鏡の中に生まれた君へ (01)
「ねぇ、ターンオーバーって知ってる」
 クラスメイトの声が不意に聞こえた。
 けど、それは僕にかけられた声ではない。隣にいる別のクラスメイトへの問いかけだ。
僕はただ聞こえてしまっただけに過ぎない。
 そもそもこの教室の中で、僕に話しかけてくる奴なんていない。そして僕も誰にも話し
かけたりしない。
 高校に入って見知った顔が一人もいなくなった事もあるけれど、もともと僕には友達と
呼べる存在なんていなかった。そして新しく友達を作る事も出来ずにいる。
 だから、僕はいつも一人だった。
「なんだそれ。新しいゲームか?」
 聞かれた奴は生き生きとした声で訊ね返す。
 その声がなんだか遠いものに感じて、僕は思わず顔を背けた。でも誰も僕の事なんて気
にしてはいないから、何が起こるでもない。
 僕は空気と同じだった。
 やや華奢な体つきでスポーツは苦手。成績もどちらかといえば悪い。顔は見られないほ
ど酷くはないが、決してよくもない。
 何事も平均より少し劣る。それが僕の全てだ。何一つ秀でたところがないから、性格だっ
て暗くていじけている。
 他にたくさん人がいると言うのに、わざわざ好きこのんでこんな奴に構おうなんて物好
きはいない。このクラスではいじめの標的になっていないだけ、まだマシな方だった。
 だけど中井優矢という名前を覚えている奴が、クラスメイトのうちどれだけいるのだろ
う。もしかしたら誰一人として、いないのかもしれない。
 そう思うと、隣で話してる二人が羨ましくも思えたが、僕はそこに積極的に入る事も出
来ずにいた。
「違うって。あのね。自分の中に隠された人格を表に出してくれる新しい占いなんだって。
最近、流行ってんの。ね、やってみたいと思わない?」
「いや、俺は別に」
「もう。のり悪いなぁ」
 二人は楽しそうに会話を繰り広げていたが、僕は横目で見つめながら立ち上がって、そ
のまま教室の外に出ていく。
 二人には僕の姿が見えていただろうけど、さよならの言葉の一つもなかった。もっとも
僕が何も言わないのも悪いのだろうけれど。
 でも声をかけられなかった。
 いつもいつもそうだ。ただ一言の声が出せない。僕だって、声をかけられるなら、そう
したい。
 だけどいざ声を出そうとすると、喉の奥がつかえたかのように言葉にならなかった。
 変われるなら変わりたい。
 そう思う。
 だからいまクラスメイトの一人が告げていた言葉が、気になっていた。
 ターンオーバー。自分の中に隠された人格が現れる。
 それはどういう事なのだろう。わからない。
 けれどもしかしたら変われるのかもしれない。なりたい自分に。新しい自分に。
 その反面、そんな簡単にいけば苦労しない。そうも思いながらも、その言葉が頭の中に
何度も繰り返されていた。




 外はすっかり暗く変わっていた。
 僕はもらったタペストリーを机の上に広げて溜息をつく。
 結局、僕は例の占い師にあっていた。
 顔を全て黒い布で隠した占い師は、男とも女ともつかない姿をしていた。そして僕の瞳
をしばらく覗き込んだ後、このタペストリーを手渡して告げたのだった。
「時計の針が十二時ちょうどを指した時、このタペストリーを広げて呪文を唱えなさい。
そうすれば五日の間だけ、貴方の中に新しい人格が生まれる」
 占い師が告げたのはそれだけ。
 他にも呪文の内容とか、教えてはくれた事はあるものの、大意としては特にない。
 それだけで五千円も取られた。その時は独特の雰囲気にそういうものかと思いこんでい
たが、今にして思えば僕は騙されたのかもしれない。
 たったこれだけの事で、自分の中にいる知らない自分が生まれるのなら、誰だって苦労
しないと思う。馬鹿馬鹿しい。そう思う。
 それでももしかしたらという気持ちを捨てる事も出来ず、いつの間にか時計が十二時を
指し示すのを待ち続けていた。
 シンデレラの魔法は十二時でとけたけれど、僕にかかる魔法はそこから始まるらしい。
もっとも始まりすらしないかもしれないけれど。
