さよならの鎖 (22)
「克己、もう肩は平気?」
 茜の呼び声に、克己はゆっくりと振り返る。
 克己の怪我はそれほど大したものではなかったから、今はもうほぼ全快していた。
 しかしこうして教室の中にいると、今でもいろいろと思い出す。まだ完全に心の傷まで
が完全に癒えたという訳でもない。
 それでも克己達は先生をテロリスト捕らえ、ワクチンを得て九死に一生を得た。
 克己達がその後、残ったワクチンを自衛隊に差し出した事で、騒動はやがて収まっていっ
た。ワクチンの成分は複雑なものではなく、それなりに簡単に生成出来たらしい。
 テロは、終わった。
 ただテロリスト達は数人は逮捕されたが、主謀格の連中は捕まっていないらしい。だか
らまたいつこんな事が繰り返されるのかわからない。それでもとりあえずは収束を迎えて
いた。
 茜は相変わらず、克己の机の上に座り込んでいる。しかし授業が始まるまでには、まだ
だいぶんあるし、殆ど人もいないから構わないだろう。
 もっともあんな事件の後だったから、学校が再開された今になっても、教室の中は半分
も埋まりもしなかった。
 怪我をして入院した人もいるし、心に強い傷を負ってふさぎ込んでしまった人もいる。
記憶から逃れるように引っ越して、転校してしまった人もいた。
 それでも克己と茜は、今までと変わらずに変えずにいた。茜はやっぱり克己の机の上に
座って、足を投げ出している。まるですっかり違えてしまった状況を、少しでも元に戻そ
うとしているかのように。
「ねぇ、克己。どう、してるのかな……」
 茜はもういちど克己へと訊ねかけていた。
 もちろん、克己には多くはわからない。
 それでもその言葉はあの時の事を思い返させていた。


 先生をカーテンを引き裂いて作った紐で縛り上げ、克己は軽く溜息を漏らした。  先生の懐を探ると、白い箱に入った注射器と薬品のセットがすぐに見つかる。もちろん それがワクチンだと言う保証は何も無かったけれど、先生は他にこれというものを持って いなかったから間違いはないだろうと思った。  先生自身が保菌者である事は本人の口からも聞いている。しかしそのままでは死を迎え てしまうウィルスなのだから、それを抑える薬が必要なのは明白だった。  茜は薬をまじまじと見つめては、きょとんとした顔を覗かせていた。 「これがワクチンなの?」 「たぶん、そうだと思う」  克己は頷いて、それから先生の方を横目で見る。先生は黙して語ろうとはしなかったが、 恐らくは間違いないだろう。 「先生、これがワクチンなんだよな」  克己は先生へと問いかけるが、先生は何も答えはしなかった。  少しばかり不安になる。 「答えろよっ」  思わず叫ぶが、それでも先生は無言を貫き通す。余計な事は言わないつもりなのだろう。  しかしこれがワクチンだろうと、そうでないにしても、このままでは皆死んでしまう事 だけは間違いがない。試してみるしかないだろう。  ワクチンに関しては、もう他に方法はない。しかし克己には他に気になる事があった。 「……どうして、こんなことをしたんだよ」  克己は前にも発した問いを、もういちど呟くようにして訊ねていた。  今度も答えは返ってこないだろうと、克己は半ば諦めていた。それでも問いかけずには いられなかった。  すぐそばで優が泣いている。  隆史を前にして、崩れ落ちていた。  あの時、隆史は確かに動いた。それなのに今は何も答えない。  幸い脈はあるから、命は取り留めているようではあった。しかしそれはもういちど目を 覚まして、ふたり馬鹿な事を言って笑いあえるという事ではない。怪我は深く、これから どうなるのかもわからない。  とりあえず何とか血止めだけは行って、今は体育館からマットを取り出してきて横にし ている。  優は完全に魂が抜けたようになって、隆史のそばで泣き続けていた。目の前にいる隆史 以外には全く興味がないかのようにも思えた。  その優の為にも、どうしてこんな事をしでかしたのか知りたかった。  もしもつまらない理由だったとしたら、八つ裂きにしても足りないと思えた。 「……この国が許せなかった……。私を私達を見殺しにしたこの国を」  先生が不意にぼつりと呟く。  克己は答えがないものと思っていただけに、面食らった顔を先生へと向けていた。  だが先生はそんな克己を気にする事はなく、ゆっくりと語り始める。 「私はこの国の人間じゃない。度重なる戦争で疲弊した母国を逃げ出してきた、いわゆる 難民の一人だった」  先生の言葉に、思わず克己は目を開く。  