さよならの鎖 (11)
 克己はテレビのスイッチを消して、寛二と英司の方へと向き直る。
 寛二はかなり憔悴しきった様子で、がたがたと震えていた。英司にしても寛二ほど怯え
てはいないものの、落胆の色は隠せない。
「これからどうする」
 克己は思わず二人へと訊ねかけていた。
 克己には今どうしたらいいのかはわからない。だから二人に訊ねても答えなんて帰って
こないだろうとは思いつつも、そうせずにはいられなかった。
「ど、どうしよう。どうしたらいい。ねぇ、隆史、森田。どうしよう」
 案の定、寛二はただ慌てているだけで、建設的な意見は何も返さない。ただ克己にして
も心境は同じだ。だから寛二を責めるという事は出来ないし、したくもない。
 英司へと視線を向ける。
 克己は期待していなかったのだが、しかし英司はぽつりと呟くように話し始めていた。
「どうするべきかと言うなら、ここを動くべきではないと思います」

「そんなっ、こんなところにいて、テレビに映ったような暴漢がきたら、もうどこにも逃
げらんないよ」
 寛二は泣きそうな顔で抗議の声を上げる。
「ならどうしますか。どこかに逃げますか。それこそ移動している最中に暴漢と出会う危
険性は高くなります。しかし学校の中なら暴漢がきても、隠れるところはいくらでもあり
ますし、うまくやり過ごせば逃げ出す事も出来るでしょう。ですから、ここにいるべきだ
と思います」
 英司は呟いて、それから克己へと目線を向ける。克己の答えを促しているのだろう。
 克己は自分の心の中に問いかけていた。
 それはどうするべきかよりも、どうしたいかと。自分がしたい事はいったい何なのか。
それがわかってさえいれば、自然に答えは出るような気がする。
 隆史はここから飛び出していった。
 隆史は普段であれば、友達をもっとも大事にする人間だ。だからこそ江崎に裏切られた
事を怒りもしたし、英司の言葉に憤りもしたのだろう。
 だけど隆史は、克己達と共にいる事を選ばなかった。
 迫っている危機に一番に考えたのは、優の事だったのだろう。だからここにいない彼女
を案じて、優を探しに行った。それがもっとも大切に思えたのだろう。
 そんな隆史を、克己は羨ましくすら思っても、恨んだり怒ったりしようとは思わない。
ただ自分は思うままに振るまえずにいた事を、悔しく感じただけで。
 どうしたいのか。
 自分の中で問い合わせる。
 その時に浮かんできたのは、たった一つの顔。自分でも意外なほどに、それ以外の何も
考えられなかった。
 茜の事だけが頭の中に残る。茜に会いたい。それだけを感じていた。
 克己はそれでも二人を残して飛び出す事は出来なかった。
 あるいは克己自身、英司や寛二と離れる事を恐れているのかもしれない。克己は二人と
離れる事が出来ないのは、寛二が克己を頼りにしているからだと思った。
 しかしそれは言い訳に過ぎなくて、自分自身が離れ、独りになる事に踏み込めずにいる
のかもしれない。
 克己は自分の心が分からずにいた。それでも答えは出さずにはいられなくて、ゆっくり
と口を開こうとしたその瞬間。
『何するのっ。やめて』
 不意にどこかから大きな声が響いていた。
「いまの声、誰」
 寛二はおろおろと辺りを見回すが、教室の中から外に出ようとはしない。その声が誰の
ものか、なぜ伝わったのかもわからないからもあるだろう。
 しかし克己にはその声の主が誰なのか、考えずともわかっていたし、声を聞いた瞬間に
はもう走り出していた。
 声は奥の方から聞こえてきていた。そちらには学校の図書室がある。恐らくはそこから
発せられたものだと思う。
「あっ、克己。待ってよ。置いていかないで」
 その後で寛二が声を掛けてきていたが、克己は振り返りもせずに一直線に向かっていた。
 図書室の扉を開く。
 バンッ、と激しくドアが音を立てていた。
 図書室の本棚の陰に隠れるようにして、理恵が縮こまっていた。その理恵を庇うように
して、茜が立ちふさがっている。
 そしてその二人の目の前に、制服姿の少年が一人、理恵と茜の二人へと迫っていた。
