さよならの鎖 (13)
 理恵が心配そうな顔で、克己と英司とを見つめている。
「佐藤くん、森田くん。落ち着いて、ね」
 ぼそりと呟くような声だった。普段であれば聞き逃したかもしれないくらいの声量だっ
たけれど、今ははっきりと聞き取れていた。
 しかし克己は何も答える事が出来なかった。
 英司の言う事は正しい。反論する術は何もなかった。
 克己だって死にたくはない。そして死にたくないなら寛二を見捨てるしかなかった。
 いま寛二のそばによる事が出来ないのは、そうとしか言いようがなかった。
 その寛二は、しばらくの間、呆然として口を開いたままで、意識を遠くに飛ばしている
ように見えた。
 寛二も自分がウィルスに感染していただなんて考えもしていなかったのだろう。誰だっ
て自分が死ぬなんて事は考えたくもない。少なくとも克己は、死は意識の外に置いてきて
いた。だから寛二も考えてはいないだろう。克己はそう思っていた。
 しかし寛二は不意に目を閉じて、それから小さな声で笑う。
「あはは、やっぱり、そっか。そんな、そんな気はしてたん、だ。俺さ、ほら。いつもつ
いて、ないから」
 寛二はぼそぼそとしたした、力ない声だったけれど、それでもきちんと皆の目をみなが
ら話し始めていた。
「ずっと、そうじゃないかって、疑っていたんだ。克己、ありがと。俺、嬉しかった、よ。
克己が、助けようとしてくれた、こと。でもさ、俺の、為に、克己が死んだりしたら、泣
く奴が、いると、思うんだよ。だから、俺、平気だよ。でもさ、ちょっと、体がだるい、
から。保健室で、眠ってくる、よ」
 寛二はあははともう一度、か細い声で笑っていた。
 そしてふらつきながらも何とか立ち上がる。
 そのまま皆に背を向けて、何度か机に手をつきながらも、廊下へと歩いていく。
 ゆっくりと、それでもなんとか教室の外へと向かう寛二は、とても大きく思えた。
 もちろんそれは目の錯覚に過ぎない。
 だけど克己は自分よりもずっと気が小さくて、恐がりで、お調子者だった寛二の方が、
本当の強さを持っている事に気が付いていた。
 寛二はドアの前まで近付くと、一瞬だけ振り返った。
 克己は何も出来なかった。
 止める事も、寄り添う事も。
 ただ寛二を見ている事しか出来なかった。
 寛二の目は、何かを克己へと訴えかけている。だけど、それが何を告げようとしていた
のか、克己にはわからない。
 ただ心の中が空っぽに変わって、呼吸する事さえ難しく感じていた。
 喉の奥が焼け付くように熱くて、目に激しく痛みを覚える。
 声をかけようと思っても、何も言葉が見つからなかった。自分に何を言う事が出来るの
か、克己にはわからなかった。
 寛二は何も言わずに、そのまま教室を後にしていた。
 しばらくは廊下をひた歩く音だけが聞こえてくる。
 少し進んでは立ち止まって。ゆらめく音が聞こえて。
 だけど段々とその音も聞こえなくなって。
 もう聞こえるか聞こえないかの寸前まで小さく変わったと同時に。
『うわぁぁぁぁっ』
 叫びが聞こえてきていた。
 小さくて、聞き取るのにも苦労するほどの声だったけれど、確かに寛二が泣いていた。
声は遠いけれど、はっきりとわかった。
 克己は両手で頭を抑えて、思い切り掻きむしる。
 叫びだしたかった。
 だけど声には出せなかった。
 ここで声を漏らしたら、寛二に聞こえてしまうかもしれない。
 寛二は自分からここを去った。そして誰も追わなかった。
 なのに寛二をこれ以上に追いつめるような真似は、誰にも出来るはずがなかった。
『死にたくない。まだ死にたくないよぅ』
 寛二の声は微かだけど聞こえてくる。
 寛二は自分が死んでしまう事を、無理矢理知らしめせれてしまった。そしてここを去る
事を選ばざるを得なかった。
 それでも寛二は誰に言われるでもなく、自分の意志ですべき道を選んだ。
 それなのに克己がした事は、ただ寛二を追いつめただけなのかもしれない。結局こうな
るのなら、初めから素直に英司の言葉に従っていれば、寛二にも辛い思いをさせなくて済
んだのかもしれない。
 克己は心の中で、何度も何度も問いかける。
 自分がどんなに愚かなのか、思い知らされたような気がしていた。
 寛二を助けようとした事は、ただの偽善に過ぎなかった。死ぬと認識してしまえば、も
う手を出す事はできない。その程度の思いに過ぎないのなら、何もしない方がまだマシだっ
た。
 克己は自分自身に吐き気すら感じていた。
 仲間を守りたい。
 そう願った事は所詮は独りよがりの思い込みに過ぎなくて、そんな力は一つも持ってい
なかった事を思い知らされていた。
 それなら何もしない事を初めから決めていた英司の方が、ずっと考えが先に至っていた。
 感染している事を認めて、自分から離れていった寛二は、誰よりも強さを秘めていた。
もしも寛二がここで暴れ出したら、ここにいる皆が感染した事だって考えられる。寛二は
それを選ぶ事だって出来た。しかしそうせずに、一人で死ぬ事を選んでいた。
 寛二は誰よりも強かった。
 あるいは優を救うためだけに、他の全てを犠牲にしてでも飛び出した隆史の方が、わか