先生の姿はどこからどうみても日本人にしか見えないし、日本語も流暢に話す。それに 公立学校の先生は公務員だ。日本人以外がなれるはずもなかった。 「私達は、家族でこの国へと駆け込んだ。だが、私達は難民だと認められなかった。そし て国へと強制送還される事になった。授業でも言った事があるだろう。この国は難民の認 定を殆どしない」  先生は淡々と告げていく。  だが想像もしていなかった言葉に、何と口を挟んでいいのかもわからない。 「帰国したのち、私達家族を待っていたのは、軍からの裏切り者扱いだった。国を出た時 よりも過酷な状況においやられて、鉱山の劣悪な環境に高熱を出しても無理矢理に働かせ れて、私の両親はすぐに死んだ。死んだ後は、まるでごみくずのようにドラム缶の中に積 み上げられた。両親が死んだとたん私の姉は、私の目の前で慰み者にされて、そのままど こかに売られていってしまった。一人残された私も、さんざんいたぶられ、殴り蹴られ、 辺りに転がされた。立ち上がる気力も体力も残らず、もはや死ぬしかなかった」  あまりに無感情に呟かれるだけの台詞に、克己はむしろ恐怖を覚えていた。先生の言葉 が偽りなどではない事を思い知らせる。  それでも先生は、何事も無かったように呟くだけだった。 「しかしそんな私を今の組織が拾ってくれた。組織の人間は言った。私を、私達をこんな 目に合わせたのは、日本が難民を受け入れないからだ。自分達だけが良ければそれでよく、 他人の事なんて気にしない国があるからだ。だからあの国を潰そう。私達の手で世界を救 わせようと。  奴らが本当にそんなつもりなのかなんてわからない。他に本当の目的があるのかもしれ ないし、奴らの考える事なんてわかりはしない。でも、そんなことは私にはどうでもよかっ た。ただこの怒りをぶつける相手が欲しかった。  そして私は組織の力で整形を施し、日本人になりすまし、偽の戸籍を作り上げて潜伏し た。  身よりもなく、まだ子供で、日本に対しても怒りを覚えていた私は、組織にとって使い 勝手の良いコマだったんだろうな。そんなことは私には分かっている。  それでも、私は覚えた怒りを、どこかにぶつけたかったんだ」  先生の言葉はどこまでも平坦で、その中には何一つ感情を感じさせなかった。  ただまるで壊れた機械のように。  今までの優しくしてくれた時間も、先生にとっては屈辱の日々だったのだろうか。ただ 復讐と怒りだけを抱えて生きてきたのだろうか。  克己はその事が悲しくて、仕方なかった。  正直なところ先生の生い立ちの話はよくはわからない。克己にとっては現実味のない話 だった。  人類の大部分は未だに生きていく事すら難しい生活をしている。しかし克己にとっては それは想像もした事のない世界だ。  しかし先生にとっては、それ自体が許せない事実なのだろうか。豊かな暮らしに甘んじ て、そのくせ他者を受け入れようとはしない。そんな風に映っているのだろうか。  克己には何も言えなかった。  しかし悲しい事実だったかもしれないけれど、それでもテロを起こした事が許されると も思えない。このテロで数多くの命が失われたのだから。  不意に優が立ち上がる。 「だから、だから何だって言うんだ。そんなことで許されるとでも思うのかよっ。このテ ロでどんだけの人が苦しんだと持ってるんだよ。ふざけるなっ」  優は先生めがけて、叫びつけていた。もし目の前に克己がいなければ、殴りつけていた かもしれない。 「許されるなんて思っちゃいない。ただ聞かれたから答えた。それだけだ」  呟いた先生の顔が、不意に憂うように揺らぐ。  今までの平坦な顔とは違う。人らしい感情を感じさせる悲しげな表情。  その姿に、優も一瞬だけ毒気を抜かれたのか、急に黙り込んでいた。  克己の隣から、不意に茜が姿を表す。 「ねぇ、先生は、本当にこんな事がしたかったの」  茜の問いかけに、先生の体がぴくんと震えていた。 「……さぁ、な」  呟くように答えて、それと同時に先生は立ち上がっていた。 「な!?」  思わず克己は慌てた声を漏らす。  先生は縛り付けていたはずだから、立てるはずはなかった。しかしいつの間にかきつく 縛っていたはずの紐は、完全に解かれていた。 「悪いな。この程度ならすぐに抜け出せる訓練はしてあるんだ」  先生はそう言い放つとすぐに克己を押しのけて走り出す。 「っ。待て!」  克己は思わず叫ぶが、せっかく逃げ出せたものを止まるはずもない。むなしく言葉だけ が残る。  そう思った瞬間だった。  先生は教室の入り口で立ち止まり、振り返る。  