さよならの鎖 (14)
四.鎖が結ぶ別れの時間

 浩介は自分の部屋の中にいた。
 しかしそわそわとして落ち着かずに、立ち上がっては座り、座っては立ち上がっている。
 まるで動物園の熊のように、部屋の中を左右にいったりきたりして、大きく息を吐き出
していた。
「どうして、こんなことになったんだろう」
 浩介は一人呟く。
 事件が起きた後、浩介は皆の流れに任されるままに家へと逃げ帰って。それから深く後
悔していた。
 どうして学校に残らなかったのか。どうして探そうとしなかったのか。
 浩介は、すでにテレビで街の中の惨状はわかっていた。ブラウン管の中では沢山の人間
があばれ狂っていたが、それは決して映画や漫画の世界ではなかった。
 人が追いつめられた時、どこまでおかしくなれるのか。それを心から知らしめられたよ
うな気がする。
 明日は理恵の誕生日だった。だから思い切ってこの気持ちを伝えようと願った。
 どうして今日にしなかったのだろう。
 伝えていれば、まだ少しでも気は晴れたのかもしれないのに。
 自分には勇気がないから。浩介はがっくりと肩を落として溜息をつく。
 いつもいつもそうだった。
 野球部のレギュラー試験の時だって、浩介は力を発揮しきる事はなかった。実力で言え
ば浩介の方が上だとしても、浩介は本番で力を出し切る事が出来ない。だから今も補欠の
位置に甘んじていた。
 それでも今までは、仕方がない。自分に力がないから仕方がない。そう思って大人しく
過ごしてきていた。
 理恵への気持ちだって、中学に入学して時々話すようになってから、ずっと変わっては
いなかった。
 二年になってクラス替えがあっても、たまたま同じクラスになって。チャンスはいくら
でもあったのに、それも逃してきていた。
 明日は理恵の誕生日だ。
 それを一つの機会にしよう。勇気を出そう。
 克己にせかされて、何度も迷ったあげくにそう決めた。その矢先の出来事だった。
 今日までに勇気を出していれば、簡単に伝えられた想い。
 だけどもはや明日、伝えられるとは限らない。永遠にその機会はこないかもしれないの
だ。
 すでに沢山の人が死んでいるようだった。幸い浩介の家は繁華街からは外れた方にある
から、この辺りはしんと静まり返っていて暴漢の姿はない。
 辺りの家も人がいるのかいないのかもわからないほどで、皆電気もつけず、じっとして
いる様子だった。
 浩介もこのままここで息をひそめていようかと思わなくも無い。いや、そうする事が一
番賢いのだと、浩介にもわかっている。
 克己ならどうするだろう。浩介は心の中で、何度も思い浮かべる。
 浩介の中で、克己は誰よりも輝いてみえる存在だった。
 克己は人数が少ないサッカー部とはいえ、背の低さというハンデを乗り越えて、一年の
時からレギュラーを獲得していた。何でもはっきりと自分の意見を告げる事が出来て、い
ざと言う時には頼りになる。
 自分とは全く違うと浩介は心の中で呟く。
 なかなか自分の考えを告げる事が出来なくて、何度も何度も克己に励まされて、やっと
決意する事が出来た。
 好きな人に好きというだけの事が、浩介にとっては山のように高いハードルで、何度も
告げようとして告げられずにいた。
 そして今も、告げられないまま時間は過ぎていこうとしている。
 克己ならどうするだろうか。もういちど克己の姿を思い浮かべた。
 浩介の中での克己は、いつも輝いていてまっすぐで強い。茜の名前を呼びながら、走り
出した克己の姿しか思い浮かばなかった。
 少しだけ軽い笑みがこぼれた。
 浩介はいつも否定していたけれど、克己と茜の二人が好きあっているのは誰の目にも明
らかで、克己もそう言われる事がまんざら嫌でもなさそうだった。ただ照れて否定してい
たに過ぎない。
 克己にも好きだと言う言葉は、簡単に口には出来ない台詞なのだろう。
 だけど、この状況になれば克己ならはっきりと告げるに決まっていた。これが最後かも
しれないのなら、浩介の中の克己は負けたりはしない。
「僕も……」
 浩介は手を握りしめて、それから強く目を閉じる。
 目の前が暗く変わって、少しだけ心に落ち着きが戻る。
 それから目を開いて窓の外を見つめていた。
 少し日が傾きだしている。もう今を逃したら時間はない。
「伝えたい」
 誰が聞いている訳でもなかったけれど呟いて、浩介は近くにあったバットを手にとる。