りやすい決意を備えていた。
 理想しか語れなくて、その理想すら貫き通せなくて、克己は自分が弱い人間に過ぎなかっ
た事に気が付いて、涙がこぼれそうになる。
 それでも泣く訳にはいかなかった。ここで泣いたら、本当にただ弱いだけの人間になっ
てしまう。
 克己は涙を奥へと押し込んで、英司へと顔を向けていた。
「……すまなかった」
 頭を下げて、振り絞るようにして呟く。
 英司は克己の突然の変貌に驚いたのか、どう反応したらいいかもわからないようだった。
「お前のいってる事は正しい。俺だって、まだ死にたくない」
 克己はただ本音をぶつけていた。
 自分に残された答えは、もうそれだけしかない。
「結局、俺は何も出来なかった。俺は寛二を傷つける事しか出来なかった」
 克己は崩れそうな顔を、なんとか抑えて、自分の勝手さを噛み締めながら、それでも英
司にすがるしかなかった。
「俺はお前ほど頭が良くないし、いろいろなものが見えていない。だから、もしもわかる
なら教えてくれ。俺は、寛二を傷つけた。けど、それでも寛二を救いたい。寛二の泣いて
いる声は聞きたくない。だから、どうしたら寛二を助けられる。どうしたらいい。教えて
くれ、英司」
 自分が言っている事が、ただ甘いだけの台詞だと克己は痛いほど理解していた。
 それでもそう言わずにはいられなかった。
 寛二を助けたいという気持ちはある。でもそれ以上に、寛二が泣いている声を聞きたく
ないという理由の方が強いのかもしれない。結局は自分の為にそうしたいと願っているの
かもしれない。
 でも克己は、寛二を救いたいと思った。その気持ちは嘘ではなかった。
 それを言葉にせずにはいられなかった。
 英司は一瞬だけ困惑した顔を浮かべて、だけどゆっくりと首を振るう。
「無理ですよ。僕達はただの中学生なんです。何も出来る事はありません」
 英司の言葉は、少しだけ優しさを含んでいるようにも思えた。嫌みな英司ですら、思わ
ず優しい声で告げてしまう。それほど自分の顔が歪んでいたのだろうかと、克己は心の中
で思う。
「克己、思い詰めないで。克己は私を守ってくれたじゃない。瀬川くんの事は仕方ないよ。
私達じゃどうしようもないんだし。ウィルスに感染した人を救うなんて事は、お医者さま
か、そうじゃなかったらテロリスト本人でもなきゃ出来から」
 茜が静かな声で克己へと語り始める。
 恐らくはなぐさめのつもりで言ったのだろう。心配そうに克己の顔を覗き込んでいた。
 しかし克己にはその声は届いていなかった。
 いや正確には『医者かテロリスト本人でもなければ救えない』。その部分だけが何度も
何度も繰り返して聞こえていた。
 克己はゆっくりと呟く。
「わかった」
 その声と同時に、目をつむる。
 茜や理恵の声が少しだけ聞こえていたが、それは意識の外へと追いやっていく。
 自分に出来るだろうか。それだけを問い返した。
 医者かテロリストでもなければ救う事は出来ない。茜の告げた台詞。
 医者ならば病気を治せる。それは自然な考えだった。本当に可能かどうかは別にしても、
ウィルスによる感染、つまり病気と医者の関係は誰でもがわかる。
 しかしテロリストが病気を治せるという発想は、普通に考えればおかしい。
 もちろんテロリストがこのウィルスを散布したのだから関係性はある。だが冷静に考え
れば、だからと言って治せるとは限らない。テロリストはウィルスを散布して街の住民が
死に絶えても、恐らくは困りはしない。だから治せる方法を知っているとは限らない。
 けれどこのウィルスは接触でのみ感染するウィルスだ。電波ジャックしたテレビ放送の
ように直接肌に塗りでもすれば、感染させる事が出来るかもしれない。しかしまさかそれ
だけの方法でこの街の人間の多くを感染させる事は出来ないだろう。
 ならば誰かが実際に触れなくてはならない。
 誰が。
 すなわちテロリスト本人が。
 しかしテロリスト本人も、そのままでは死んでしまう。それでは目的を果たせないはず
だった。
 ならテロリストは適度にウィルスを広めたあと、自分を治癒する必要があった。
 だからテロリスト本人は、病気を治す事が出来る。つまり恐らくはウィルスを退治する
ワクチンを持っているはずだった。
 だからテロリストを捕まえればいい。
 そうすれば寛二は助かる。
 克己はそこまで考えて、微かに自嘲気味に笑う。
 もちろんそう簡単にいくはずはない。ここまでの事を起こすテロリストに、ただの中学
生である克己が勝てるはずもなかった。
 冷静に考えれば馬鹿としか言い様がない事も、克己にはわかっている。
 それでも可能性があるのなら、賭けてみたい。寛二を助けたい。確かに克己はそう考え
ていた。
 寛二のあんな悲しそうな顔を、放って置く事は出来なかった。誰にも死んで欲しくはな
かった。
 英司の顔をみつめて、それから茜と理恵にも視線を移す。
 そしてゆっくりと答えを聞かせていた。
「俺は、テロリストを捕まえる」
 自分は馬鹿だと、克己は思った。
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