さよならの鎖 (10)
 入学したての頃の昼休み。茜は学校の裏庭を一人で歩いていた。
 まだ入学したてだからという事もあるが、茜はどうしてもクラスに馴染めずにいた。
 他の女の子達のように芸能人やドラマやマンガの話では盛り上がれなかったし、特に趣
味が合う相手もいない。
 幼なじみの克己ともあいにくクラスが違う。小学生の時に親しかった友達は、私立の学
校にいってしまったから、他に特別に仲の良い相手もいなかった。
「なんだか、つまんないな」
 声に出して呟く。
 茜にとって学校は楽しいところではなかった。
 学校の授業もあまり興味をもてなかったし、友達関係もなかなか仲良くなれなかった。
 茜は普段の雰囲気が無表情で人形のような姿なだけに、誤解される事も多い。茜の顔が
整っているのも、表情がない分、むしろ嫌われる一因となっていた。可愛さを鼻にかけて、
気取っている女とでも思われているのだろう。
 茜もあえて誤解を解こうとまでは思わなかった。仲良く出来るならそれに越した事はな
かったけれど、本当に親しくなれるまではなかなか思った表情が浮かばない。
 だから話しかければ話しかけるほど、誤解が深まる事の方が多く、クラスでは浮いた存
在のままで、いつも孤立していた。茜は見た目も目立つだけに、好奇の視線を浴びる事も
少なくない。だけど話す相手はいなくて、余計に輪の外にある事を感じさせた。
 だから昼休みも教室の中には残らず、一人で裏庭にいる事の方が多かった。もっともそ
れがさらに茜を孤立させていたのだが。
 それでも裏庭は少しは落ち着いた。静かで人がいない。誰も茜を興味本位で眺めたりも
しない。茜にとっては、学校の中で唯一落ち着ける場所だと言えた。
「克己はどうしてるんだろ」
 幼なじみの名前を呟いて、それから少しだけ寂しくなった。
 克己はあまり人見知りをするタイプではない。恐らくはクラスでもすぐに友達を作った
だろうし、最近少し疎遠になっていることもその事を証明していた。
「午後の授業は、このままさぼっちゃおうかな」
 もういちど呟いて、それから溜息を一つこぼした。
 何もかもがつまらなくて、やる気になれなかった。自分にとって克己の存在がどれだけ
頼りになっていたのか、こうして離れてみてはっきりと実感出来た。
 克己がいてくれれば、克己の友達とも話す事が出来る。克己と話す時なら茜も自然に笑
えるから、次第に克己の友達とも話せるようになっていく。
 この時はまだ出会ってはいなかったが、茜と優がかなり仲良しでいられたのも克己を交
いして知り合ったのと、優の物怖じしない性格とがあったからだろう。
 克己に会いたい。
 強く思った。しかし克己に会いにいく事もためらわれた。
 別のクラスからわざわざ会いにくる幼なじみなんていう存在は、この年頃の少年少女に
とってみれば気になる対象だろう。
 茜と克己は特に付き合っている訳でもないけれど、変な誤解を与えてしまうかもしれな
い。それは克己にとって、困らせる事になってしまうかもしれなかった。
 そういった事は出来れば避けたい。だけど会いたくて会いたくてたまらなかった。
 こうして離れてみて初めて、茜は克己の事を好きなんだとと認識していた。
 仲の良い幼なじみとしてだけではなく、一緒にいて欲しい相手なのだと、やっと気が付
いていた。
 だけどその言葉も言う事は出来なかった。
 克己はまだまだ幼いところを残している。好きだなんて言えば、絶対に驚かれて意識さ
せてしまうだろう。そうすれば、さらに疎遠になってしまうかもしれない。
 だから今は言えない。
 せめてもう少し何かきっかけがない限りは。
 大きく溜息をつく。
 しかしその瞬間だった。
「あの。やめて……ください」