 武器としては心許なかったけれど、何もないよりは安心出来る。それに使い慣れた道具
だけに、浩介の心を落ち着かせてくれた。
 浩介はそのまま走り出していた。
 部屋のドアを開けて、階段を駆け下りる。そのまますぐに玄関で靴を履く。
「浩介!? どこにいくの? 外は危ないから。いっちゃだめ」
 その途端、居間から慌てた母親の声が聞こえていた。母親は飛び出してくると、浩介を
心配そうに見つめている。
 いつもと違って、母親はとても細くて弱々しく見えた。今の惨状に心が衰弱してしまっ
ているのだろう。目が沈んでしまっていて、疲れ切っている。
「母さん」
「どこにいくの。だめ。絶対だめよ。外は危ないわ。浩介なんてあっと言う間に殺されちゃ
うもの。絶対に家から出ちゃだめ」
 母親は浩介の手をとって、すがるように引き留めていた。
 その瞬間、浩介の胸の中が強く痛む。
 母が自分の事をどれだけ心配してくれているかは、浩介にもわかる。その母親を振り切っ
て飛び出していく事は、浩介には出来そうにもなかった。
 喉の奥で唾を飲み込む。
 今を逃したら、もう二度と伝える事は出来ないかもしれない。しかし浩介には母親を残
して行く事もためらわれた。
 結局、自分はここに残るしかないのだろうか。自分は気持ちを伝える事すら出来ない運
命なのだろうか。浩介は声には出さずに呟く。
 克己ならどうするだろうか。母親を振り切って伝えるだろうか。浩介には、それはわか
らない。克己にとっても好きな人も家族も、どちらも同じように大切な存在だと言う事だ
けは間違いないだろう。
 自分はどちらを選べばいいのだろうか。
 伝えたい想い。
 だけど理恵はそれを待っている訳ではない。それは自分勝手な感情に過ぎない。
 母親がここにいて欲しいと願っているのなら、ここにいるべきなのかもしれない。
「母さん」
 浩介は無意気のうちに、もういちど母を呼んでいた。
 母親は心配そうに浩介を見つめて、どこにもいっちゃだめだと何度も繰り返す。
 残るべきなのだろうか。浩介は心の中で呟く。
 ここに残れば誰にも迷惑をかける事はない。
 母親は心配せずにすんで、浩介も無事でいられる。そうすれば幸せでいられるはず。
「母さん」
 もういちど浩介は母を呼ぶ。
 もうここに残る方に心は傾いていた。それが誰にとってもいいのだと、自分自身を納得
させていた。
 そして立ち上がって、母親へと振り返った瞬間。
『本当にそれでいいのかよ』
 その声は浩介にだけ聞こえていた。
 克己が浩介の背中を叩いて、睨み付けている様子が浮かんでくる。
 克己はいつも浩介を励ましてくれた。勇気が出ない浩介を後押ししていた。
 いま聞こえてきたのが本当の克己の声ではない事は、浩介にもわかってはいる。
 だけどいつだって後ろを向いてしまう自分を振り返らせてくれたのは、克己の存在だっ
た。
 ここを飛び出せば、何が起きるかはわからない。テレビで見たように殺されてしまうの
かもしれない。
 それでも今を逃したら、もう一生勇気を振り絞る事は出来ないだろう。
 浩介は母親に微笑みかける。いや微笑みかけたつもりだった。
 本当に笑えていたのかどうか、自分ではわからない。それでも笑顔を見せようと努力し
ていた。
「母さん。僕はいかないといけないんだ。好きな、人がいる。でも今まで勇気が出せなく
て、言えなくて。だけど今言わなければ、きっと一生言えないから」
 浩介は母親の目をまっすぐに見つめて、それから頷いて振り返る。
「浩介……」
 背中から母親の声が聞こえていた。
 何と言っていいのかわからないのだろう。
「ごめん。母さん。でも、必ず戻ってくるから」
 母親がまだ迷っているうちに、浩介は靴をはいて玄関のドアを開く。
 行けば後悔する事になるかもしれなかった。しかしいま行かなければ、浩介はきっと悔
やむことになる。どちらを選んでも同じように思うのならば、せめて自分の想いを無かっ
た事にしたくない。
「浩介っ、いっちゃだめ。浩介ぇっ」
 背中から母親が呼ぶ声が聞こえてくる。
 浩介はその声を手で遮って、そのまま駆け出していた。
 ごめん、母さん。心の中で呟く。
 どこかで後ろ髪を引かれる気持ちを感じながら、浩介はただ走り続けた。
 手にしたバットが少し重たく感じた。
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