 だが扉が開いた音に驚いたのか、少年が振り返る。
 その顔には克己に見覚えがあった。かつてのクラスメイトである竹内だ。どちらかとい
うと大人しくて、あまり目立たない少年だった竹内とは、克己は殆ど交流がなかった。
 しかし大人しいだけに、女の子を無理矢理襲うようなタイプにも思えなかったのだが。
「お前、竹内か。何をしてる。茜、赤石さんっ。大丈夫かっ」
 声を荒げながら克己は、二人へと駆け寄っていた。
「さ、佐藤くん? 僕は」
 竹内は小さな声で呟いていた。驚きのあまりか、表情を完全に引きつらせて、どこか今
にも爆発しそうなほどに、何かを抑え込んでいるように思えた。
 竹内はそのまま唇を噛み締めて、懐に手をいれる。
 だが克己は気にもせずに竹内へと近付いていき、もう少しで手が届く位置につくところ
まで迫った。しかしその瞬間、竹内が懐から手を取り出したかと思うと、そこには抜き身
のナイフが握られていた。
「きゃぁ」
 理恵が思わず悲鳴を漏らす。茜も目を開いて驚いている。
「竹内っ」
 克己自身も、この大人しい少年の突然の振る舞いに、驚きを隠せず少年の名前を呼ぶ。
 いわゆるバタフライナイフと言う奴だろう。普段は刃の部分は収納されているが、ボタ
ン一つで飛び出してくる携帯用のナイフだ。それほど大きなものではないが、人を殺すに
は十分な力を持っている。実際このナイフを使って起きた事件も少なくはない。
 克己は本当ならば、今すぐにでも竹内を取り押さえたいと思う。茜や理恵に危害を加え
られるだなんて事は、想像もしたくない。
 しかし非力な少年の手にあっても、ナイフは十分過ぎるほどの驚異だ。そう簡単に手を
出す訳にもいかなかった。下手に刺激して暴れられる訳にもいかないからだ。
 竹内はナイフを克己へと向けながら、怯えた様子で克己の顔を見つめていた。
「佐藤くん、近付かないで。安心して、僕は何もしないから。誰かを傷つけようだなんて
思ってもいない。僕は……ただ」
 竹内は呟いて茜の方へと向き直る。
 ナイフの刃がきらりと光った。茜をまっすぐに見つめて、それから微かに顔を落とした。
 竹内を急激に包んだ不穏な雰囲気が少しずつ落ちついていく。ただそれはどこか諦めと、
むなしさを含んだような、すぐにでも揺らめきそうな不安定な空気を伴っていて、克己は
息を飲み込んでいた。
 竹内は茜を見つめたまま、ほそぼそとした声で呟くように告げていた。
「西野さんが、好きだったんだ。だから近くにいたかった。出来るなら一度でいいから触
れたかった。それだけなんだ」
「え。私、を」
 茜が驚きのあまり目を開いている。
 全く想像もしていなかっただろう台詞に、少し動転しているようにも思えた。いつもの
人形のような表情は、今はどこにもない。
「赤石さんを狙っているんだと思ってた。赤石さんの方が可愛いし、女の子らしいし」
 茜は背にした理恵の方へと振り返って、それから困惑したように克己へと向き直った。
茜は何かを訴えるかのような視線を、克己へと投げかけている。
 克己はどうしたらいいものかわからなかったが、とにかく竹内をこのまま放っておく訳
にはいかない。竹内の方へと向き直る。
「佐藤くん。動かないで。動いたら、僕は傷つけてしまうかもしれない。僕はただ西野さ
んに一度でいいから触れてみたいだけなんだ。西野さんを抱きしめたい。それだけなんだ。
いや、手をつなぐだけでもいい。それだけで十分なんだ。それ以上には何もしない。だか
らそこから動かないで欲しい」
 竹内は呟いて、それからもういちど茜へと振り返った。
 その手にナイフを構えたまま、ゆっくりと茜へと手を伸ばす。伸ばそうとする。
 同時に克己は叫んでいた。
「やめろ。竹内、お前、この状況を分かってそう言っているのか。触れたら死ぬかもしれ
ないんだぞ。それなのに茜に触れたい。茜を殺す事になるかもしれないんだぞ。それをわ
かっていってるのかよ」
 克己の怒鳴るような声に、竹内はびくんと肩を大きく震わせる。
 恐る恐ると言った様子で克己へと顔を向けると、泣いているような笑っているような不