 茜のいる裏庭はすぐ体育館の裏ともつながっている。その体育館の裏から、声は漏れて
きていた。
 か細い声は女の子のものだろう。怯えた声は震えを感じさせるようだった。
「ああ、やめてだと。それじゃ、お前が汚したこの服の落とし前は誰がつけてくれるんだ
よ。やめてほしけりゃ今すぐクリーニング代三万もってこいや」
 すぐに粗暴な男の声が響いてくる。恐らく誰かが不良に絡まれているのだろう。いつに
なってもこの手の奴らはいなくならないようだ。
 茜は体育館裏をのぞき込むと、そこにはかなり大きな図体をした男が、大人しそうな女
の子に絡んでいた。体の大きさからしても、恐らくは上級生だろう。
 茜は少しだけ考えて、しかしすぐに彼らの方に近づいていく。
「やめなさいよね。そういうのは。大きな体をしているくせにやることは小さいのね」
 はっきりと聞こえるように告げると、男は驚いたように茜の方へと振り向く。
 さすがにかつあげなんて事をしようとしている男だけに、目つきも悪い。さすがに茜も
いくらか恐れを感じてしまう。
 しかし目の前で起きているのに見なかった事にするのは、自分に嘘をつくようで嫌だっ
た。
 震えている体を何とか抑えながら、目の前の男をじっと睨み付ける。
「ああ。何のつもりだ。お前が代わりに金払ってくれるとでもいうのかよ」
 男が下卑た笑みを浮かべると、それからゆっくりと茜の方へと近寄ってくる。
 再び体が震えた。
 上級生だけあって体も大きいし、ただでさえ男の方が力も強い。その男に殴ったり蹴ら
れたりするかもしれない。目の前の男はフェミニストとはほど遠い顔つきだった。女の子
だからといって容赦しそうにもない。
「絶対イヤ」
 それでも茜はあらん限りの声を上げると、そのまま目の前の男へと蹴りつけていた。
 あまりに突然の事に、男も対応出来なかったようだ。まともにすねに受けると、慌てて
しゃがみこむ。
「いてぇっ」
 声を漏らした男の事なんて無視して、そのまま女の子の方へと駆け抜ける。
 すぐに彼女の手をひいて、それから一緒に走り出す。
「逃げよう」
 茜はそう告げて、そのまま逃げ出そうとする。
 しかし男から逆の手を乱暴にひっぱられていた。
「やっ」
 短く声を漏らして、茜の体が地面へと滑り落ちる。
 すぐに男の声が頭上から投げかけられた。
「てめぇ。よくもやりやがったな」
 男は怒りに震えながら、茜へと睨み付けている。
「や、やめてください」
 女の子が何とか声を漏らしていた。
 しかしもちろんそれで男がやめるはずもない。
「……女の子に暴力振るうしか出来ない男なんて、サイテーなんだから」
 茜は強がりながらも告げると、何とか体を起こそうとする。
 だがそれよりも早く、男は茜の髪をつかみ上げていた。
「やっ。いたい……いたいよ」
「いいかげんにしておけよ。ぶっ殺されたいのか」
 男は完全に怒りに震えた表情で、茜を睨み付けていた。
 怖い。やだ。何で私がこんな目にあわなきゃいけないの。
 声もなく呟く。それは茜の素直な気持ちだ。
 それでも茜は助けなきゃ良かったとは思いたくなかった。隣にいる女の子を助けたい。
変わらずにそう思えた。
 それは損な生き方かもしれないけれど、自分が本当にしたいことをしていきたい。茜は
いつもそう思っていたから、曲げる事はしない。
「やめて、やめてください。お金なら払いますから、だからやめてください」
 隣で女の子がおどおどとして告げる。
 男の方へとすがるようにして触れるが、男は彼女を激しい形相で睨み付けていた。
「邪魔だ。どけっ」
 男が女の子を振り払うと、女の子は小さく悲鳴を上げて尻餅をつく。
 それをみた瞬間、思わずかっとなって茜は立ち上がり男へと体ごとぶつけていた。
