さよならの鎖 (21)
「勝手な事いうんじゃないっ」
 その声は高らかと響いた。
 そしてひゅんと風を切るような音が響くと、ガラスが砕ける音が鳴り渡った。
「うがぁっ」
 叫び声と共に、先生は辺りに倒れのたうちまわっていた。
 克己が目を開けると、目の前には何かの薬品にまみれてぼろぼろになった衣服をまとっ
た先生の姿があった。
「克己、よかった。間に合ったね」
 背中から聞こえてきたのは、茜の声。
 けれど振り返れば、またいなくなってしまいそうな気がして向き直れなかった。
 茜はそんな克己の内心を知って知らずか、克己のすぐ隣にたつ。
 確かに茜の姿がそこにはあった。
「茜、どうして」
 どうしていなくなったのか。
 そしてどうして戻ってきたのか。
 わからない事だらけで頭の中が大きく渦を巻いた。それでも茜がここにいる事が嬉しく
て、克己はもういちど目に涙を浮かべていた。
「なに、克己泣いてるの? 私がいなくて寂しかった?」
 茜はにやりと口元に笑みを浮かべて克己の顔をのぞき込んでいた。
「ば、馬鹿言うな。そんな訳ないだろ。それより、いま何をしたんだ」
「ちょっと寄り道をして理科室から失敬してきた。つまりは塩酸って奴」
 茜の言葉に慌てて先生へと向き直る。
 先生は塩酸に焼かれて、あちこちから焼けて醜く変わった肌を露出させていた。
 どうやら茜は克己の代わりに武器を手にいれてきたらしい。
 克己は近くに転がったままの銃を拾い上げる。これで先生には武器もなくなった。ワク
チンを手にいれるのに事は有利に運んでいる。
「ぐ……貴様……何てことを」
 先生は何とか立ち上がる。
 肉が赤く膨れ上がり、ところによっては溶け出して茶色にくぼんだ肌を見せていた。
 衣服はぼろぼろに焼けていたが、その一部は溶けた肌と合わさり重なっていた。
 それでも先生は立ち上がって、茜を睨み付けていた。薬品の量が少なかったからか、す
ぐさま命に影響があるようにも思えないが、決して無事とは言えないだろう。
 しかし茜はそれでも先生に対しての怒りを収めようとはしなかった。
「何てこと? そんなのテロリストの言う台詞じゃない。何て事をしてくれたのは、そっ
ちの方。先生にどんな理由があるかは知らないけれど、私は絶対に許さない。絶対に許さ
ないんだから」
 茜の声は激しく怒りを感じさせた。
 今までこれほどまでに感情を露わにする茜を見た事はない。
 普段はまるで心を感じさせないようで、そのくせ話し始めるところころと表情が変わっ
て。
 そんな茜だったけれど、怒りをはっきりと見せる事は殆ど無かった。
 しかしいま怒りを見せるのは当然の感情だろう。自分達が慕ってきた先生とは言え、目
の前にいるのはテロリストだ。何人もの命を奪い、絶望のどんぞこに追いやった張本人な
のだ。
 もちろんテレビで放送した男など他にも協力者はいて、先生だけがこの事態を引き起こ
した訳ではないだろう。あるいはこんな危険な場所にいるのだから、先生はテロリストの
中でも地位は低いのかもしれない。だから先生と戦ったからテロが終わるとは言えない。
 それでも先生は克己達の希望を奪った。
 怒りを投げつけるには十分過ぎるほどの理由がある。
「許されようなんて思っちゃいない。どうせ私は地獄に落ちる。でも、その前にこの国を
滅ぼしてやる。こんな国、あっちゃいけないんだ」
 先生は怒気をはらみながら、まっすぐに克己と茜の二人を見つめていた。
「私は信じてたのに。先生は優しくて、正しくて、強くて。先生は私を見ていてくれてい
るって、信じていたのに。どうしてこんなことをするの」
 茜は強い口調で言い返す。茜の顔も怒りで震えていた。
 二人ともに感情を露わにして、激しく視線をぶつけ合わせていた。
 茜は近藤先生を心から慕っていた。先生からどう見えていたのかはわからないけれど、
