鏡の中に生まれた君へ (05)
「中井、お前その傷どうしたの?」
 次の日の朝、教室にくるなり伊橋くんが僕の顔を覗き込んで訊ねてくる。
「塚本に殴られた。そのうちいつか殴り返してやる」
 僕は淡々と告げるが、伊橋くんにはかなりの衝撃だったようだ。
「って、そんな何でもないみたいに。お前、最初に思っていたよりずっとすげーんだな」
「そうでもないよ」
 しかし僕は殆ど気にも止めずに、半ば流すように答えていた。
 祐未がいなくなった衝撃に比べれば、殴られたくらいどうということもない。それは僕
にとって、本当に全てを失ったかのような喪失感を覚えさせた。自分でもこうしてきちん
と学校に来ている事が不思議なくらいだ。
 あるいは祐未が強くなってと言い残したからかもしれない。祐未の最後の希望を叶えた
いと思う。
 伊橋くんはそんな僕の決意を感じ取ったからか、なぜか頷くとそれから僕の顔をじっと
覗き込んでいた。
「そういやさ。中井って、高原さんとつきあってんの?」
 不意に告げられた声に、思わず僕は吹き出しそうになる。
 何がどうなってそんな話になるのだろうか。
 確かに最近挨拶くらいは交わすようになったが、大した事は話していない。二人で一緒
にいたような覚えも無かった。それくらいでつきあっているのかと疑われるのだったら、
誰彼構わず疑わなければいけないだろう。
「ぜんぜんそんな事実はないけど、なんで」
 僕が答えると伊橋くんは少し首を傾げて、それからふぅんと軽く呟いていた。
「いや塚本が高原さんに惚れているのは、端から見てりゃすぐわかるからさ。最近高原さ
んと仲良くしてただろ。中井はそれで絡まれたのかと思ったんだけど」
 伊橋くんの言葉に、思わず僕も頷く。
 ああ、それで塚本の奴は僕に絡んできたんだ。
 塚本の事には心から納得出来た。確かに高原さんに惚れているっぽい雰囲気はあったか
ら、僕が高原さんと話しているのが気に食わなかったのだろう。
 しかしそれにしたってつきあうなんて言うのは、話が飛びすぎだ。普通に考えれば、そ
こまでの発想は出てこないと思うのだが。
「昨日さ、俺、中井と高原さんが並んで歩いているの見たんだよね。肩抱き合って歩いて
いたように見えたんだけど。ただ遠目だったから確信もてなくてさ」
 伊橋くんの言葉に、今度は僕の方が驚いていた。
 僕が高原さんと歩いていた。そんな事はないはずだ。僕は塚本に殴られた後、気を失っ
て、目覚めた時はベッドの上だったのだから。
「いや、僕はさ。塚本に殴られた後、気を失って、次に気がついたら自分の部屋だったん
だよね。だからそんな事はないと思うんだけど」
 僕が正直に告げると、伊橋くんは今一つ納得した様子ではなかったけど、素直に頷いて
いた。
 しかし実際覚えがないのだから、疑われてもこれ以上何も出る事はない。その話はこれ
でおしまい。
 そう思った瞬間だった。
「おはようございます」
 不意に響いた声は高原さんのものだった。気がつくと僕と伊橋くんのすぐ目の前に立っ
ていた。
「よう。おはよ」
「お、おはよう」
 伊橋くんに続いて、僕も何とか挨拶を返す。
 ちょうど高原さんの話をしていたところだったから、妙に胸がどぎまぎと跳ねた。
「中井くん、怪我は平気? 昨日、中井くん怪我して倒れていたから、私が家まで連れて
いったんだけど」
 高原さんの言葉に、伊橋くんが納得したように頷いていた。
 しかし僕はもういちど驚いて、目を見開く。
「高原さんが僕を?」
「うん。ほっとけなかったから。もう痛まない? 平気かな?」
 高原さんは心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
 ずいぶん近づいた顔に、慌てて後ろに頭を逸らす。
「だ、大丈夫だよ。それより、知らなかったよ。悪かったね。ありがとう」
 僕は心臓をばくばくとならしながらも、何とか普通に答えていた。
 まさか僕を家に連れて戻ったのが高原さんだとは思わなかった。てっきり祐未が僕を連
れて帰ったのだとばかり考えていたのだけれど、予想は外れていたらしい。
