さよならの鎖 (18)
五.最後に針を止めて

 死にたくない。
 克己は声には出さず呟く。
 すでに街の中にはウィルスが蔓延しているようだった。道ばたに倒れ異常なまでに発熱
し、汗を漏らしている人が何人もいる。
 皆が克己の姿を見る度に、助けて、助けて、と繰り返す。
 もはや彼らは動く事すらままならない。すぐにでも治療しなくては、間違いなく命が失
われるだろう。
 だけど手を貸す事は出来なかった。
 殺人ウィルスHOPE。
 希望と名付けられたそのウィルスは、誰かに触れる事によって感染するから。
 もしも彼らを助け起こせば、克己も死ぬ。
 彼らは見るだけで、保菌者だとはっきりと分かる。だから触れる訳にはいかなかった。
 助けて、と懇願する瞳が痛いほどに突き刺さる。それなのに何一つする事が出来なかっ
た。
 克己は一介の中学生に過ぎない。医者でもなければ、このウィルスを散布したテロリス
トでもない。テロによって、この街は完全に封鎖されてしまっている。克己に出来ること
は何もない。
 だからといって、彼らを見捨てて去るにはあまりにも良心が苛まれた。
 助けて助けて助けて。
 その声は本当に彼らが発しているのか、克己にはもうわからない。もしかすると、克己
の心が生み出した幻聴なのかもしれなかった。
 だけど死にたくなかった。
 まだ死ぬわけにはいなかった。
 克己は目をつむって、彼らには近づかずに駆けだしていく。
 それと同時に、今度は怨嗟の声が流れ続けた。
 人でなし。偽善者。お前も死ねばいいんだ。
 苦しい苦しい苦しい。
 どうしてお前は平気なんだ。なぜ立っていられるんだ。
 死ね、死ね、死んでしまえ。
 どうして俺だけが死ななきゃいけない。
 お前はなぜ生きている――
「うわぁぁっ」
 思わず叫んで、克己はそのまま走り抜ける。
 喉の奥が張り付くほど乾く。
 どうしてこんな事になってしまったのか、克己にはわからない。
 ただどこかに救いがある事を信じて、彷徨い続けていた。
 朝までは、何一つ変わらない日常だったというのに。どうしてこんな事になってしまっ
たのか。
 克己は、目をつむって今日という日を振り返る。
 平和な日常が始まったはずだった。
 朝までは何一つ変わらなかったのに、今は人を信じる事すら出来ない。
 もしもいま隣に茜の姿がなければ、あるいは克己の心も砕けていたのかもしれない。
「克己、克己。しっかりして」
 茜の声に克己は何とか気を取り戻す。
 隣で心配そうに見つめている茜の姿は、いつもの人形のような瞳ではない。どこか消耗
して疲れを覗かせていて、それでも気丈に立ち上がっている。
 自分も辛いだろうに、克己の事を想い気遣う茜は本当に強いのだろう。
 克己は決して強さを持ってはいない。
 ただ感情に突き動かされるようにして、あがいていただけだ。
 寛二を救いたい。
 誰にも傷ついてもらいたくない。
 それだけど、目の前にいま転がる病人は見捨てて走る。
 矛盾した感情に苛まれながら、それでもテロリストを、ワクチンを探し求めていた。
「茜。俺は」
 克己は呟いて、それから喉の奥で唾を飲み込む。何度か首を振るって、それから歯を食
いしばった。
 隣には茜がいる。茜の前で、これ以上弱みを見せたくなかった。
 茜は強さを持っている。同じように自分もありたいと願う。
「大丈夫だよ」
 ゆっくりと微笑みを向ける。少し顔が強ばっていたかもしれないけれど、茜の前では笑
顔を見せていたかった。
「うん。でも無理しないで。克己がこれで倒れてしまったら意味がないから」
 茜はささやかに微笑んで、それから少しだけ身をよじらせた。
 いつもの茜であれば、手を克己の肩において大きく笑っただろう。
 だけど今、そうする事は出来ない。克己も触れて欲しいとは思わなかった。
 いや本当は茜に触れたい。触れてもらいたい。いますぐでも抱きしめたい。
 いつもであれば、そんな風には思わなかっただろう。茜は隣で笑っているのが当たり前
で、ごく自然と触れあってきた。
 その事はいつまでも続くものなのだと、克己はずっと思いこんでいた。
 いまこうして触れる事が出来なくなって、初めてそれがどんなに幸せな事だったのか理
解していた。
 いま触れれば、何もかもを壊してしまうのかもしれなかった。
 もしも自分がウィルスを移された時、もしも自分がウィルスを移してしまった時。克己