先生が来ると同時に席に戻っていたのは先生への憧れからだ。
 しかしいま茜は裏切られた気持ちで一杯なのだろう。克己はぎゅっと手を握りしめる。
「先生に何があったかなんて知らないけれど、俺にとっては今の事態こそがあっちゃいけ
ない。だから先生を許すわけにはいかない」
 克己は銃を構えて、先生に突きつける。
 銃の扱い方なんて知らなかったけれど、さっきまで先生が克己を狙っていたのだ。引き
金を引くだけでも弾は出るだろう。
「先生。ワクチンを出して大人しく捕まってくれ。武器もない、怪我もしている。この状
況じゃ、先生には勝ち目はない」
 克己は出来るなら先生にも死んで欲しくはなかった。テロを犯した当本人ではあるが、
今でもそれが本当の事とは思えなかった。
 優しかった先生との記憶の方が強くて、目の前にいるのがテロリストだと言う事をつい
失念してしまいそうになる。
 だからワクチンを差し出してくれて、あとは警察に突き出して任せたかった。
 人を殺すなんて事はしたくない。
 怖かった。
 殺される事も、殺す事も。
 克己はやはりごく普通の中学生だ。いざ人を殺さなくてはならないとなれば手が震えた。
恐ろしくてたまらなかった。
 それでも克己は先生に銃を突きつけたまま動かす事はしない。
 もしここで引き下がれば茜がどうなるかわからない。先生は自分を傷つけた茜を決して
許すとは思えなかった。
 だから傷つけてでも、茜を守る。
「……そうだな。お互いに許し合う事なんてないだろう。だったら」
 先生は呟いて、懐に手を入れる。
 そして一気に引き抜くと、そのまま取り出した拳銃を構えていた。
「な。」
 克己は呟いて慌てて引き金を引こうとする。
 だが所詮は克己は素人だ。慌ててしまって、うまく撃つ事が出来ない。
 だが先生は違う。訓練されたテロリストであり、銃の扱いなどというものは手慣れた作
業の一つに過ぎなかった。
 克己は当然知らなかったが、先生が取り出した銃は隆史が持ち込んだものだった。もっ
ともこの事態の内部にいるテロリストなのだから、他にもそれなりの装備はしていただろ
うが。
 ガァッッッン!
 鈍い音が響いた。
 同時に克己の肩に激しく痛みが走る。
「うわぁぁぁぁぁ」
 克己は悲鳴を上げ、そのまま辺りをのたうちまわる。せっかく手にした銃も、そのまま
放り投げてしまい、床にからころと音を立てて転がっていく。
「克己!」
 慌てて茜が駆け寄ってくる。
 幸い克己は肩先を掠めただけで、それほど大きな傷ではない。しかし銃弾による一撃は、
掠めただけでも肩が抜けるかと思えた。さきほどまで先生が使っていた銃よりも、かなり
威力が強い。
 先生はその顔に愉悦すら浮かべて、ゆっくりと一歩近づく。
 薬品で少しだけ爛れた顔が、どこか異形の化け物のようにも思えた。
「ひっ、くるなぁ」
 克己は大声で叫ぶと、転げた銃を拾おうとして手を伸ばす。
 しかしその手の上を、先生は思い切り踏みつけていた。
「がぁっ」
「残念だったな。そう簡単には反撃などさせんよ」
 先生はそのまま克己を思い切り蹴り上げると、克己の体が再び転がっていく。
「うがぁっ」
 克己は腹部に走った痛みに、もうまともに呼吸をする事すら苦しかった。
「克己っ、克己っ」
 茜が克己へと振り返る。だがそれを止めるようにして、先生は茜へと銃を突きつける。
「まて、西野。お前は私と遊んでもらおう」
 呟きと同時に、先生は銃の引き金を引いた。
 鼓膜を破るような音が響いて、茜のすぐ目の前の床を打ち抜いていた。
「や……」
 茜がぽつりと声を漏らしていた。
 いつもの茜からはあり得ないような、か細い不安めいた呟き。
 実際、茜は今にも泣き出しそうなほどに涙を浮かべて、体を震わせていた。
 怖くないはずがない。
