さよならの鎖 (20)
 日が沈む。
 辺りは薄暗く変わり、こんな時でも街灯はいつも通り照らし始める。
 目の前の学校も、いつもと変わらない佇まいを克己と茜の二人へと覗かせていた。
 視聴覚室には暗幕がはられていたが、それでも微かに明かりが漏れだしている。
 近藤先生はそこにいるのだろうか。皆は無事でいるのだろうか。
「茜、行こう」
 声をかけると、茜は小さく頷いていた。
 いつもの人形のような表情が、少しだけ寂しそうにも感じられた。
 不意に頬に冷たいものが落ちた。
 見上げると、もういちどぽつぽつと空から雨粒が落ちてきている。
 雨は夏らしく急激に増して、外はいつの間にか豪雨と化していた。
 克己は茜と共に、学校の中に駆け込んでいく。
 何となくもう引き返せないような気がしていた。
 雨は全ての音を飲み込んで、一人そこにある。まるで今日と言う時間を哀れんでいるか
のようにも思えた。
 克己は無言のままで階段を登っていく。
 今思えば、何か武器の一つでも用意するべきだったかもしれない。
 テロリストと戦うのに手ぶらだなんて、馬鹿げすぎていて自分が正気だとも思えなかっ
た。
 しかし学校の中に武器になるようなものがあるはずもない。あったとしても、恐らく持っ
ているだろう拳銃に敵うとも思えなかった。
 ここまできて再び恐れが浮かび上がってくる。テロリストと戦う。それがどんなに無謀
であり得ない選択肢だったのか、今にして理解していた。
 気持ちが混乱していたから、克己はそう言えた。まだ事態をはっきりと理解出来ていな
かったのかもしれない。
 もちろんいつも前向きで優しい克己だからこそ、そこまで思えた。隣に茜がいてくれた
事も勇気の手助けとなった。
 それでも自分が正気だったかと問われて、まともだと答えられる自信はなかった。
 けど、それでもいいと思った。
 その瞬間。
 激しく階上から銃音が鳴り響いた。
「なっ!?」
 克己は慌てて階段をかけのぼる。
 音がしたのはもう少し上の階。恐らくは視聴覚室辺りだ。
 みんな無事でいてくれと、心の中で深く願う。
 すぐに視聴覚室の近くまで辿り着く。だがまだ中は見えない。
「森田くんっ。もういいよっ、やめて。やめて」
 理恵の叫びが聞こえてくる。何があったのかと、克己は慌てて中を覗き込んだ。
 そこには銃を片手に携えた、近藤先生の姿が見えた。いつもと変わらない、優しそうな
笑みを浮かべていた。
 だけど先生の足下には、隆史が倒れていて。その少し奥の方で英司が、理恵の前に庇う
ようにして立ちふさがっている。服の肩が破れ、微かに血を流していた。
「もう……やめてください。赤石さんは、先生の言うとおりに佐藤くんに電話したじゃな
いですか……せめて、彼女だけでも」
 英司が力なく呟く。
 だけど次の瞬間、先生は何も感じていないかのように引き金を引いていた。
 激しい音が鳴り響いた。
 まるでスローモーションのように、英司がゆっくりと背中側に倒れていく。
 赤い鮮血が露わに、辺り一面を染めた。
 英司は力なく、とさりと音を立てて理恵の腕の中に落ちた。血を流して理恵の腕の中で
力無くもたれかかっている。
「いやぁぁぁっ、森田くんっ森田くん」
 理恵は英司を抱え込むようにして、倒れた英司を見つめながら涙している。
 隆史が、英司が、殺された? 声には出さずに呟くと、克己は愕然として体中から力が
抜けていた。
 理恵は克己が現れた事にも気が付いていない様子で、目の前の英司を見つめている。
「どうして、どうして私なんかを庇ったの。どうして」
 理恵が泣きながら英司に訊ねかける。
 英司はだけど何も答えない。答えられなかった。
 ただ英司の流した血が、理恵の肌とセーラー服とを汚している。赤く染め続けていた。
「いやだ、いやだぁぁぁ」
 理恵の叫び声が教室の中に響いた。
 何が起きているのか、すぐには理解出来なかった。
「佐藤、遅かったな」
 先生は克己に向けて、ゆっくりと告げる。まるで克己が来たのが遅かったから、英司を
殺したとでも言うがごとくに。
 克己は何も答えられなかった。喉が苦しくて、息も出来ない。目にした衝撃に、頭がハ
