崩落の絆 (04)
 スタジオまでは五分も掛からない。中に入ってルームのドアを開ける。
「ただいま」
「あ、セイ。おかえり」
 掛けた声に、翼がたたたっと駆け寄ってくる。しかし数歩走ったところで、ぴたりとそ
の足を止めていた。
「あ、あれ」
 翼は誠也の後ろに立っていた少女を見つめて、きょとんとした顔を向ける。
「ん。ああ、見学したいっていうからな。ちょっと連れてきたんだ。ダメか」
「ううん。そんな事ないケド。珍しいね。セイが人連れてくるなんて」
 へぇ、綺麗な人。と、口の中で呟きながら、翼は彼女をじっと見つめる。
 少女と言っても彼女は翼よりも三、四歳は年上だろう。翼からみればどちらかというと
大人の女性に見えるかもしれない。
「あっと。そうだ、ボクは白川翼。このバンドでキーボードやってるんだ。翼って呼んで
くれていいよ。で、キミは」
 翼の言葉に、誠也がふと眉を寄せる。
 昨日、彼女はドライと名乗った。不思議な台詞。翼がどう反応するのか、誠也は楽しみ
に思う。
 けど、その瞬間。少女はやや憂わすような顔を浮かべる。しかし翼が首を傾げそうになっ
たと同時に、少女は口を開いた。
「私は、美咲」
 少女は、ゆっくりと声を紡ぐ。
「美咲さん? うん、よろしくね!」
 翼が嬉しそうに美咲の手をとって、ぎゅっと握る。それからくるっと誠也へと振り返っ
て、その手の中にあるミルクティを奪う。
「これ、ボクのだよね。よっしがんばるよ」
 元気な声で告げてミルクティのプルタブを開ける。プシュッと缶が開く音が響いた。
「現金な奴」
 誠也は翼をじっと睨むと、それから美咲と名乗った少女へと振り返る。
「お前も昨日は教えてくれなかったくせにな」
 誠也はくくっと口元を綻ばせながら美咲へと視線を合わせる。本当に変わった奴だな、
と誠也は声にはしないで呟く。もしかしたらドライという言葉は、美咲の「み」と「三」
を掛けていたのかもしれない。
 彼女は何事も無かったかのように、近くの椅子に腰掛けて、誠也へと缶コーヒーを差し
出していた。
「これ、開けて」
「へーへー。わかりましたよ」
 美咲の言葉に、素直に頷いて缶コーヒーをプルタブを開ける。それから、ふと美咲の爪
先をみて不思議に思う。
 爪を伸ばしているため、プルタブを開けられない女性と言うのは珍しくもない。しかし
彼女の爪は綺麗に切りそろえられていた。
 女の子と言う意味では翼もだが、キーボードという楽器の性質上、やや深爪に近いほど
詰められている。しかし美咲の指先も、それに近いくらいの長さだった。
「お前、面倒くさがりか?」
 蓋を開けた缶コーヒーを手渡しながら呟く。もちろん逆に爪が無くても開けづらいもの
ではあるが、美咲くらいの長さなら開けられない事もないだろう。
「……始めないの?」
 しかし美咲はそれには答えずに、わずかに首を傾げていた。
「お前、ほんとマイペースだな。ま、いいよ。じゃ、翼、真、始めようぜ」
「おっけー!」
 誠也の言葉に、翼が元気良く答える。少し時間を置いたからか、それとも見慣れぬ珍客
の為か、もういつもの元気を取り戻していた。
「まぁ、始めるのは構いませんが。私には紹介してくれないんですかね。それと、私の缶
コーヒーは」
 真はドラムの向こうに腰掛けたまま、にっこりと微笑を浮かべていた。
 
「世界に救いなんてない。
 あるのは一人いる現実。
 けど、その瞳まっすぐに
 向けていけばそれでいい」
 翼がキーボードを弾きながらも、高らかに歌い上げる。さっきまでの自信の無さがまる
で嘘だったかのように。
「背中に翼なんてない。
 あるのは二つあるこの足。
 けど、その大地まっすぐに
 振り返らずに行けばいい」
 澄んだ歌声は高らかに響く。それから伴奏を終え、じゃんっとキーボートを鳴らす。
「美咲さーんっ、どうでした」
 翼が観客に向かって、大きく手を振っているのが見えた。どうやら改心の出来だったら
しい。
「すごい」
 美咲は、ぼぅっとした顔で呟く。歌声があるからか、あるいは演奏が乗っていたからか。
昨日と比べると、確かに興味深げな声だ。相変わらず、淡々としたぽつぽつと呟きのよう
な口調ではあるけれど。
「しかし俺は思うけど、翼ほどミュージシャン向けの奴はいないよな」
 誠也はピースサインを繰り広げている翼と、それに感嘆の声を漏らした美咲とを見比べ
て、しみじみと囁く。