「どういたしまして。うん。でも平気そうで良かった」
 高原さんは満足げに頷くと、それからぺこりと頭を下げて自分の席へと戻っていく。
「ふぅん。なるほど、そういう訳ね」
 伊橋くんは完全に納得したようで、もう興味はないとばかりに僕から顔を逸らした。
 高原さんが僕を送り届けてくれたのか。なんとなく不思議に思いながらも、ありがたく
思う。クラスでも、いや学校の中でも美人の方だろう高原さんにわざわざ家まで送っても
らえたのだ。嬉しく思わなければ罰が当たるというものだろう。
 だけど何かひっかかるものを感じて、僕は少しの間高原さんの方を見つめていた。
「……ゆみーっ」
 突然、教室の外から叫ばれた声に僕は振り返る。
 祐未と同じ響きの音に、そこに祐未がいるのじゃないかとあり得ないとは知りつつも思っ
てしまう。
 でもすぐにそれが僕の勘違いだと気づかせてくれていた。
「まゆみっ、まゆみいるー?」
 呼んだのはゆみではなく、まゆみ。似たような響きだけれど、確かに別人の名前だ。
 僕はすぐに興味を無くして、もういちど高原さんの方へと顔を向ける。
 そこに何故か思い切り叫んでいた女の子の姿が見えた。
「まゆみ、いた。ちょっと聞きたい事があるんだけどっ」
 その子はそう言いながら、高原さんへと話しかけていた。
 高原さんは相変わらずふわりとした笑みを浮かべて、静かに女の子へと答える。
 そうか、そういえば高原さんの名前は確か高原真由美だった。僕が思わず祐未と言う名
前をつけたのも、高原さんの名前が頭に浮かんだからだったような気がする。
 僕はやっぱり高原さんに憧れていたんだ。
 でも今はその高原さんではなく、彼女からもらった名前を持つ少女、祐未の事ばかりが
頭に浮かぶ。
 祐未はもういない。
 だけど確かに存在していた。
 僕の中に、僕しか知らない存在として。
 祐未は僕の事を何でも知っていた。
 何も隠す事もなく、全てをさらけだせる女の子は後にも先にも祐未だけだろう。
 高原さんの事は綺麗だと思うし、今でもどこか憧れている気持ちはあるけれど、祐未の
ように接する事は出来ないだろう。
 高原さんは僕の事なんて何も知らないのだから、それも当然の事だ。
 そう、僕の事は何も。
 え? ちょっと待て!
 僕は叫びそうになって、慌てて口をつぐむ。
 だけど思いついた事実に、僕の胸は激しく上下に鼓動していた。
 高原さんは僕の事は何も知らないはずだ。 だから僕の家も知らない。だから送り届け
られるはずもなかった。
 だいたい僕がいくら痩せているとは言っても、女の子一人で運べるはずもない。
 そもそも家に帰ったはずの高原さんが、どうして体育館裏なんて人気のないところにこ
なければいけなかったのか。
 でも初めから全て知っていたのだとすれば。
 僕は慌ててもういちど高原さんの方へと視線を移す。
 高原さんは僕の視線に気が付いたのか、静かに微笑み返してくる。
 その微笑みに、知らないはずの祐未の笑顔がどこか重なって見えて、僕は思わず涙を零
しそうになった。
 僕の想像が当たっているかどうかなんてわからない。本当にたまたまだったのかもしれ
ない。
 だけどもしもそうだとしたら。
 祐未は僕の中に生まれたもう一人の人格なんかじゃなくて、高原さんの心が僕とつながっ
ただけだったとしたら。
 僕の中に力がわき出してくる。
 祐未は消えてしまった訳じゃない。
 そう思えるだけでいい。真実がどうかなんて、たぶん知らない方がいいんだ。
 ただ確かに祐未という存在がいて、僕の事を変えてくれた。それは変わらない事実なの
だから。
 祐未。僕は強く変われたかな。
 これからも変わっていけるかな。
 心の中で問いかける。
 もちろんよ、当然じゃない。
 そう告げる祐未の声が聞こえたような気がした。
 僕はもっと強くなる。
 きっと。
 だから僕も静かに、微笑み返していた。




                                   了
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