さよならの鎖 (15)
 街の中を走る。
 繁華街の中から広がってくる臭いに、浩介は思わず足を止めそうになる。
 酸っぱいような鼻をつく臭気は、血が流れた後の独特のものだった。それがそこら中か
ら伝わってくる。
 繁華街の中は、もはや人がいる場所ではなかった。
 あちこちが壊れ、崩され、ところどころ燃え煙を放っている。
 地面にはいくつもの死体。頭がないもの、体がひんまがっているもの、胸が引き裂かれ
ているもの、腹から内蔵をはみ出しているもの。壊れた体が、いくつもいくつも転がって
おり、とても正視する事は出来そうもない。
 浩介は思わず吐き出しそうになって、口を抑える。何とか浮かんでくるものを飲み込む
と、バットを構え辺りを警戒する。
 同時にパンと鋭い音が鳴り響いた。
「え、何が」
 浩介は思わず呟いて音のした方向へと振り返る。
 目の前に見知った顔の男がたっていた。右手に構えた拳銃の先から、煙がわずかに漏れ
ている。
 その奥に胸から血を吐き出した、おさげの少女の姿もあった。
 浩介は慌ててその子を凝視するが、幸いと言っていいのかはわからないが、理恵のもの
ではなかった。
 しかしほっとする暇もない。目の前にいる男は、ゆっくりと浩介の方へと振り返って、
にこやかな顔を向けてくる。
 浩介は思わず喉の奥で唾を飲み込んでいた。
 目の前で少女を殺したのは、浩介のよく知っている相手。近藤先生だったから。
「あぁ、野上か」
 人を殺したことを悪びれるでもなく、いつものような優しい顔で、近藤先生は浩介を見
つめていた。
「せ、先生。いま、その子を、殺した?」
 浩介は何がなんだかわからずに、思わず声を漏らしていた。
 確かにこの状況だ。優しい先生と言え、身を守る為には戦わなくてはいけない時もある
かもしれない。
 しかし先生がいま殺めたのは、どこか理恵を彷彿とさせる見るからに大人しそうな少女
だ。先生を傷つけるようにはとても思えない。
「ああ、殺したよ」
 先生はまるで今日は晴れたねとでも言うかのように微笑みながら、何の感慨もなく答え
ていた。
 浩介の体に冷たいものが走る。
 目の前にいるのは、浩介もよく知っているはずの人物だった。それなのに全く見た事の
ない未知の存在を目にしたような、強い違和感を覚えている。
「なんで……。なんで殺したんですか」
 浩介は思わず訊ねる。
 そして先生の目をじっと見つめた瞬間。浩介はまるで体が凍り付いたように感じていた。
 蛇のようなねっとりとした視線が、浩介へとからみつく、体中から脂汗が浮かんでくる
のを感じていた。
「どうしてかって。それは」
 先生はいつもの授業で質問に答えるかのように微笑む。
 ゆっくりと浩介に向けて拳銃を構えていた。
 浩介の体は、地面に張り付いたかのように動かない。
 ただ目の前で起きた不自然さだけが、頭の中を駆けめぐっていた。
「テロリストだからさ」
 先生は静かに音もなく、指先に力を入れる。
 拳銃の音が激しく鳴り響いた。


「馬鹿な事を言うのはやめた方がいいですよ」  英司は目の前にいる克己を見つめながら、ゆっくりと溜息をつく。  テロリストを捕まえるだなんて事は、絶対に無理に決まっている。しかし克己はことも なげにそう宣誓していた。  そしてあるいは克己なら、本当に捕まえてしまうのかもしれないともわずかに思う。  それでもごく普通の中学生にしか過ぎない自分達が、テロリストと戦うだなんて事は不 可能に近い。無理だと考えた方が自然だった。 「馬鹿な事いってるのはわかっているよ。それでも俺がそうしなくちゃ気が済まないんだ。 心配しなくても、俺一人でやる。俺は寛二を助けたい。ほんの少しでも可能性があるなら、 それに賭けてみたいんだ」  克己の目はまっすぐで、心の底からそう願っているのは英司にも見て取れた。  そんな克己が英司にはまぶしくて、痛々しく思えた。 「死ぬだけですよ。やめた方がいいです」  こうして告げた台詞が、もう克己を止める事が出来ないという事も、英司は心のどこか で理解していた。 