僕まほ2「昨日の夢を見つけたら」 (25)
「な?」
 天使は、そのままゆっくりと溶け出していく。まるでマシュマロのような、柔らかさで
少しずつ少しずつ。
「開いたわね。天神之清門(あまかみのせいもん)が」
 静かに告げた声は、確かに綾音のものだった。
 天使の上から飛び退き、声へと振り返る。
 すでに天使の身体はほぼゲル状と化してうごめいている。
「おかしいと思わなかった? 仮にも神位(かむい)にある天使が、この程度で倒される
なんて」
 綾音は静かに、静かに告げる。
「天使は天神之清門。つまり天津国との結界に半ば取り込まれかけていた。そこに一撃を
受けたから、結界に完全に紛れ込んでしまった。でも、おかけで門が開いたわ。天使の身
体を媒介にして」
 綾音の言葉に、洋は天使だったものへと視線を移す。
 確かに、そこに大きな黒い穴が開いていた。
 まるで何もかもを吸い込むような、黒い穴。
 まだそれは小さな穴に過ぎない。人ひとりなんとか通れるか否かという。
「ごめんね。結愛、洋くん。私ね、どうしても天津国に行きたかったの。そこに私の想い
があるから」
 綾音は静かに告げて、ちらりと結愛へと視線を移す。
「傷ついたけど、もう命には別状なさそうね。もっとも、これから世界が終わるかもしれ
ないけど」
 綾音の言葉。
 その後ろから。
「そうはさせませんよ。まだ天神之清門は開ききっていない。止めます」
 冴人の声が響いた。
「冴人」
 綾音が小さく呟く。
「どうして、拘るのです。もう過ぎた事じゃありませんか。十年の痛みは、確かに貴方の
心を蝕んできたのかもしれない。でも」
「貴方には分からないわよ!」
 冴人の言葉に、綾音が強く叫んでいた。
 こんな綾音は誰も見たことがなかった。いつも冷静で、くすくすと笑みを浮かべていて。
余裕たっぷりの様子しか見たことがなかった。
 なのに、いま綾音は、引き裂くように声を荒げている。
「わかる訳ないわよっ。まだ私は8つだったのよ。それなのに……。無理矢理……」
 強く噛み締めるように。
「あの時、私は誓ったの。どこまでも追いかけるって。あの原因を」
 綾音は静かに、だけど強い言葉で。
 告げていた。
「あいつは、天神之清門(あまかみのせいもん)の中。天津国(あまつくに)に逃げた。
私を好きなだけなぶって」
 綾音は、やや冷静さを取り戻して。笑うような声で話し始める。
「それでもずっと死んだと思っていた。だから、落ち着いていられた。でも、生きていた。
生きていたのよ」
 綾音は再び声を高めて、ぐっとその右手を握りしめる。
「天使や神の住む世界。天津国に逃げて生き残っていられるなんて思わなかった。だけど、
あいつは確かにまだ生きている。私はあいつを許せない。だから、だから天神之清門を開
く。あいつを――殺す為に」
 綾音はちらりと開きかけた黒い穴へと視線を移す。もはや開くのも時間の問題と思えた。
「同情はできます。しかし、開かせる訳にはいきませんね。所詮は貴女の個人的に感情に
過ぎないでしょう。その為に、世界を危険に晒す訳にはいきませんね」
 冴人は吐き捨てるように告げると、さっと印を結び始めた。
 八卦施術ではない。召還術である。いや、正確にはそれを応用した封印術だ。
 鬼を召還する際、一瞬だけ地の底との結界が解いてこの世界へと呼び出し、そして結界
を閉じる。同じように天津国との結界を解く呪文もある。天使や神に及ばないまでも、精
霊や木霊といった霊体を呼び出す呪文もある。
 それを応用したのだ。結界を開き召還する部分を捨てて閉じる部分だけを唱える。
 それによって開きかけた門を閉じるのだ。
「させない!」
 綾音が術を紡ぎ始める。八卦を招来し、術を止めるつもりだった。
「巽(そん)!」
 間髪入れず風を呼び出していた。いくつもの刃と化して、冴人へと襲いかかる。
 だが。冴人はそれを避けようともしない!
