鏡の中に生まれた君へ (02)
 次の日の朝。僕は教室に入ると、そのまま無言で自分の席に座る。
 その途端、頭の中に思い切り声が響いた。
(ちょっと。何黙ってんのよ。挨拶くらいしたらどうなの)
 祐未は僕にはっきりと文句を告げる。
 祐未は僕の中に隠されていた人格だ。逆に言えば、僕がしようとしても出来ない事を平
然として出来る人格なのかもしれない。
「したくても、声が出ないんだよ」
 音にはせずに頭の中でだけ思う。それでも祐未に伝えたいという意志さえあれば、言葉
はきちんと伝わるらしい。
(何いってるの。挨拶なんて、ただ一言しゃべるだけじゃないの)
 祐未には僕の葛藤や苦しみはわからないようだ。それもそうだろう。これまで話してい
ただけでも、祐未が勝ち気な少女だと言う事はわかる。そんな彼女にしてみれば、何と言
う事はない行為なのだろう。
 でも僕にとっては、それだけの事が辛い。
 無視される事なんて当たり前の事だった。それだけならまだいい。あからさまに嫌そう
な顔を向けられる事もある。あるいはげらげら笑われる事だってあった。
 このクラスでも同じようにされたら。
 そう思うだけで、喉から漏れるのは空気が精一杯で、言葉になんてなりはしない。
「祐未にはわからないよ。怖いんだよ。僕なんかが話しかけたって、無視されるかもしれ
ない。笑われるかもしれない。だから」
 思わず話し始めていた。いや本当に声に出した訳じゃない。だけどこんな事を人に告げ
た事は無かったから、少し自分でも驚いている。
 もっとも祐未はあくまでも自分の中に生まれたもう一つの人格なのだから、自分自身に
告げているだけかもしれないけれど。
 ただその声を聞いて、祐未は軽くふぅんと声を漏らして、しばらく何かを考えていたよ
うだった。
 だけどそれも短い間のことで、すぐに祐未は大きな声で告げていた。
(そんな事考えていたの。そう。優矢は仕方ないわね。そうね。じゃあ私が変わりにやっ
てあげる)
「え?」
 しかしそんな僕の思いをよそに、祐未はよくわからない言葉を言い放つ。
 変わりにやってあげるといっても、祐未の言葉は僕にしか通じない。祐未がいくら挨拶
をしたとしても、結局は伝わらないじゃないか。
 僕はそう思うのだが、祐未は気にした様子もなくどこか楽しげに鼻声を漏らした。
 と、ちょうどクラスメイトの一人が教室の中に入ってくる。あれは隣の席の伊橋くんだ。
 隣の席だから、一言二言くらいは言葉を交わした事はある。しかしそれだけだ。僕がろ
くに返事を返さない為か、そのうち何も言わなくなっていた。
 伊橋くんは隣の席にゆっくりと座った。もちろん僕に声をかけたりはしない。
 声をかけるべきだろうか。僕は迷う。本当に祐未に変わってもらえるのなら、そうした
いくらいだとも思う。
 そう思うと同時に、祐未の声がはっきりと聞こえていた。
(変わるから)
 祐未の声と共に、急に体中が軽くなったような気がする。なんだか羽根が生えたようだ。
 それと同時に僕は何も命じていないのに、僕の顔が伊橋くんの方へと向かっていた。
 だけど僕が驚く暇もなく、僕の体は話し始めていた。
「おはよう」
 その声は確かに僕の喉から発せられた。僕は全く話をしてはいないというのに。
 突然告げられた挨拶に、伊橋くんは少し驚いたようだった。しかしすぐに微笑んでおは
ようと挨拶を返してくる。
 僕があれだけ思い悩んだ事が、全くの無駄な事だったのだと思い知らしているようにも
思えた。
(ね。こんなものだって)
 祐未の声は軽やかで、何事も無かったかのように告げる。実際に祐未にとっては、特別
な事ではないのだろう。
 でも僕にとっては違う。祐未がもう一人の僕だとしても、やっぱり僕とは違う人格なの
だ。僕には、出来ないから。
 新しい人格なんて生まれても、結局は僕は僕のままだ。何も変わりはしない。
 顔を沈ませたまま、目を強く瞑る。
(優矢。何で黙っているの)
 祐未にはやっぱり僕の気持ちなんてわからないようで、どこかさぐるような声で呟く。
 僕は溜息をついて、それから顔を少しだけ背けた。
 同時に教室の扉が開く。
「おはようございます」
 静かな声と共に、女の子が一人、入口の前に立っていた。肩の辺りまで伸びた黒髪が、
目を引く。どこか上品な笑みを浮かべている彼女は、クラス中の憧れの的。高原さんだ。
 高原さんの姿を認めると、少しだけ僕も頬を緩ませる。彼女の優しそうな笑顔をこっそ
りと見つめているのが、僕のささやかな楽しみだった。
(へぇ。優矢はああいう子が好みなの?)