 克己が倒され、目の前にテロリストが銃をもって迫っている。このままでは殺されるか
もしれないのだ。これで怖くなければ、心が壊れているとしかいいようがない。
 動け。動けよ。俺の体、動けよ。
 克己は声には出さずに叫びを上げる。傷ついたせいか、体が言う事を聞かなかった。
 その瞬間、再び天井からガンっとさらに激しい音が響いた。
 その音をきっかけにして、あらんばかりの気力を振り絞り、克己は立ち上がる。
「やめろっ」
 克己は叫びながら、先生に向き直る。
 殆ど意志の力だけで立ち上がっていた。体はいつもよりもずっと動きが鈍かった。
 それでも茜の前に立ちふさがる。
 先生を睨み付けていた。
 茜が傷つけられそうになって、まだどこかで少し感じていた迷いが消え去っていく。
 茜を守る、それだけをただ考えていた。
「佐藤、お前」
 先生も克己が立ち上がった事に、驚きを隠せないようだった。
 克己は息をする事すらも苦しくて、今にも倒れそうになる。
 それでも先生に向かって走り始めていた。
「やめろぉっ」
 克己は叫びを上げると、強く手を握りしめる。
「来るな、撃つぞっ」
 先生がどこか怯えた様子すら見せて、大きく叫び銃を構える。
 しかし克己はもはやそんな事は気にもしていなかった。
「くっ、止まれ」
 先生は克己に向けた銃の引き金を引く。
 銃声が激しく響いた。
「克己!」
 茜の悲痛な叫びが響く。
 その瞬間だった。
 克己はサッカーのスライディングの容量で、足下から思い切り滑り込んでいた。
「うわっ」
 先生が悲鳴を上げて、そのままなだれ込むように倒れる。
「茜っ、逃げろ」
 克己は背中にいるはずの茜に対して声を張り上げると、先生にしがみつくように体を絡
ませる。
 とにかく先生の持っている銃を奪う事だ。そうすれば大人と子供とは言え、克己にだっ
て勝機は生まれる。
 二人でもみ合いながら、克己は銃へと手を伸ばす。だが当然、先生もそうはさせじと身
をよじらせる。
 先生の上にのり、そのまま肩を押さえつける。
 このまま押さえ込めば何とかなる。克己は心の中で呟くと、そのまま先生の手を捻り上
げようとする。
 しかし、次の瞬間。先生の足が克己の腹へと埋め込まれていた。
「ぐっ」
 克己は思わず声を漏らして力を緩めめた。激しい痛みが腹部から伝わってくる。
 先生は克己を振り払う。口元に笑みを浮かべて、そのまま逆に克己を押さえつけていた。
「克己っ」
 茜が悲鳴のように名前を呼ぶ。
 だけどこれ以上どうしようもなかった。
 力が浮かんでこない。もう先生に抗う力はぜんぜん残っていなかった。
 もともと克己は気力で立ち上がっただけだ。それを引き落とされて、押さえ込まれて、
もう一辺も力が浮かんでこない。
「はぁはぁっ。西野、じっとしていてもらおうか」
 先生は克己を捕らえて、そのまま銃を突きつける。さすがに先生も荒い息を漏らして、
なんとか息を整えようとしていた。
 しかし克己は身動き一つ出来なかった。
 いや、少しくらいなら暴れる事は出来たかもしれない。
 だけどもしそうすれば、克己ではなく茜が傷つけられてしまうだろう。だがこのままじっ
としても茜もいつか殺されてしまう。
 どうすればいい。どうすれば。
 克己は心の中で何度も問いかける。考えても考えても答えはでない。
 ただ何もしないで殺されるよりは、何か可能性のある方にかけたい。どうすれば茜だけ
でも救えるのか。必死で考えを巡らせる。
 そんな克己をあざ笑うように、先生が口元に笑みを浮かべていた。
「まぁ、いろいろ手こずらせてくれたが、これで終わりだな」
 先生の銃が茜に向けて突きつけられる。
 茜はもはや身動きすら出来ないほどに、完全に銃口で捉えられていた。
「いや……」
 茜の声が漏れる。
 そして先生が再び笑みを浮かべる。
 やめろ、やめろ、やめろぉぉぉっ。