思議な表情を浮かべていた。
「わかっているよ。相手を殺すかもしれない。それはつまり僕も死ぬかもしれない。もう
死んでしまうかもしれないんだ。一度も好きな人とまともに話す事もなく、触れる事もな
く、死ぬかもしれない。だから、最後にほんの少し触れたいって、そう思って何が悪いん
だ。僕が触れたからって、西野さんが死ぬとは限らないじゃないか。いや、僕はまだぴん
ぴんしている。死ぬとは限らない。だったら平気なはずだ。そうに違いない。そうだ。だ
から、いいじゃないか。僕は悪くない。ほんのすこし願いを叶えて貰いたい、それだけな
んだ。それの何が悪い」
 竹内は急に言葉を強めて、克己へと完全に向き直る。そして竹内はそのまま克己へと走
り出していた。
「克己っ」
 茜が竹内の向こう側から声を張り上げる。理恵はどうしたらいいのかもわからずに、口
元を抑えていた。
 二人とも克己へと降りかかろうとしている急激な感情を案じて、しかし何も出来ずにい
たのだろう。
「佐藤くんは、恵まれているから。何も出来ない、僕みたいな奴の気持ちなんてわからな
いんだ」
 竹内はナイフを大きく振り上げて、克己へと向けようとする。
 しかし克己は慌てる様子もなく、本棚を思い切り蹴り飛ばした。
 本棚が大きく揺れ、高いところに収納されている本のいくらが、竹内の上に降りかかる。
「うわっ」
 急な事に竹内は対応出来ず、一瞬反応が遅れていた。もともと竹内は運動も得意な方で
はない。決して反射神経がいい方でもなかった。
 克己はそのまま逆に飛びかかると、まずナイフのもった腕を押さえ力を入れる。
 竹内はあっけなくナイフをおとすと、からんと小さな音が床から発せられていた。
 本当に一瞬の事だった。
 あっという間に克己は竹内を抑えつけて、小さな暴動は収まっていた。
 ただ一歩間違えれば、あるいは遅れれば、克己か茜が犠牲になっていたのかもしれない。
克己はほっと息をなで下ろす。
「克己、平気?」
「佐藤くん……だ、大丈夫?」
 茜と理恵が近付いてきて、心配そうに見つめていた。
「ああ。それより、茜。そこに転がっているナイフをどこかにやってくれ」
「あ、うん。わかった」
 克己の言葉に、茜は少し考えてナイフを拾い上げていた。開いていた刃をたたむと、パ
チンという小気味の良い音が響く。
 克己は竹内を抑えつけていたが、しかし抵抗する力は感じられなかった。その代わりに
竹内は、注意してないと聞き取れないくらいの小さな声で呟いている。
 その声があまりにも痛々しくて、克己はどこかむなしさを感じずにはいられなかった。
「ちくしょう……ちくしょう……ちくしょう……。こんなことにさえならなければ、僕は
想っているだけでよかったのに。こんな事件さえなきゃ、こんな風に思い詰める事もなかっ
たのに。なんで、なんで。なんで僕は好きな人の傍にいるだけのこともできないんだ……。
なんで」
 竹内の台詞は、あるいは自分勝手なものかもしれないかった。いくら時間が迫って死ぬ
かもしれないからといって、他の人間を巻き込むなんて事が許されるはずはない。
 だけど克己がもしも自分が彼の立場だったとしたら、今と同じように冷静にいられたか
どうかはわからない。克己が恵まれているというのは、ある意味では正しいだろう。克己
が茜とこうして話していられるのは、幼なじみだからかもしれない。
 とった行動は間違えた方向ではあるけれど、あるいは彼にとって死ぬ前に勇気を振り絞っ
た結果だったのかもしれなかった。
 そもそも茜と理恵にしても、初めに声を上げたのは勘違いだったように思える。茜は竹
内が理恵に襲いかかろうとしたように思ったようだったが、竹内にはそんなつもりはない
ようだった。もしかしたら茜と少し話したかっただけなのかもしれない。
 しかし叫び声を上げられて、そこに克己が現れて責めたてられた。本来は大人しい性格
の竹内だけに、もしかすると追い込んでしまったのは自分達だったのかもしれない。そう
思うと、少しは同情心がわかなくもなかった。
 それでも克己は竹内が茜の前にいたとき、もう何も考えられなかった。竹内をどうやっ