「そうかもな」  克己はややばつの悪そうな顔を見せると、英司の顔をもういちどまっすぐに見つめ返し ていた。 「それでも、俺は馬鹿だからさ。やっぱり友達を見捨てられない」 「そこまで言うなら、もう止めません。勝手にのたれ死んでください」  克己の台詞に、英司は溜息をついて顔を背ける。  もう克己を見ていられなかった。  本当は死んで欲しくなんかない。だけどもうこれ以上、止める言葉も見つけられなかっ た。 「私も行くよ」  不意に茜が声を上げて、克己の隣にたつ。 「茜!?」  克己が驚いた声で答える。それもそうだろう。行けば死ぬ危険性は高い。自分から進ん で死地に赴くだなんて、とても理解は出来ない事だ。  英司には茜が何を考えているのか、いつもながらよくわからない。それでも彼女の決意 はとても堅いように思えた。  二人を見ているだけで、何故か英司はえもしれない不安にとらわれる。 「西野さんまで馬鹿な事を。あなた達は何もわかっちゃいない。そんなことをすれば死ぬ だけですよ。ありえない。助けられる訳なんかないでしょう!? どうして、どうしてで すか」  自分でも気がつかないうちに、いつのまにか声を張り上げていた。  茜は目を大きく開くと、一度だけ克己の方に向き直る。それからすぐに英司へと振り返っ て静かな声で呟いた。 「私は克己のそばにいたいから。それだけ」  淡々とした声だったけれど、だけど英司は何も言えなかった。  彼女には彼女の思うところがあったのだろう。言葉の中にしっかりとした決意を感じさ せる。それを止める術を英司は一つも持っていない。  だが茜の言葉に、克己の方が驚いた顔で彼女の名前を呟いていた。 「茜!? 馬鹿いうな。危険なんだぞ。頼むから、お前はここにいてくれ」 「嫌。だって、もしもこれで二度と会えなくなったなら、一生後悔すると思うから」  茜は呟いて、それから一人先に歩き始めていた。 「茜。まて、まてよ」  克己がその後を慌てて追いかけていく。  その間、英司は何もする事は出来ずに、ただ二人が去っていくのを見つめている事しか 出来なかった。  喉の奥が乾いて張り付く。  胸が締め付けられて、悔しくてたまらなかった。二人はそれぞれ自分にはないものを、 確かに持っているのだから。 「さ、佐藤くん、西野さん。森田くん、どうしよう。どうしたら。追いかけた方がいいの かな」  理恵がおろおろとした顔で二人が行った先と英司とを見つめていた。  英司は溜息を一つこぼして、それから首を振るう。 「やめておいた方がいい。ここから動けば、それだけ死ぬ確率も高くなります。ここでじっ と助けを待つ方が賢明です」 「で、でも。佐藤くんや西野さんが……」  理恵は克己の行った先を何度も気にして見つめていたが、それでもその後を追いかけよ うとはしない。  当然だと英司は思う。  克己と茜の二人がとろうとしている行動は、当たり前の人間のやる事じゃない。どこか 頭がおかしくなっているとしか思えない。極限状態におかれて、普通とは違う方向に頭が 向かってしまっただけだろう。  克己の言う言葉は綺麗事に過ぎない。どうしても実現出来るはずもなかった。  そう思い込もうとして、しかしそれも出来ずに胸が痛んだ。  心を曲げずにそうする事が出来る二人が、羨ましくてたまらなかった。自分はどうして ここにいるのだろう。どうして後をついていかないのだろうと、心の中で繰り返す。  でも死にたくなかった。死にたくない。そう思う心の方が強くて、無意識のうちに手を 握りしめていた。 「死にたくなかったらいかないことです」  必死で心を押さえつけて、英司は淡々とした口調で呟く。  感情を表したくなかった。心の奥底に何とか抑えつけようとする。それなのに後から後 から湧いて浮かぶ想いが、英司の心を激しく打つ。 「……軽蔑しますか?」  英司は思わず理恵の顔を見上げて訊ねていた。訊ねてしまっていた。  そしてその言葉は、抑え込んでいた想いを全て吐き出すきっかけと化していく。 