 激しく心の中が揺れるが、その叫びすらも声にはならなかった。
 克己は体を起こそうとして気力を入れる。
 しかし全く言う事を利かない。
 どうして、どうして動かないんだよ。動けよ。動け。動けよ、俺の体。
 何度も叫ぶのに、克己の声は届かない。
「さよならだ」
 先生が呟いて、そして引き金を握る指先に力を入れた。
 その瞬間。
「やめろよっ」
 後から大きく声が響いた。
 先生も気が付いていなかったのか、驚きの色を浮かべ、そしてそのまま転がっていく。
 つんざくような音が響き、すぐに甲高い音を立ててガラス窓が砕ける。
 同時にざぁぁぁっと雨が降る音が伝う。
 先生が遠くで何か叫んでいた。
 克己の耳ははっきりと聞き取れない。
 しかしそれでも何とか先程の声の方へと顔を向ける。
 そこには息を荒げた優の姿が見えた。
「坂上……!?」
 かすかに声が漏れる。
 いつの間にか優がそこにたっている。
 天井から響いた克己に機会を与え続けた音は、優が箱から抜け出そうとして暴れた音だっ
た。そしていまやっとここに駆け付けていた。
「坂上。お前か!」
 先生は怒りに震えながら、鬼のような形相を優へと向けていた。
 そのまま再び銃を構える。
 銃口は今度は優へと差し出されていた。
「坂上、逃げろっ」
 克己は叫ぶ。
 何とか優を助けようと、体を起こそうと気力を振り絞る。
 動け。動けよ。
 何度も念じるが、しかしどうしても力が出ない。
「優ちゃんっ」
 茜が大きく叫ぶ。
 優を庇うようにして、茜が立ちふさがる。
「西野っ、どけっ。どかなければ撃つ!」
 先生の怒号が響く。
「あかねっ、だめだっ」
 優が叫ぶ。
「いや!」
 茜はそれでも立ちふさがったままだった。
「なら、死ね!」
 先生の声が聞こえた。
 茜っ!?
 叫びは声にはならない。
 だけど、次の瞬間。克己は立ち上がっていた。
 先生の指に力が込められる。
 克己はそのまま先生へと飛び込んでいた。
 銃弾は克己の肩を掠める。
 激しい痛みが伝う。
 だが先生の体もバランスを崩して倒れる。
 克己はそのまま茜を抱えて、教室の中を転がっていく。
 同時に銃弾で廊下側の窓ガラスが砕けていた。
 その手前にいた優が驚いて尻餅をつく。
 先生はすぐに起きあがると、優へと手を伸ばしていた。
「くそっくそっくそっ。お前達っ」
 先生はもういちど銃を構える。
 そして銃口を優の額へと押しつけていた。
「死ね!」
 先生の歪な敵意が大きく響く。
「い、いやだっ。隆史っ、隆史ぃっ」
 優の悲鳴が伝う。
「坂上っ」
「優ちゃんっ」
 克己と茜が叫ぶ。
 だがもはや克己も茜も間に合わない。
 そして。
 ガッ!
 鈍い音が響く。
 同時に、先生の足首を手がつかんでいた。
 動かないはずの隆史の手が。
 生きているにしても、完全に意識を失っていたはずだった。
 だけど、隆史の手は先生を確かに捕まえていた。
「な、なぜ。なぜだ」
 先生が叫ぶと同時に。
 克己の拳が先生を殴りつけていた。
 先生の体が再び地面へと転がり、銃がからからと音を立てて教室の奥へと転がっていく。
 克己はそのまま先生の上に飛び乗ると、押さえつけるようにして体の身動きを奪う。
 すぐに茜も先生の体を捕まえていた。
 さすがに二人がかりで押さえ込まれては、先生もまともには動けなかった。
「隆史、隆史、隆史っ」
 優の声が何度も繰り返される。
 確かに隆史の体は動いた。今も先生の足を掴んだ体勢のままだ。
 だけど、隆史は声に答えるどころか、ぴくりとも反応しない。
 それでも隆史は無意識の内にでも、優を守ろうとしたのだろう。
 大切な人の為に。
 最後の力を振り絞って。
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