ンマーで殴りつけられたかのように感じていた。
 先生は手にした銃に触れながら、再び理恵の方へと向き直る。
「まぁ、どちらが先でも構わないんだが。順番は少し変わってしまったな。しかし森田が
赤石に惚れていたなんて思いもしなかったよ。森田も、人の子だったんだな」
 先生はいま人を銃で撃った事など、どうという事でもないように話し続ける。
「森田くんが、私を……そんなこと」
「なんだ、違うのか。男が女を命がけで守るなんて、他に理由はないだろう? もっとも、
どちらにしても、赤石も私に殺されるんだけどな」
 先生はどこかいびつな笑みを浮かべながら、銃を再び構える。
「やめろやめろやめろぉっ」
 克己は叫びながら、教室の中へと入り込もうとする。
 だがその瞬間、振り向くようにして先生が銃の引き金を引いていた。
 大きな音を立てて、克己の横の窓が砕ける。
 克己はその音に驚いて、思わず足を止めていた。
「佐藤。お前はまだ後だ」
 先生の告げた言葉が冷徹に残り、克己は踏み出すタイミングを失ってしまう。
「佐藤……くん」
 理恵がぽつりと名前を呼ぶ。
 やっと克己がここに来た事に気が付いたようだった。
 それもそうだろう。目の前で友達が銃で撃たれて、その相手が先生で。友達は好きだか
ら庇ったと言われて。その上に、自分を殺すと言われて。頭が混乱しない訳もない。
 英司がどうして理恵をかばったのか、それは克己にもわからない。英司が理恵を好きだ
と言う事は聞いた事もないし、そんな様子も無かった。
 しかし確かにそうでもなければ、あの英司が誰かを庇うなんて想像もつかない。
 英司が生きているのか死んでしまったのかはわからないけれど、少なくとも意識は失っ
ているようだった。
 生きていてくれ、と声も無く願う。生きていなければ、その答えを聞く事すら出来ない。
 だが先生は無情なまでに、もういちど銃を構えた。
「赤石。そろそろお別れだ。最後に言い残す事はないか」
 先生の声は、微かに遠く聞こえた。
 何を言っているんだと、理解出来ずにいた。
 冷静になれば先生が理恵を殺そうとしているのだと、克己にもすぐにわかっただろう。
しかしこの時の克己は、完全に気が動転していて、先生が何をしようとしているのか分か
らずにいた。
 理恵はぎゅっと目をつむり、それから英司の体を抱きしめる。
 英司は何も答えはしなかったけれど、理恵はもういちど目を開けて、先生をまっすぐに
睨みつけていた。
 そしてゆっくりと、話し始める。
「佐藤くん、ごめんなさい。私が電話なんてしなければ、ここに戻ってこなくて良かった
のに。ごめんなさい。死にたく、なかったから。そうしたら助けてくれるって、先生がいっ
たから。でも」
 理恵は大きく首を振るって、それから俯いて英司の体を強く抱きしめる。
「私、馬鹿だった。私のせいで、みんなを巻き込んで。佐藤くんも、森田くんも、森田く
んまでこんなことになってしまった……」
 理恵の目から涙がこぼれた。
 それは英司の頬におちて、英司の上を流れていく。
 それから英司の体を、静かに地面に横たわらせて立ち上がる。
 いつもの大人しい理恵とは違う、意志を込めた眼差しを先生へと向ける。
「佐藤くん、ごめんなさい。こんな事になって。私ね、私。こんな風にしてしまったけれ
ど、でも、でも。私、佐藤くんが、好きだった」
「赤石……さん」
 あまりの突然の告白に、克己は再び呆然として動けなくなっていた。
 どうしたらいいのかわからずに、微かに息を吐き出す。
 しかし理恵はそんな克己には構わずに、言葉を続けていた。
「だけど、森田くんが……私の、私なんかの為に庇ってくれたから。だから、だから。佐
藤くん、お願い。逃げて。私は、森田くんの」
 いいながら叫んで先生に向かって走り出していた。
「赤石さんっ、やめ」
 克己が叫んで飛び出そうとした瞬間。
 激しく切り裂くような音が響いた。
 理恵がよたよたとたたらを踏む。腹部から血がにじみ出している。
 セーラー服についた血は、もう英司のものなのか、理恵のものなのかわかりはしない。
 理恵は先生の方を向いて、それから克己へと向き直る。
 微かに悲しそうな目を向けて、それから振り返ろうとして。そのまま倒れ込んでいた。