「全くですね。練習でどんなにとちっても、観客がいると失敗しないどころか、一二〇%
の力を発揮するんですから」
 真はゆっくりとした口調で答えると、ドラムの椅子から降りて、美咲の前へと立つ。

「どうでしたか。私達、エヴァグリーンの演奏は。お世辞でなくて正直な感想を聞かせて
いただけると嬉しいのですがね」
 真は丸めがねを指先で吊り上げながら、静かに訊ねる。
「びっくりした」
 美咲は淡々とした、しかしどこか心奪われたような声で答え座っていた椅子から立ち上
がり、それでいてどうしたら良いのか分からずに、やり場の無い手を彷徨わせた。
「ありがとうございます。嬉しいですよ」
 美咲の手をとって、真がにこやかに微笑みかける。
『あ。』
 その瞬間、誠也と翼は同時に声を上げていた。誠也は、やれやれと呆れた顔を。翼は、
はぁと溜息を漏らす。
「ぜひ次は貴女も一緒にどうです。歌ってみませんか」
 にこやかに微笑む真に、「またシンの悪い癖がでた」と翼が呟く。
 自分の演奏に感動、あるいは共感してくれた人を、無理矢理参加させようとする癖だ。
たいていライブでも観客が数人引っ張られる。
 それも、口調からは想像も出来ないほど強引に。
「歌……う?」
 美咲は明らかに戸惑いの色を隠せない。それはそうだろう。普通であれば、いきなり言
われて歌えるものでもない。
「ええ。ちょっとばかり声を張り上げるのも楽しいですよ。はい、じゃ、翼。マイク渡し
て。今回はキーボードだけでいいですよ」
 ちゃちゃっと段取りを進めていく。
 しかしライブはノリもあるのでまだしも、練習中の場合は大抵はこれで嫌がられて二度
とこなくなる。何せ歌詞カードも何も無しでいきなり歌わされるのだ。歌えるはずがない。
 抵抗しても結局無駄な事は分かっているので、翼がしぶしぶと美咲へとマイクを手渡す。
「ごめんね、変な事になっちゃって」
 囁いて、どうか美咲さんが嫌がりませんように、と軽く天に祈っているのが見えた。
「みなさん、準備はいいですね。いきますよ。すりー、つー、わん。はいっ」
 真のドラムに合わせて演奏が始まっていた。所詮はお遊びとは言え、奏で始めたら本気
になってしまうのがミュージシャンの性と言うもの。誠也も翼も、ふっと雑念が消えて集
中し始めていた。
 そして次の瞬間。
 一体感が、皆をどこまでも包んでいた。
 美咲がその唇を震わせて、はっきりと歌い出していたから。一度しか聞いた事の無い歌
詞を、寸分も間違える事もなく。
 じゃん、と翼のキーボードが最後を締める。
 誰も、何も言えない。言葉にならない。
 ただ。今までどこか欠けていた何かを、ここで掴んだような気がして、ぞくりと背中を
震わす。
「私。何か、まずかった?」
 しかし美咲だけが一人、皆をおどおどとした顔で見つめて。それから小さく顔を伏せる。
 それと同時に。
「すっげーーーっ!」
 翼が大声で叫んでいた。
 その声に引き寄せられるように、誠也と真も意識を取り戻す。
「すごい。すごいよ、美咲さん。こんなに震えたの、ボク初めてだよ。なんというか、そ
の。電撃が走ったというか、風が吹いたというか」
 言葉にならない感覚に、しかしそれでもなんとか説明しようと翼はいろいろと言葉を選
ぶ。しかし結局、言い表す例えが見つからなくて「とにかく、すごくかった!」と声を大
にしていた。
「そう」
 相変わらず淡々と美咲は答える。しかしどこかその中に、いつもよりも照れくさい感情
が紛れていたのは、誠也の気のせいではないだろう。
「みつけた」
 真はふと呟くと、ゆっくりと美咲へと歩み寄っていく。そして真剣な眼差しのまま、そ
の口を静かに開いた。
「美咲さん。ボーカルをやりませんか。私達、エヴァグリーンの一員として」
 真の視線はどこまでも本気だった。もともと真は冗談を言うタイプではない。
「それいい! ねっ、美咲さん。一緒にやろうよ。ボクのボーカルじゃあ不安だし。ねっ、
いいよね。決まり!」
 翼が嬉しそうな顔で美咲の両手をぎゅっと握り、半ば強引に言い募ってじっと見つめる。
 美咲はやや不安げに顔を俯けて、なぜか誠也へとちらりと伺うような目線を向ける。
「ああ。俺もやって欲しいと思う」
 誠也が静かな声で答えると、美咲は小さく「うん」と頷いていた。
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