 意表をつかれたのか、男はそのまま後ろへと倒れる。
 しかし同時にぶちぶちっと髪の毛が抜ける音が響いた。激しい痛みが体中に走る。
 それでも茜は立ち上がると、痛みをこらえるようにぎゅっと目をつぶる。
 だけどすぐに目を開いて、女の子の方へと視線を向けていた。
「君は逃げて」
 少女に向けて告げると、すぐに男へと向き直る。
 これくらいで男が諦めるとも思えなかった。二人で逃げれば、恐らくさっきと同じよう
に捕まれてしまうだろう。
「でもっ、それじゃあなたが」
「いいから。そして誰か助けを呼んできて」
 言いよどむ少女に茜は鋭い声で言い放つと、やっと彼女も頷いて駆けだす。
「てめぇ。まちやがれ」
 男が叫んで少女を追いかけようとするが、その前に茜は立ちふさがる。
「どけ」
 男が手を振り上げた瞬間、茜はもういちど強く目をつむっていた。
 殴られる。そう思い、すぐにくるだろう痛みに耐えるように身を固める。
 しかし襲ってくるはずの衝撃は、いつまで経っても感じる事はなかった。
 おそるおそる目を開ける。
「何をやっている。こんなことをするのは男らしくないぞ」
 聞こえてきた声は、近藤先生のものだった。
 いつのまにか茜の前に立っていて、男の手を押さえている。
「くそっ。離せっ、離せよ」
 男はわめき散らすが、先生は武術か何かを習っているのだろう。ひねられた手で完全に
体を押さえ込まれて、男はろくに身動きが出来ないでいた。
「お前、三年の新田か。受験勉強のストレスでもあるのかもしれないが、お前のした事は
許される事じゃないぞ。言い訳があるなら生徒指導室ででも聞かせてもらおうか」
 近藤先生が鋭い眼光と共に告げると、男も次第に大人しくなっていく。先生には力で敵
わない事が分かったからか、あるいは学年と名前までばれたせいでか、抵抗する気力を失っ
たのだろう。
 先生はそれ以上は男の事は気にせずに、茜の方を見つめて、それから少しすまなそうに
顔を落とした。
「もう少し早く気が付ければよかったんだが、遅くなって悪かった。怪我はないか」
「あ……はい。平気です」
 茜は呟くように答えて、それから少し俯く。
 結局、自分のした事は先生に助けてもらっただけだ。それなら初めから先生を呼びに行っ
た方がマシだったのかもしれない。
 何も出来なかった事に、茜は急に涙が浮かび始めていた。俯いたまま、涙がこぼれる。
「大丈夫か。やっぱり怖かったのか」
 涙に慌てたのか、先生は茜の顔を覗き込む。
 怖くなかった訳ではない。助けてもらった事に安心もしている。
 けれど、それ以上に自分がした行動が浅はかなものに過ぎなかった事が悔しかった。
 助けたいと思って、実行出来る。そんな強さが欲しいと思って、でもそれが無理な事も
十分に理解していて。茜はそれが悔しくて仕方なかった。
「大丈夫です。大丈夫ですから……」
 茜は大丈夫だと繰り返して、それでも涙を止められずにいた。
「わかった。でも、お前のした事は立派なものだったと思うぞ」
 近藤先生は呟くと、すぐに男の手を離してそれから男へと睨みを聞かせる。
「新田。お前、放課後に生徒指導室に来い。言いたい事があるなら聞いてやる。けど来な
かった場合は、どういう処遇になっても文句を言うなよ。いいな」
「は、はいっ」
「よし。教室に戻れ。午後の授業も出ろよ」
 近藤先生が言い放つと、男は素直に返事をしてから一目散に駆けていく。
 よほど近藤先生が怖かったのだろうか。確かにさきほどの目は、他の先生達と違ってか
なりの迫力があった。やはり武術か何かをやっているのかもしれない。
「西野、ホントに大丈夫なのか。何かあるなら先生に話してみないか。別に今の事じゃな
くても、何でも聞くぞ」