たら茜から離せるか、その事だけしか考えていなかった。
「竹内、お前の言いたい事もわかる。テロさえなきゃ、お前だってこんな事はしなかった
かもしれない。それでも、やっていいことと悪い事があるんだ。いや」
 克己は少しだけ間をおいて、首を振るう。
「好きなら、守らなきゃいけないんだ。本当に好きなら、大切に思うなら守らなきゃいけ
ないんだよ。だから俺は茜を守る。だからお前には触れさせない」
 はっきりと告げた克己の言葉に、竹内は声もなく泣き出していた。
 時折混ざる嗚咽に、克己は手の力を抜いた。
 もう竹内には気力も残っていないだろう。もともと竹内も、一時的な思い込みに任せて
行動していただけだ。それを遮られたのだから、もう何も出来ないと思われた。
 実際、竹内は克己が力を抜いても起きあがろうとすらしなかった。一人、その場に崩れ
落ちたままで、小さな泣き声を漏らしている。
 克己は立ち上がって、茜と理恵へと向き直る。
「いこう」
「うんっ。克己」
 茜は大きく頷くと、どことなくにこやかな顔で図書室から出て行く。
 その様子をみて、克己は少し顔が熱くなってきたような気がしていた。思わずとは言え、
半ば告白まがいの事を言ってしまったのも事実だ。
「……赤石さんも、いこう」
 顔を赤らめたまま、克己は理恵へと先を促す。
 しかし理恵は少しだけ俯かせて、その場を動こうとはしない。
「赤石さん?」
 もう一度彼女の名前を呼ぶ。
 理恵もどちらかといえば大人しい女の子だ。あまりの急な事に、どうしていいものかわ
からないでいるのかもしれない。
「赤石さん。どうしたの、怖かった?」
 茜も理恵へと声をかける。
「う……ん」
 理恵はなんとか頷くと、顔をあげて克己へと視線を向けていた。
 その瞳がどこか寂しそうに見えて、思わず息が詰まる。
 しかし理恵はすぐにまた顔を俯けて、茜の後を追うように走り出していく。
 なぜか胸の中が締め付けられるように、痛みを感じていた。
 喉の奥にたまったつばを飲み込んで、それから大きく息を吸い込む。
 まだ倒れたまま泣いている竹内を見やって、ぎゅっと目をつむった。
 守らなくてはいけない。守りたいと思う。克己は心の中で呟いて、二人が行った方向を
見つめる。
 克己は茜を守りたいと思った。しかし同時に理恵にも傷ついて欲しくないとも思った。
 いや、それどころか本当は竹内すらも傷つけたくなかった。
 出来るなら争う事はしたくない。それでも戦わざるを得ないなら戦う。克己は今はそう
考えている。
 けどもし誰か一人を選ばなくてはいけなくなった時、自分はどうするのだろう。克己は
自分の中に問い合わせる。
 茜を守るのだろうか。それとも、何も出来ないでいるのだろうか。
 まだ竹内の嗚咽は聞こえている。彼がこれ以上、何か危害を与えてくる事はないだろう。
だけどテレビに映った暴漢のような人間が、あるいはテロリスト達が目の前に現れた時に、
自分はどうしたらいいのだろう。
 克己は喉の奥に乾きを感じて、はりつくような痛みが覚えていた。
 胸の中のどこかで不安を感じながら、克己は図書室を後にしていく。
 扉の向こうで茜と理恵が待っていた。それから寛二と英司の二人も、心配そうに克己を
見つめていた。
「遅いよ、克己」
 茜はにこやかな顔で微笑みかけてきていた。
 それが嬉しくて、だけどどこか締め付けられるような気がしていた。
 克己はそれでも「ごめん」と小さな声で答えると、それから二秒だけ目をつむる。
 もういちど開いた時、克己からほんの少しだけ迷いが薄れていた。
 目の前に仲間がいる。
 その仲間を守りたい。茜だから、寛二だからではなくて。仲間全員を守りたい。
 それは甘い考えなのかもしれなかったけれど、自分自身がそう思うのだから、それでい
いんだ。克己は声には出さずに呟いて、皆を見回していた。
「行こう」
 克己は一人呟いて歩き出した。
 皆もその後に続いていた。
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