は自身がどんな風に変わってしまうのか、想像もつかなかった。
 だから触れない。触れずにいて欲しい。
 二人の関係を壊したくないから。
 死ぬことは怖い。
 正常な思考の持ち主であれば、全てを失ってしまう事が怖くないはずがない。
 それでも茜との心地よい距離を壊してしまう事に比べたら、それはどこか遠い、知らな
い場所の出来事に過ぎなかった。
 本当はそれだけを考えていれば、さほど難しくはないはずだった。茜と二人、どこかで
隠れ続けていればいい。簡単な事のはずだ。
 それなのに克己は、他のものも捨てる事は出来なかった。寛二のあの瞳を見たら、救い
たいと願わずにはいられなかった。
 なんて馬鹿なんだろう。
 克己は声には出さずに呟く。
 自分の馬鹿さ加減に泣きたくなる。
 それでもそうせずにはいられなくて、今も無謀にもテロリストを探し続けた。
 しかし克己本人は気がついてはいなかったけれど、それは克己の持つ優しさと強さだ。
 誰にとっても捨てられない大切なものがある。
 それは自分自身であったり、好きな人であったり、家族であったり、信念であったりす
るのかもしれない。
 克己はその中で、今まで築き上げてきた関係を壊さないことを選んだ。自分に関わる誰
もが無事でいて欲しい。そう願った。
 特にその中でも茜との関係を壊したくない。
 いま隣にいてくれる茜の存在が、克己が冷静さを何とか保たせてくれていた。もしも茜
が傍にいなければ、いまごろ克己もおかしくなってしまったかもしれない。
「そうだな。気をつける」
 克己は微笑んで、それから振り返る。
 その瞬間だった。克己の持っている携帯電話が大きく震えて、音を奏で始めた。
 慌てて電話を取り出してディスプレイを確かめる。そこには赤石理恵とかかれていた。
 数少ない携帯を持っているもの同士で番号は交換していたが、今まで理恵から電話がか
かってきた事はない。もともと理恵は大人しいタイプの女の子だから、クラスメイトとは
言え男の電話に気軽にかけられる方ではないから当然だろう。
 しかしその理恵が今、こうして電話をかけてきているというのは、よほどの何かが起き
たのだろうか。嫌な予感を感じながらも、通話のボタンを押す。
「はい?」
『……佐藤くん……』
 受話器から響いたのは確かに理恵の声だった。ただとても弱々しくて、今にも崩れ落ち
そうだった。
「赤石さん。どうしたんだ、何かあったのか」
 慌てて克己は問い返す。しかしその声に答えたのは、理恵の声ではなかった。
『佐藤か』
 どこかで聞いた事がある男の声。
 だけど克己は始め、その声の主が誰だか全くわからなかった。
 理恵と一緒に残った英司のものではない。もちろん隆史や寛二、浩一のものでもない。
『瀬田を救う為に、テロリストを探しに行ったんだってな。さすが佐藤。お人好しは考え
る事が違うな。だけどいささか無理しすぎだと思うぞ』
「その声は。近藤先生?」
 克己は混乱しながらも、なんとか声の主を聞き当てていた。
 しかしいつも優しい近藤先生の声が、今はどこか淡々として冷たく聞こえたのは、こん
な事態に陥っているからだろうか。
「近藤先生?」
 茜の目が少し嬉しそうに開く。
 しかし克己は、続く先生の言葉に気がいって、茜には何も答える事が出来なかった。
『ああ、そうだ。しかしな佐藤。残念ながら町中をどんなに探しても、テロリストと出会
う事は出来ないぞ。なぜなら、今ここにいるからな』
「え?」
 克己は思わず聞き返していた。
 テロリストはここにいる。その言葉の意味が全く理解できなかった。
 ここ、というのはどこだろう。理恵の携帯から電話がかかってきたという事は、学校か
らだろうか。
 ではテロリストがいるというのは。テロリストがそんなところにいて、どうしてこんな
にゆっくりと話し続けていられるのか。それがわからなかった。
『ワクチンが欲しいのだろう。察しの通り私はワクチンを持っている。私は保菌者だから
な。これがないと発病してしまう』
「せんせ? どういう、ことですか」
 克己は何と答えていいのかわからずに、もういちど聞き返していた。
 頭ではもう理解していた。だけど感情がそれを許さない。そんなはずはないと、否定し
続けていた。
 けれどその後に続いた近藤先生の声は、克己のその心すらも完全に覆していた。
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