「閉じろ! 天とつながりし門よ!」
 呪文を解き放つ。
 その瞬間。冴人の身体が幾重にも切り裂かれていく。
 ざぁっと血飛沫が跳ね上がる。鮮血が霧のように舞う。
 だが。つながりかけていた門が、ゆっくりと閉じ始めていた。
「冴人!」
 洋が思わず叫ぶ。
「平気です。大した傷じゃあありません」
 冴人は傷だらけで、しかし平然とした顔のまま綾音へと振り返る。
「綾音さん。貴女にはまだ迷いがある。だから術を放ちながらも、私を殺せなかった。私
は完全に無防備だったにも関わらず」
 冴人が静かに言葉を紡ぐ。
「あなたの甘さ。私は嫌いじゃないですよ。でも、本当に門を開きたいなら、私を殺さな
ければ開きませんね」
 僅かに、口元を歪ませた。
 その歪みは悲しみなのか、憎しみなのか。
「どうします? 私を殺す覚悟がありますか? このままならもうすぐ扉は閉じます」
 冴人はちらりと閉じていく穴をみつめる。どろどろに溶けた天使の身体も、少しずつ硬
質化していた。
「冴人」
 綾音が。冷たい声を上げていた。
 その目が、僅かに落ちる。
 そして、見上げて。
「私は。貴方を」
 ぎゅっと、手を握りしめる。
 そしてその目を鋭く吊り上げていた。
「殺す」
 強く強く言い放っていた。
「綾音! なんでっ」
 洋が叫ぶ。
「俺にはよくわからない。あんたが何を苦しんでいるのか。でも、どうしてそんなに悲し
い事を言うんだ!」
 洋は思わず機関銃のように話し続ける。
「辛い事があったのかもしれない。だけど、その為に仲間を殺すのか!? それじゃあん
たをふみにじった奴と変わらない」
 洋はぎゅっと目を瞑る。
「俺は、あんたとはそんなに長いつきあいじゃない。それでも少しは知っているつもりだ。
本当は優しい奴じゃないか。里の奴らが厳しく当たっていた結愛に対しても、あんただけ
は優しかった」
 洋はまだ倒れている結愛へと視線を移す。結愛へと魔力を送り続けるのも忘れずに。
 しかし傷はもうだいぶん癒されてきていた。この分であれば命は取り留めるだろう。
「羨ましかったから」
 綾音がぽつりと囁くように声を漏らす。
「私、あの子が羨ましかったのよ。辛い事があっても、悲しい事があっても。平然として
笑っていられるあの子が」
 綾音はちらりと結愛へと視線を移す。
「私は笑えない。笑えないから」
 綾音は静かに告げて。
 そして、振り向いた。
「十六夜。門を開いて。私は、彼等を止める。殺してでも――」
 いつの間にか綾音の後にやってきていた十六夜に、ゆっくりと告げていた。
「もちろん、門は開かせてもらうよ。俺っちが元々始めた事だしね」
 十六夜はにやりと微笑む。
「咲穂さんはどうしたんです?」
 冴人の声に、十六夜は口元を歪ませる。
「隣で眠ってるよ。残念だけど彼女では俺っちを止めるには力不足だね」
 十六夜は飄々と答えていた。
「なんであんたは門を開こうとしているんだ! 何が目的なんだ!」
 洋が思わず叫んでいた。
 もうごちゃごちゃしていて、何がなんだかわからない。
 天守と地守のいがみ合いから始まったはずだった。そのはずなのに。

 いつの間にか話は全く違う方向に進んでいた。始まりはそこだったのかもしれないけれ
ど。
「そうだね。もう今更黙っていても仕方がないか。君達にも教えておくよ」
 十六夜は静かに語り出す。
「十年前。黒蛇真教の奴らが、ある計画を立てた。天使を大量に降臨させる為に、天神之
清門(あまかみのせいもん)を開こうとしていた。そして彼等の力では、その為には一人
の生け贄が必要だった」
 ちらりと綾音へと視線を移す。綾音がこくりと頷いていた。