予想もしていなかった事に、逆に克己の足も止まっていた。 「……皆にだって、大切なものはある。そんな簡単な事も、忘れて、いたよ」  先生が不意に呟いて、それからまた振り返って走り出した。 「ワクチンはくれてやる。注射器で動脈に打て」  先生は叫びながら、廊下を一気に駆け抜けていく。  だけどその後を追いかける事は、もう出来なかった。  今の克己が追いかけても追いつかないという事実もある。またせっかく手にいれたワク チンを早く試さなければという気持ちもあった。  ただその他にも、先生の言葉にほんの少しだけ世界に満ちている悲しみを感じて、もう 追いかける事に疲れてしまった。  世界が平和ならいいのに。  何も変わらない日常を過ごせればいいのに。  そう呟いた。
 放課後。優は一人で校庭の周りを歩いていた。  何をするでもなく、とにかく歩きたかった。  人のいないグラウンドで、サッカーボールを蹴る克己の姿が見える。茜がそのそばで、 何をするでもなく克己を見つめていた。あの二人は相変わらず仲睦まじいなと優は思う。  しかし元々から弱小サッカー部ではあったものの、今ではメンバーすら足りなくて殆ど まともな部活動はしていないようだった。今は克己ともう一人が遊びのようにボールを奪 い合っている。すでに子供の遊びと変わらないレベルだ。  それでも克己がサッカーをやめずにいるのは、また元のような日々が戻ってくる事を願っ ている為だろうか。  優は何となく空を見上げてみる。  グラウンドどころか、学校にだって殆ど人はいない。あんな事件があった後だから、当 然だと思えた。  先生があの後、どうしたのか。優にはわからない。復讐なんて事は諦めたのか、それと もまだ狙い続けているのかそれすらも。  あの時、悔しくて悲しくて、優はただ泣き続けた。あの時、一生分の涙を使い切ったよ うにも思えたのに、今でも何かにつけて涙が浮かんでくる。  ボクはこんな泣き虫じゃなかったのにな、と心の中で呟く。  まだあれから一月が過ぎただけだ。そう簡単には傷は癒やされはしない。  それでもこうして学校に出てこれているだけ、優はまだ心の傷は浅い方だった。中には 学校に近付くだけで、事件を思い出して錯乱してしまう人もいた。  優にとっても、あのテロは忌々しいものだった。だけどほんの少しだけ、思い返せば心 が熱く変わる部分もある。  だから優はまだここに立っていられた。  こぼれそうになる涙を何とかひっこめて、優はぎゅっと目を閉じた。  もういちど開いた時、目の前には克己のボールを蹴る姿が映った。 「うわっ、ミスった」  同時に克己は大きく叫んで、ぽーんと浮かび上がったボールが優の方へと近づいてくる。  何度かバウンドして、優のすぐ近くを転がって止まった。 「あ、坂上。ちょうどいい、わりーけど、ボールとってくれよ」  克己がにこやかに笑いかけてくる。  その笑顔にほんの少しだけ心の中が軽くなった。  いつまでもくよくよしてはいられない。前を向かなくちゃな。声には出さずに呟く。 「よーしっ」  ボールを蹴ろうとして足下に力を入れる。  だけど不意に演劇部の箱の中に入れられた、あの時の事を思い出していた。  思わず息を飲み込む。  あのときボクは。思わず呟いた言葉は、誰にも聞こえなかっただろう。  だけど少しだけ考え直していた。  ボールを手にとって、克己に向けて何とか放り投げる。背の小さな優にはサッカーボー ルは大きすぎたけれど、何とか克己の方へと転がっていく。  あの時、優は確かに思い出していた。  自分が女の子だということ。  そして隆史に守られて、嬉しかったこと。  以前なら守られているだけの存在でなんていたくなかった。自分の中にそんな気持ちが ある事も認めたくなかった。  でも自分が女の子だと言う事を思い出させてくれた隆史の言葉は、何よりも嬉しく思え たから。たまにはそれもいいのかな、と思う。  まだあの後に続く言葉を聞いていない。  その時までは。  優は大きく首を振るって、それから振り返る。その先に。 「ちっとは女らしくなったみたいだな」  掛けられた言葉に、さっき堪えた涙がもう止まらなかった。  優は思わず駆け出していた。  目の前に立っている少年に、大きく微笑む。  形は違えてしまったけれど取り戻した未来。 「おかえり」  優は最高の微笑みを浮かべていた。                                       了
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