崩落の絆 (01)
序章 ―アイン・ライトゥン―
 
 コンクリートの上に、足音が響く。
 夜中の街並みを駆ける甲高い音。冷たい空気が身体を苛んでいく。
「いたぞ! あっちだ!」
 大きく声が響き、美咲は慌てて建物の影に姿を隠す。
「……このままじゃ、追いつかれる。使うか。だめ。私はもう《クンスト》は使わないっ
て決めた」
 ぎゅっと手を握りしめる。
 双眸が痛む。紅い色の、右の瞳も。
 右目を押さえて、それから再び走り出す。タンタンと小さな音が、辺りに響いていく。
 街並みの雑踏に紛れ込めば何とか逃げ切れる。いかに奴らでも、一般人を巻き込んでま
では技を使う事はないだろう。美咲はそう確信して、ただ裏街を走る。この辺りは人気が
少なく、平気で技を使う可能性がある。危険だ。駆け抜けなければ。
 足音が小さく。しかし確実に響いていた。
 もう少し。もう少し抜ければ街中だ。美咲がそう思った瞬間。
 路地の向こうに、一人の若い男が立ちふさがっていた。
「やぁ、ドライ。ひさしぶりだね」
 声はまるでごく親しい友人と出会ったような。そんな優しい声。だが、ここにいる彼が
そんなつもりのはずはない。
「ツヴァイ。どうして貴方が」
 美咲は大きく叫ぶ。
「どうして? それは僕の台詞だよ。君がいなくなるとは思ってもみなかっ」
「お願い。通して。私はいかなくちゃいけない」
 ツヴァイと呼んだ青年の言葉を遮り、美咲は声を荒げる。
「通さないといったら。使うかい、君の《ヴァイスアッシェ》を。あれは最強の芸術だか
らね」
「…………」
 美咲は声を押し殺して、ぎゅっと手を握る。その瞬間、力が集まってくる。
 だけど首を軽く振って、そしてツヴァイへとじっと視線を送る。
「私は、もう《クンスト》は使わないって決めたから」
「無理だね。君は必ず使う事になる。なぜなら」
 ツヴァイは言葉を一度遮る。
 そして溜めたものを吐き出すように。告げていた。
「僕らは、そう創られたんだから」