 英司の上に折り重なるようにして。
「うわぁぁぁぁぁっ」
 克己の声は激しく響いた。
 何も出来なかった。
 あまりにも急激な展開に、頭も体もついていけていない。目の前になぜ英司と理恵が倒
れているのか、理解する事も出来なかった。
 英司が、理恵が倒れている。隆史も先生の足下でぴくりともしない。
 生きているのか、死んでいるのか。それすらもわからなかったが、皆が全て意識を失っ
ている事だけはわかる。
「近藤……先生……」
 克己は呆然として声を漏らす。
 目の前に広がっている光景が、いま実際に目にしても信じられなかった。
 だけど克己の目の前ではっきりと、先生は英司と理恵を殺していた。
「なんで、なんでだよ」
 克己は思わず叫び声を上げると、喉の奥にこみ上げてくるものを感じていた。
 胸の中がぐるぐると回るように渦巻いて、喉元を激しく刺激していく。
 先生は平然とした顔を向けたまま、もはや倒れた皆には用がないとばかりに、ゆっくり
と克己の方へと振り返る。
「どうして、どうしてこんな事を。先生。どうしてだよ」
「それは、私がテロリストだからだよ」
 先生はにこりと微笑むと、それから銃口を克己へと向けて銃を構える。
「なんで、テロなんか……」
「質問ばかりだな、佐藤。いつも授業中には質問なんてしたこともないのにな」
 先生は笑って答えていて、こうして見ているといつもの学校の風景と変わりはしない。
 しかしその奥に転がるようにして倒れている皆の姿が、現実を痛いほどに突きつけてく
る。先生はテロリストで、日常を壊した。皆が気づかずにした幸せを、全て奪い去ってし
まったのだ。
「まぁ、いいか。どうせお前もここで死ぬんだ。最後くらいは質問に答えてやろう」
 先生の言葉に、克己の背に冷たい悪寒が駆けめぐった。
 殺される。俺はここで死ぬ。心の中で呟く。
 克己は一瞬のうちに完全に理解していた。先生に見逃すつもりなんてまるでないこと。
どんな風にしても、拳銃を手にした先生には敵いそうもないこと。
 結果、克己は死ぬ。殺される。その事をはっきりと理解していた。
 隆史を、英司を、理恵を殺したのは先生で、そして克己も殺す。それはもう決まり切っ
た事なのだと。
「最初の問い、どうしてこんな事をしたのかだが。お前も見たかもしれないが、すでに街
中には凄惨な風景が広がっている。今は殺し合った末に、ウィルスに倒れた奴らがうごめ
いている。恐らくこのテロリズムが収束した後には、彼らはマスコミに大々的に取り上げ
られるだろうな」
 先生は淡々とした口調で呟く。
 その冷静な言葉が、余計に先生に対する恐怖を増していた。克己は体の芯から恐れを覚
えていく。
「けど、いまひとつインパクトにかけると思わないか。我々の目的の為には、より強い衝
撃を与える必要がある。この国の未来を全てぶちこわすかのような衝撃がね」
 先生の言葉に克己は何も答えられなかった。先生が何を言おうとしているのかも、全く
わからない。
「所詮、街中で殺し合った連中は殆どが元々から犯罪予備軍に過ぎない。ま、中には巻き
沿いを食って殺された奴もいるだろうが、そういう人間は一方的に殺されただけだ。いわ
ば少々大規模な殺人事件と変わりはしない。しかし起きた場所が学校で、殺し合ったのが
君たち子供同士だとしたら、どうだ」
「な……」
「子供が殺し殺される。ニュースでもそう言ったものは、大々的に取り上げられるだろ。
ならここで複数の中学生達が殺し合う。未来を担うべき少年少女が、お互いの命を奪い合っ
た形跡を残す。この国を操るご老人達には、さぞかしショッキングな出来事だろうな。だ
からこのテロはそれによって完成する。もういちど同様のテロを起こされたくなければ、
我々に政権を渡せとね」
 先生の淡々とした口調が、余計に恐ろしさを増していた。
 どうしてこんな事が出来るのだろう。克己にはわからない。
 克己達はそれぞれが、自分の想いを抱いて動いてきた。突如襲いきたテロに負けないよ
うに、みんなが強く願った。
 すれ違う事もあったけれど、お互いを大切に思っていた。尊重しあっていた。克己にとっ
て大切な仲間だ。当然、殺し合おうなんて全く思いはしない。