「え、私の名前をどうして」
 茜は思わず訊ね返すと、先生の方へと向き直っていた。茜のいるクラスには近藤先生の
受け持ち授業はない。茜は近藤先生の事は知ってはいたが、直接話すのはこれが初めてだっ
た。
「ん? この学校にいる生徒の名前なら全員覚えているよ。担当じゃなくても、みんな私
の可愛い教え子だと思っているしな」
 先生は茜へと優しく微笑む。
 その瞬間、もういちど茜の目に涙が浮かびそうになった。
 先生が自分の事を知っていてくれた事は、茜にとって本当に嬉しい事だった。学校では
一人きりでいるような気がしていたけれど、ちゃんと見てくれている人もいたんだと、確
かにそう思えたから。
「はい……。ありがとう、ございます」
 茜は涙目のまま、もういちど頷く。同じ涙だったけど、今度は悔しさからくるものでは
なくて、本当に嬉しかったから流れる涙だった。
「でも、もう大丈夫です。本当にありがとうございました」
 涙を拭いながら、何とか微笑もうとする。
 まだどこかぎこちなかったかもしれないけれど、今度はきちんと笑えたと思えた。
「そうか。それならいい。何かあったら、いつでも相談にのるからな」
 近藤先生はもういちど笑うと、それから校舎の方に戻っていく。
 頼りになりそうな先生の存在に、茜は胸の中が暖かく変わっていく。
 しばらくはその後ろ姿を見つめていた。しかしその奥にさきほどの少女がたっている事
に気がついて、茜は近づいていく。
「先生を呼んできてくれたんだ。ありがとう」
 茜はがんばって微笑む。微笑もうとする。
 何とか笑えただろうか。それはわからなかったけれど、少女もほんの少しはにかむよう
に笑顔をみせてくれていた。
「ううん。私が呼ぶ前に、近藤先生が気がついてくれたから、だから早かったの。私の方
こそ、助けてくれてありがとう。すごく嬉しかった」
 女の子は大きく頭を下げると、それから恥ずかしそうに顔を赤くしてうつむける。
「何にも出来なかったけどね。結局かき回しただけ」
 茜は自嘲気味に呟く。
 同時に昼休みを終える鐘が鳴り響いた。いつのまにかずいぶん時間が経っていたようだ。
「あ、そろそろいかないと。じゃあ」
 茜は振り返り、教室へと向かう。
 もう少し真面目に授業を受けてみてもいいかなとも思えた。
「あの、本当にありがとうございましたっ」
 背中から彼女の声が響いてくる。
 それが、茜と理恵の最初の出会いだった。


「そっか。赤石さんはあの時の」
 思い出して茜は呟くと、すぐに理恵が頷く。
「うん。私は最初から気がついていたんだけれど、西野さんは覚えていないみたいだった
から言えなくて」
 理恵はいつもよりもずっと饒舌になって、一生懸命話し続けていた。
 普段は大人しい理恵だけに、こんなに話し続けているのは本当に珍しい。
 茜もその事は嬉しく思えた。
 茜は今のクラスには克己がいた事や、クラス委員長という立場になった事もあってか、
一年の時ほどは教室の中で孤立してはいない。
 しかし今でも茜は克己達以外とは滅多に話さないし、多少は接点のある理恵とですらあ
まり話していなかった。
 だけど今はこうして話すことが出来る。それは本当に嬉しい事だった。
「あの時、守ってくれた事、本当に嬉しかったから」
 理恵がはにかみながら告げると、茜は軽く首を振るった。
「ううん。あの時は結局、何も出来なかったから。でも」
 茜はゆっくりと告げる。
「もしも今度誰かが襲ってきたら、その時は絶対に守るからね」
 茜は微笑む。今度は絶対に微笑めたと思う。
 それと同時に、図書室のドアがもういちど音を立てて開いた。
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