 しかしそれを遮るように、祐未のどこかからかうような声が響く。
「なっ。ち、ちが」
 僕は思わず立ち上がり、声に出して叫んでいた。
 同時に一同の視線が僕に集まる。
 いたたまれなくなって、僕は「ごめんなさい。何でもないです」とだけ告げてすぐに席
に座る。
 顔が真っ赤に染まっていたかもしれない。
 ただ幸い、まだ教室にいる人はそれほど多くないし、僕にずっと注目している人もいな
かった。
 もともと皆は僕の事に何て興味は持っていないのだから、大して気にもならないのだろ
う。でもそう思うと恥ずかしくはあったけれど、僕もそれほど他の人のことは気にせずに
済んだ。
 ただ少しだけ顔を高原さんの方へと向けてみる。彼女がどう思っているかだけは気にか
かった。
 彼女は、僕の方を見ていた。
 突然出した声にやはり驚いたのだろうか。そう思うと顔がまた真っ赤に染まる。恥ずか
しいところを見られてしまった。
 それでも彼女はにこやかに微笑んで、おはようと僕に向けて挨拶を投げかけてくる。
 びくんと胸が揺れた。
 高原さんが僕に挨拶してくれた事なんて、今までなかった。それは僕が遠巻きに眺めて
いたからかもしれない。
 だけど今、彼女の微笑みは僕に向かっている。
「あ……」
 それなのに僕は挨拶に答える事も出来ずに、そのまま顔を背けていた。
 横目で眺めた彼女の表情が、どこか悲しげに見えたのは、僕の気のせいだろうか。もし
かすると高原さんは無視されたと思ったのかもしれない。
 そうじゃない。そうじゃないんだけど、言葉には出来なかった。僕はいつもそうだ。
(ちょっと、どうして答えなかったのよ)
 訝しげな声で祐未が訊ねる。彼女にしても僕が答えなかった。いや、答えられなかった
理由なんてわからないに違いない。
 少しだけためらったけれど、僕は祐未にはその理由を告げようと思う。祐未は女の子だ
けれど、もう一人の僕でもある。僕自身になら、気持ちを告げる事も簡単に思えた。
「どうしたらいいのか、わからなかったんだ」
 それが僕の嘘偽り無い気持ちだった。憧れている女の子が、僕なんかに微笑んでくれた。
それだけでも僕には分不相応に思える。ましてや声をかける事なんて恐れ多すぎる。
 こんな風に思うのは、後ろ向き過ぎるだろうか。祐未にはわかってもらえないだろうか。
(そう。そうなの)
 祐未は何やら深く考え込むように呟くと、それから少しだけ静かな声で僕へと語りかけ
ていた。
(ねぇ、なら私が代わりに話そうか。少し話した後なら、優矢だって気構えないで済むだ
ろうし)
 祐未の言うのは、先程のように僕の体を動かしてという事だろうか。さっき告げられた
時は僕も理解出来ていなかったが、祐未はやはり僕の中にある人格なのだ。その気になれ
ば僕の体を動かす事だって出来る。
 まだ短いつきあいだけれど、本当に片時も離れずに一緒にいるせいか、彼女の性格も少
しはわかる。
 明るくて勝ち気で、でも本当は優しい。もしも祐未が体を持っていたとしたら、きっと
整った顔をした美人だっただろう。
 その祐未が僕の中に何て生まれてきた事は、彼女にとって不幸だったに違いない。
 そんな祐未なら、高原さんと話す事なんてて簡単だろう。そもそも祐未は女の子なのだ
から、相手が女子だからといって気後れする事もないはずだ。
 だけど。
「それは、いやだ」
 僕ははっきりと自分の気持ちを告げていた。
(どうして? 好きなんでしょ。そしたらきっかけくらいにはなるのに)
 祐未の声が少し責めるような口調に思えたのは、気のせいだろうか。
 だけど僕にだって譲れない事はある。
 高原さんには確かに憧れているかもしれない。
 けど話すのなら、ちゃんと自分の言葉では話したい。話すなら、僕を見て欲しい。そん
な事言える立場ではないけれど、祐未が話したとしても、それは僕の体をした別の人格と
話しているに過ぎない。
 それでは悲しすぎた。
 僕が高原さんの事を好きなのかどうかは正直自分でもわからない。だけどもしそうなの
だとしたら、せめてその子とくらいは自分の力で話したいと思う。
「だから、祐未の力は借りない」
 理由と共に僕はそう告げる。
 ろくに他人と話した事もない人間の言う台詞ではないかもしれない。
 祐未に甘えてしまえば、それだけで楽になったのかもしれない。でもそれは僕が変わっ
た事にはならないから。
 それは僕の本当の気持ちだった。
 だけどやっぱりそれはかっこつけの台詞にしか聞こえなかったのだろう。祐未はどこか
いらついた言葉を、僕へ叩きつけていた。
(ふうん。そう。言葉だけは達者なのね。でも、態度が伴わないんだったら、ぜんぜん意
味ない。嫌われたんだって勘違いしたままで、悲しんでるのにほったらかし。そんな偉そ
うな事言うんだったら、ちゃんと話して見せてよ。そうじゃないんだったら、私が話すか
ら。ほら、早くして。今すぐやんないと、意味がないんだから)
 祐未は言い放つと同時に、僕の体を勝手に立ち上がらせていた。
 そして高原さんの方へと強制的に向ける。
 だけどそれだけで、すぐに僕へと操作権を返していた。
 突然の事に驚いたせいか、少したたらを踏んで前へと歩き出してしまう。
 そうすると、すぐ目の前に高原さんの姿がある。
 彼女はどこか困惑した様子で、僕の方を見つめていた。
 当然だろう。無視したと思ったら、突然目の前まで歩いてきたのだ。驚かない方がどう
かしている。
 でも僕の喉からは何も告げる事は出来なくて、大きく息を飲み込んだ。
(ちょっと何黙っているの。ここまで来て置いて何も言わないつもり?)
 祐未の言葉は大きく響く。
 僕はまるでその声に押されるようにして、思わずといった様子で告げていた。
「お、おはよう」
 僕が呟いた言葉はただそれだけ。気のきいた台詞の一つも言う事は出来なかった。
 だけど高原さんは、少しはにかんだまま、優しく答える。
「はい、おはようございます」
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