「僕は佐藤くんのようにも、西野さんのようにも出来ない。誰かを助ける為に危険を冒す なんて事は、想像もしない。ただ助かりたい。死にたくない。僕はまだ死にたくないんで す」  英司の言葉は少しずつ崩れていく。  声と同時に体も震え出していた。その音が辺りに響いて聞こえるほどに、激しく振動を 繰り返した。 「誰かを助ける。僕だって、出来るならそうしていますよ。でも、もちろんそんなことは 出来ない。出来る訳がない。僕はまだ死にたくないんだ。僕達はただの中学生なんだ。テ ロリストに勝てる訳ない。そんなの明白にわかりきってる。出来る訳ないだろうっ」  叫びだして、思い切り机を打ち付ける。  激しく揺れて、がたがたと教室の中を響きわたらせた。  英司は強く目をつむって、歯を食いしばる。  口の中で奏でる不協和音が、不快でたまらなかった。 「でも、僕はだから見捨てたんです。瀬田くんも、佐藤くんも、西野さんも。僕は自分が 可愛いから、見捨てたんです」  英司の頭の中に、瀬田――寛二の悲しそうな顔が浮かんでは消えた。さっきの克己の言 葉はまるで自分を責めているようにも思えた。  苦しくて吐き出しそうになる。  締め付けられて、苛まれる。 「僕は、卑怯者だ……」  偉そうな事を告げながらも、誰かを助ける勇気だなんて振り絞れなくて、ただ助かりた かっただけに過ぎなかった。  他の誰も死ななければいいとは思う。しかしそれはあくまでも自分が助かっている事が 前提だ。むしろ自分が助かる為なら他の人を殺す事だって、今ならやりかねないと思う。  誰にも触れたくなかった。誰にも出会いたくなかった。  このまま時間が過ぎて、救いの手がくるのを待っていたかった。  だからその道を選んだ。  しかしいま残されて、その事が英司の胸の中で重たくのしかかってくる。自分が誰かを 見捨てたのだと、克己の言葉は訴えていた。 「森田くん」  理恵はどこか困惑したような顔を浮かべていて、小さな声で英司の名前を呼んでいた。 「……そんなに自分を責めないで。森田くんが卑怯者っていうなら、私もそうだから……。 私もあんな風には出来ないから」  俯いて、それから静かに呟く。  うつむけた顔から、ぽつんと涙がこぼれ落ちる。いつのまにか英司も気がつかないうち に、理恵の表情も大きく崩れていた。 「私も西野さんみたいには、出来なかった。そうなろうって思っていたのに。西野さんに なりたかったのに。……私ね。私はね、佐藤くんの事が好きなの。だから佐藤くんが助け にきてくれて嬉しかった。でも、佐藤くんが見てたのは、やっぱり西野さんだけで、私に は届かなくて。どうせ届かないのだから、佐藤くんと一緒にいても仕方ないって。西野さ んみたいに綺麗でもないし、勇気もない。誰かを助けるなんて事は出来ない。だから私は、 佐藤くん達をおいかけても仕方ないって。叶わない想いの為に死んでも仕方ないって。私 は、私はそう考えたから」  理恵は嗚咽を漏らしながら、そのままいくつもいくつも涙をこぼす。  英司はしかしそれに答える事も出来なくて、ただ理恵を見つめていた。理恵の肩は震え ていて、とても小さくてか細く思えた。 「私も勇気が欲しいよ。なんで二人ともあんな風に出来るんだろう。なんでなんだろう。 でも、私もまだ死にたくない。死にたくないよ。死にたくないよ……」  繰り返す声は次第に小さく掠れていく。  英司は急激に崩れだした理恵の姿に、再び胸の奥が痛む。理恵につられるように涙が浮 かびかかるが、それは漏らさないように何とか飲み込んでいた。 「私だって、決して良い人なんかじゃない。私もずるい人間だもの。でも」  理恵の言葉に、英司はぎゅっと目を閉じる。  ただ死にたくない。生きていたい。  心はそれだけを繰り返した。  誰か救いの手を差し伸ばして欲しい。もう自分では、何も出来ないから。  助けて。助けて。  繰り返し願う心は、どこにも届かない。
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