 やや自虐的に呟くと、僕はもういちど溜息をついた。
 壁にかけられた時計を眺めてみる。
 もうすぐ針が十二時ちょうどに重なろうとしていた。
 馬鹿らしいけれど、やるだけやってみよう。心の中で呟くと、僕は時計をじっと見つめ
る。
 それだけ僕は追い込まれていたのかもしれない。
 時間の針が揺れる。
 あと五秒。四、三、二、一。いまだ。
「テイルリング、中井優矢」
 たったそれだけの呪文。
 それを唱えた瞬間、タペストリーが突如として光輝く。なんて事もない。ただカチカチ
と時計の針が時間を過ぎるだけだ。
 始める前と後で何か変わったようには思えなかった、
 やっぱり僕は騙されたのだと思う。いつも僕はこうして食い物にされる方なのだろう。
そういう星の下に生まれてきたのかもしれない。
 悔しくて悲しくて、だけどそれをどこに吐き出す事も出来なかった。気持ちを漏らす術
を知らなくて、僕はただ心の奥底にため込んでいた。
「寝よう」
 思わず声に出して呟いて、手を軽く震わしていた。眠ればこの気持ちも少しは収まると
思った。僕の他には誰も気持ちを伝える相手なんていなかったから。
 ベッドにすがるように入り込む。
 歯の奥を食いしばり、目を閉じた。
 その瞬間だった。
(ちょっとっ。挨拶もせずに寝るわけ。少しくらい何かいいなさいよ)
 突然、その声は高らかと響いていた。
 慌てて辺りを見回してみる。
 しかしもちろん誰の姿もない。当然だ。ここは僕の部屋の中で、そう大した広さでもな
い。誰か人がいればすぐにわかる。
「いま声が……」
 もういちど声を出して呟いていた。
 今の声は女の子のもののように聞こえた。かなり激しく響いたその声は、だとすればず
いぶん気の強い少女のものだろう。
 部屋の中には誰もいない。かといって外に誰かいる訳でもない。声の主の姿はどこにも
見あたらなかった。
 空耳かとも思ったが、それにしてはあまりにもはっきりと聞こえていた。あれが空耳で
あれば自分の心は完全に壊れてしまったのかもしれない。
 思わず唾を飲み込む。
 同時に、もう一度その声が聞こえていた。
(もしかして、自分で呼び出しておいて私が誰だかわかってないの。最悪ね。信じられな
い)
 声は呆れた様子で告げていた。
 この時、僕はやっとその声が耳から聞こえているのではなく、僕の頭の中でだけ響いて
いる事に気がつく。
「もしかして」
 今度は声には出さずに、頭の中でだけ呟く。
 それと同時に再び声が話し始めていた。
(そうよ、ようやく気がついたの。私は貴方の中に新しく生まれた人格よ)
 はっきりと告げる声。やはり空耳なんかではあり得ない。
 僕の心が壊れたのか、それとも本当にターンオーバーとやらの効果なのか。確かに声は
僕の中で響いている。
 だから思わず僕は笑みをこぼしていた。
「あははは」
(ちょっと、何がおかしいのよ)
 声の主は、思い切り不機嫌そうに声のトーンを変える。
 どうやら僕の中の新しい人格だか幻聴だかとはいえ、僕の考えている事全てがわかる訳
ではないらしい。
 なるほど、確かに新しい人格なのだろう。
 僕が笑った理由は嬉しかったからではない。おかしすぎたから。あまりにも自分が情け
なすぎて。今までこれほどまでに自分を情けなく思った事はなかった。
「はは。これはいいや。藁にもすがる気持ちで試してみたら、生まれてきたのは女の子。
はは、僕の中に隠れていた人格は男ですらなかったとはね。つまり僕はオカマだったんだ。
はは、情けなくて当然だよな」
 胸の奥が締め付けられるような気がした。
 そのまま胃の中身が逆流しそうなほど、何かがこみ上げてくる。
 自分の中に隠された人格という言葉に、僕は明るくて強くて格好良くて、とそんな自分
を想像していた。
 しかし所詮は僕の中に隠された人格なんだ。そんな立派な性格に変われるはずがない。
 もういちど自嘲の笑みをこぼす。自分が情けなすぎて涙すら目端に浮かんできている。
 だけど声の主は僕のそんな気持ちに気がついていないのか、変わらない声で告げていた。