「それに選ばれたのが綾音。彼女だった。出来るだけ霊力の高い人間が生け贄にはふさわ
しいから。
 だけど。彼女は生け贄には選ばれなかった。この儀式の生け贄に出来るのは十歳未満の
処女の娘だけ。当時、綾音くんは8歳だったので、もちろん資格は満たしていた。満たし
ていたんだ」
 十六夜は淡々と、ただどこか痛みを漏らしながら、ゆっくりと続けていく。
「だが、生け贄を阻止する為。いや正しくはそれを名目として、ある男が綾音くんを犯し
た。彼は、綾音くんに強い執着をもっていた。そして綾音くんは生け贄の資格を失った」
 十六夜の言葉に、綾音が僅かに顔を下向ける。
「代わりに選ばれたが、俺っちの妹だった。そしてある天守の助けを借りて、私の妹を生
け贄とした」
 十六夜はここで一度言葉を句切る。淡泊な、だけどどこか強く胸をえぐる声。
「そして天神之清門は開きかけた。だが、そこで天守達が現れ、黒蛇真教の殆どが討ち滅
ぼされ門は閉じられた。そして事件は幕を閉じた。いや、閉じたかに思えた。
 だが、事件はそれで終わらなかった。綾音くんを襲った男。天守の裏切り者は、門が閉
じる前に天神之清門を潜っていた。しかし閉じられた門に、皆、命を失ったものだと思っ
ていた。
 ただ、彼は生きていた。天に棲む精霊達の力を奪い、自らも霊体と化して。綾音くんへ
の強い執着心を持ったままで。
 結果。バランスを崩している。綾音くんを求める奴の心が、この中津国と天津国をつな
げようとしているのだ」
 十六夜は、どこか感情の薄れてしまった声で静かに静かに。告げていた。
「つまりどちらにしても門は開く。例え今閉じようとしてもね。なら、先んじて俺っちが
開こうと考えた。門を開き奴を殺し門を閉じるか、綾音くんを天津国に追いやるか。ある
いは、世界を。終わりにするか」
 十六夜は一同を見回すと、すっと右手をまっすぐに伸ばした。
「俺っちは、門を開き奴を殺す事を選んだ。だが守の民の考え方であれば、綾音くん一人
犠牲になって済むのなら迷わずそうしただろう。俺っちには、それは許せない。大切なの
は世界じゃない。この世界に息づく命なのだから」
 十六夜は皆をくるりと見渡す。
「ま、俺っちがいってる事のどこまで本当はかわからないけどねぇ。でも俺っちは開かせ
てもらう。例え、それで天使達がこの世界に現れ危険に晒す事になろうとも」
 十六夜が呪文を唱え始める。召還術を応用した天との結界を緩める術を。
「……どうする!? どうしたらいい!?」
 洋は内心、強く思う。結愛は気を失ったままだ。洋はどうすべきなのか、判断がつけら
れない。
 洋は未だ知識としては只人と大差はない。門を開いた時の危険がどの程度のものなのか
も判断がつけられない。
 ましてや十六夜が嘘をついているかどうかなども。
 もしも結愛がここにいたらどうするだろう。自問自答する。
 だが洋が答えを出すよりも早く。
「わかりました。それでは、僕は貴方達を止めましょう。その男の念で門が開くというな
ら、その時対処すれば済む。いま敢えてこじ開ける必要はないはず。だから、僕は」
 冴人は静かに告げる。
「貴方達を止めます」
 強く強く。
「冴人! お前も、本当にそれでいいのか!」
 洋が叫ぶ。
 綾音は冴人の守だ。綾音の辛さ、想い。それが誰よりも分かっているはずなのに。
「当然です。僕は守の民ですから」
 冴人の言葉には、全く想いが込められていないようにも聞こえた。淡々とした。機械的
な台詞。
「僕は」
 強く言い放つ。
「貴方達を、止めます」
 一気に印を組み始めた。力が収束していく。
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