一.冷たい雨。生きてはいない街。
 
 切り裂くような冷たさが身に染みる。
 冬の空、誰もいない街。暗くとも、点いてもいない電灯。ゴーストタウン。
 バブル時代に乱立した郊外の住宅地。今では殆ど人が住んでいない街。
「さむい、な」
 誠也は煙草の煙を吐き出しながら、人通りも車通りの無い幹線道路を一人歩く。
 こんな夜中にひとり歩いていたなら、普通の街であれば職務質問されるかもしれない。
 しかしこの街では何も心配はいらない。誰も何もいないのだから。
 いっそ歌でも歌うか、と心の中で思う。大きな声で叫んだとしても、苦情の一つもあが
らないだろう。この街に住んでいる世帯数は百にも満たないというのだから。
 それでも誠也はこの街が嫌いではなかった。孤独な死に逝く街。まるで自分自身のよう
に感じる、街。
「は、幽霊でも出そうな雰囲気だな」
 呟いた言葉にばかばかしい、とすぐに否定する。幽霊などいる訳もないし、いたとして
もこんな郊外の生きてはいない街には出ないだろう。
 真の奴とろくでもない話をしたせいだ。慣れている筈の街並みが、少し冷たく映る。季
節はずれの怪談などするもんじゃない。誠也は確信をもって頷く。
 その、刹那。
 遠目にひらり、と白いものが映った。心臓がぱくんと波打つ。
 気のせいだ。そう納得しようとして目を凝らす。だが、白は再びひらひらと辺りを舞っ
ていた。
 確かめてやろうと、ごくりと唾を飲み込んで、ゆっくりと近付く。
 街の真中を走る幹線道路だけあって、昼間ならかなり遠くまでを見渡す事が出来る。し
かし今は街灯の数が少ない為に――正確にいえば点灯している街灯が、だが――はっきり
とは見取る事が出来ない。
 幽霊の筈がない、と心の中で呟くが、この街に、しかもこの深夜に人がいる訳もない。
いるとしたら、せいぜい暴走族か何かろくでもない奴に違いない。
 もっともそういう誠也自身の事は棚に上げているのだが。
 実際のところは風に飛ばされたビニール袋だか洗濯物だかが引っかかってはためいてい
るのだろう。そうは思うのだが、なぜかそれが気になっていた。もっともどちらにしても、
誠也の家はこの先だ。そちらに向かうしかないのだが。
 白は、いくどかひらひらと舞っていた。近付くにつれてはっきりと姿が見えてくる。
 洗濯物などではなかった。そこに確かに誰か立っていたのだ。体格からすれば恐らくは
女性だろう。彼女の白いコートが風に揺られていた。
 まさか本当に幽霊か。喉まで出かけた言葉を誠也は飲み込んでいた。言葉にしたら、そ
れが現実になりそうな気がして。
 ここからではまだはっきりと確認は出来ない。ただ彼女はぴくりともせずに、誠也に背
を向けて、まっすぐに立ち尽くしていた。
 幽霊ではないとしたら、何をしているのか。深夜の街を女性一人で歩いているだなんて
危険極まりない。もっともこの街ではその危害を与える相手すらいないのかもしれないが。
「いや、俺がいるか」
 ぼそりと自嘲気味に呟く。大学にいかず、かといっても定職にもつかずに夢を追いかけ
ている。傍からみれば極つぶしも同然だろう。
 俯けかけたその顔を、しかし下げはしない。ここで俯いてしまえば、それを認めるよう
な気がして。もっともそれを咎める親も誠也にはなかったが。
 その、瞬間だった。
 まだ少し遠い場所にいる彼女が、不意に振り返る。
 一瞬のこと。それなのに、まるでスローモーションのようにはっきりと見て取れた。
 白い、肌。
 きらり、と瞳が輝いたように見えた。ぞくりと体が震える。
 その瞳は紅い色を携えていたから。人の持つ瞳の色ではない。
「まさかほんとに幽霊か」
 誠也は淡々と呟く。本気でそう思った瞬間に、しかし案外落ち着いている自分にも驚い
てもいたが。
「……きた」
 彼女は不意に叫んでいた。ぎゅっとその手を握り締めているのが分かる。
 誠也の体がぴくり、と震えた。まるで力が抜けていくような気がする。
「破片で十分か」
 彼女は呟いて、ぎゅっと瞼を閉じ、そしてすぐに開く。
 誠也は胸の中が熱くなるのを感じていた。その背筋には冷たい感覚が走り抜けていると
いうのに。
 殺される。確かにそう思った。彼女は一歩もそこから歩いていないにも関わらず。
 一瞬の出来事だった。彼女の手が誠也の目の前に踊っていた。
 彼女の手が誠也の顔に触れようとした瞬間。
 ピタリ、とその手が止まる。
 静かな、綺麗な、冷たい声だ。誠也はなぜかいま、そう感じていた。猛獣に襲われる小
動物のように、じっと身をすくめてまばたき一つ出来なかったというのに。
「違う?」
 だが、次の瞬間。彼女が困惑した声を上げていた。そこに冷たさはない。一気に空気が
溶けていく。
「……お腹空いた」
 不意に彼女は呟いて、そしてそのままぱたん、と倒れていた。
 一瞬、誠也の時間が止まる。何が起きたのかも理解が出来ない。
 目の前にあるのは、倒れて気を失っている少女が一人。先程までは気が付かなかったが、
間違いなくまだ二十歳は超えていないだろう。誠也とさほど歳は変わらない。いやもしか
すると、さらに若いかもしれない。十七、八という事もあり得るだろう。十分に少女と言
える年頃だ。
 その見知らぬ少女が白いコートに腰まである長い黒髪をまとわせて、誰も来る事はない
路面に一人、倒れている。
「なんだってんだよ」
 冷たい風が、誠也の肌を撫でた。
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