(ちょっと。誰がオカマよ。そりゃ、君、えっと優矢は男かもしれないけれど、私は歴と
した女なんだから。優矢と私とはあくまでも別個の人格。君の中に生まれただけで、君と
は何の関わり合いもないわ。優矢と一緒にしないでちょうだい)
 心の中に響いてくる声に、僕は今度は声を失っていた。
 自分の中に生まれたもう一つの人格は、僕ですらないと告げる。それどころか、その人
格すら僕を否定しようと言うのだろうか。
 だとすれば僕という存在には、一体どんな価値があるというのだろう。
 心の中で呟くと、少し顔をうつむける。
(何黙ってるのよ。少しくらい話したらどうなの。ま、いいわ。せっかくつながったのだ
もの。けちけちいうのはやめてあげる。とにかく、まずはそうね。私に名前をつけてちょ
うだい)
 だが声の主は僕の思いには構わずに、まくしあげるように話を続ける。
 その言葉に僕は少し首を傾げた。
「名前?」
 思わず呟く。自分の事を一人の人格というのだから、名前くらいありそうなものだと思
う。しかし声の主は、早くとばかり催促を続けていた。
(そうよ。私はまだつながったばかりだから、ここでの名前がないもの。だから優矢が名
前をつけてちょうだい。ほら、はやく)
 声にせかされて、仕方なく浮かんだ名前を告げる。
「じゃ、田中」
(馬鹿)
 しかし告げた瞬間、声は思い切り声のトーンを低くして、呆れたように呟いていた。
「馬鹿ってなんだよっ」
 思わず僕も抗議の声を上げると、声の主は、僕のその言葉に早口で答えていた。
(馬鹿だから馬鹿つってんの。君ね、私は君と同じ体にいるのよ。それなのに名字をつけ
てどうすんのよ。おかしいでしょ。だいたい名前っていったでしょうが。あ、いっとくけ
どね。ぽちとかたまとか変な名前をつけようものなら、許さないからね)
 声はかなり不機嫌そうに言い放つ。もし本当に声の主が目の前にいるとしたら、眉を寄
せてしかめっ面をしているのだろう。
「なんだよ。じゃ、自分で決めればいいだろ」
(何よ。いい名前が思いつかないのかしら。あ。女の子の友達とかいないんでしょ。だか
らいい名前が思いつかないんだ)
 僕の言葉にいちいち突っかかってくる。
 その台詞に少しむかつきはするものの、それでもなぜか素直に答えられていた。
「うるさいな。ほっとけよ」
(あ、図星なんでしょ)
 声の主は楽しそうに呟くと、鼻息を漏らしたような気がした。もちろん彼女に体なんて
ないから、そんなはずは無いけれど。
「図星で悪かったな」
 顔を背けて、それから溜息を一つ。
 自分の中にいるとはいえ、いままで面と向かってそんな事を言う相手もいなかった。陰
口を叩く相手や、さげずむように告げる相手はいたものの。
(ほんとにそうなんだ。でもはっきり認めるなんて案外潔いのね。ま、でもそれはそれと
して、はやく名前を決めてちょうだい)
 声の主は僕のそんな気持ちには気づかずにいるのか、ただ僕をせかし続けた。
「わかったよ。じゃあ、そうだな。祐未。それでいいだろ」
 最初に思いついた名前をとりあえず告げてみる。
 すると声の主はしばらくの間、黙り込んでいた。しかしそれも長くは続かずに、やがて
声の主はゆっくりと答える。
(そうね。うん、いいんじゃないかな)
 彼女はどこかとらえどころがないような声で頷くと、それから僕へと今度ははっきりと
言葉を返した。
(短い間だけど、よろしく、優矢)
「え、あ。うん、よろしく」
 二人が挨拶を交わすと、声の主――祐未が笑ったよなう気がした。もちろん心の中に生
まれた人格に表情なんてないから、笑顔が見えた訳ではないのだけれど。
(じゃ、今日は私はそろそろ寝るね。おやすみ)
 そして祐未が別れの挨拶を告げると同時に、僕の頭の中が軽く変わったような気がする。
 本当に眠ってしまったのか、それともやっぱり初めから僕の生み出した幻想だったのか、
そのまま祐未の声は聞こえなくなった。
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