 それなのに先生は、皆の想いを踏みにじって、偽物の悲劇を演出しようとしている。
「そんなのっ、許せるかよっ」
 克己は大声で叫ぶ。だけど拳銃を突きつけられていては動く事も出来なくて、先生を睨
み付けていた。
 しかし次の瞬間。
 ガンっと鈍い音が天井から響いた。
 何の音だったのかはわからない。あるいは外の豪雨のせいなのかもしれない。しかし突
然の音に先生も一瞬、顔を上に向けていた。
 いまだ。克己は心の中で思い、同時に克己は先生へと飛び込む。
 しかし先生は慣れた様子で、克己を避けると克己の足を払っていた。
 克己はそのまま体勢を崩して、教室の中に転がっていく。
「うわぁっ」
 がんっと鈍い音が響いて、しこたま背中を机に打ち付けていた。
 喉の奥で詰まるような感覚が走り、激しく息を吐き出す。
「げほっげほっ……くそっ」
 克己は先生を睨み付けるが、いまは体が思うように動かなかった。起きあがる事すらま
まならない。
 先生はそのまま克己へと銃口を向けて、教室の中へと振り返る。
「無駄な事はするな。お前にやられるほど、私はやわじゃない。せっかく語ってやってる
んだから、少しは大人しく聞いたらどうなんだ」
「先生っ。なんでだよ。なんでこんな事するんだよ」
 克己は動かない体で先生を睨み付ける。
 先生はうすら笑いを浮かべながら、ただ克己を見下ろしていた。
「またなぜか。まぁ、お前にはわからないさ。私がどんなにこの国に失望したか、私がど
んなにこの国を恨んでいるかなんてな」
 先生は微笑みながら呟く。
 その微笑みが何よりも恐ろしく感じていた。
「しかし佐藤。お前、一人だけか。てっきり西野はお前と一緒だと思ったがな」
 先生は何気なく呟く。

 その瞬間、克己は慌てて背中へと振り返っていた。
 茜の姿は、そこにはない。
 ついさっきまで一緒にいたはずなのに、いつの間にか消えてしまっていた。
「茜!?」
 思わず名前を呼ぶが、もちろん答えはない。辺りはしんと静まり返っていて、完全に人
の気配はなかった。
「なるほど。一緒にいたけれど、危険を感じて逃げたと言う訳か。いまひとつ西野らしく
もない気もするが。まぁ、こんな事態だしな。死ぬともなれば、自分の身が大事にもなる
か。いや、あるいは西野らしいのかもしれないな。いつも私が教室に入ると同時にさっと
自分の席に戻っているからな。危ない橋は渡らないって訳だ」
 先生は薄ら笑いを浮かべて、ゆっくりと克己へと近付いていく。
「茜……」
 茜の名前をもう一度呼ぶ。
 茜は本当に逃げたのだろうか。確かに茜の姿はない。しかし克己にはどうしても信じら
れなかった。
 ただもしも茜が逃げたとしたなら、それでいいと思う。
 本当に茜がウィルスに侵されたかどうかはわからなかったし、少なくともこれで近藤先
生に殺される事だけは無い。
 茜が無事でいてくれればいい。
 それで。
 思うのに、なぜか目が潤っていく。
 茜はもうそばにいない。そう思うだけで、全ての力が抜け出していた。
「はは。見捨てられて、泣いているのか。情けない奴だな。まぁ、もっとも俺は俺達は国
からも見捨てられた。そうやっていつも捨てられていく人生なのかもしれないけどな」
 先生の言葉に、悔しくて顔を上げて睨み付ける。
 しかしその先生の顔は、全く笑みを浮かべてはいなかった。
 寂しげな瞳は、克己を見てはいない。どこか遠い場所を見つめているだけだ。
「けど、この国の奴らに一泡吹かせてやる。俺と同じ絶望を味あわせてやるんだ」
 先生は力無く呟いて、克己へと銃を向ける。
 どこか今までの愉悦すら感じさせる空気は霧散していて、まるで恐怖を感じさせはしな
い。
 それでも銃は克己へと向けられている。先生が引き金を引けば、それで克己は終わりだ。
「佐藤、悪いが死んでくれ。この国がどんな卑劣な国かを知らしめる為に」
 先生は銃を克己へと突きつけて、そしてゆっくりと指先に力が入る。
 克己は思わず目をつむっていた。
 逃げられない。
 確かにそう思えた。
 その瞬間だった。
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