さよならの鎖 (08)
「大丈夫。もうあいつはいない」
「う、うん」
 優は立ち上がって、男の去っていった方向をじっと見つめていた。確かに男の姿が見え
なくなっている事を認めて、ほっと息を吐き出す。
 優はまだ制服姿のままだったから、恐らくは家に帰る途中だったのだろう。繁華街は通
らなかったのか、それとも優が通り抜けた時は、まだ暴動が始まっていなかったのかはわ
からない。しかしみる限りどこにも傷はないようだった。もういちど安堵の息を吐き出す。
「ありが……とう」
 優が顔をうつむかせて、普段よりもずっと小さな声で呟く。
 隆史はその言葉を聞いた瞬間、迷った事、罪悪感を感じていた事、それら全ての事を忘
れ去っていた。それだけでもう他には何もいらないと思う。
「いや。いいんだ。俺は、お前が無事でいてくれたら。俺は絶対にお前の事を守るって決
めたんだ」
 普通であれば言わない、言えないような台詞も、今は自然と口にしていた。
「な、なにいってんだよ、隆史っ。お前、熱でもあるんじゃないの?」
 優は顔を真っ赤に染めて、完全に顔を下向けてしまっている。こんな優の姿も、いつも
なら見る事がない。それは隆史が滅多に優の事を褒めないからかもしれなかったが、優が
照れている姿は、今までみたどんな姿よりも愛おしく思えた。
「そうかもしれないな」
 隆史はわずかに口元に笑みを浮かべて、それから少しだけいつもの調子を取り戻してく
る。
 優がそばにいるだけで、あんなにも思い詰めていた感情が解放されていく。恐れも迷い
も何も消えて無くなっている。
 今が非常事態だと言う事すら忘れ去りそうなほど、平常心を取り戻していた。
「そ、そうだ。そんなことより、隆史。その銃はどうしたんだよっ」
 優は顔を真っ赤に染めたまま訊ねると、まだ隆史が手にしている銃へと視線を移す。
 恐らくは話題を無理矢理変えようとしたのだろう。そんなところも可愛らしく思えたし、
もう少しからかってやろうかなんて気持ちも芽生えてくる。
 しかし今はそういう状況でもないし、素直に話に乗る事にした。
「拾ったんだ」
「は? 拾ったって、子猫か何かじゃあるまいし。そうそうそんなものが落ちててたまる
かよっ」
 隆史の要約しすぎた台詞に、当然ながら優の抗議の声が上がる。
 しかしその抗議は当を得ていない意見に過ぎない。
 恐らく優は繁華街の現状を見ていないのだろう。だからこそ、これだけ平然としていら
れるのだ。銃の登場自体には驚いただろうが、男から助けてもらった事と持っているのが
隆史だと言う事が、優に深く意識させていないだけ。実際にはいま街中には銃が溢れてい
て、お互いに殺し合っているのだから。
「優。この銃はたぶんテロリストがばらまいたか、落としていたものだと思う。俺はそれ
を拾ったんだ」
 隆史は呟くように告げると、銃を懐にしまいこんだ。テロリスト云々は、あくまでも隆
史の推測に過ぎなかったが、ほぼ当たりと思っても間違いないだろう。この銃は警察や暴
力団が持つようなタイプの銃ではない。
 それに来る途中で他にも銃を持っている男がいた事が、その事を裏付けている。警察な
どから奪ったものだとすれば、あまりにも数が多すぎる。
「そっか……」
 隆史の言葉に、優も少し不安が戻ってきたらしい。優にしてもウィルスによるバイオテ
ロが起きた事は知っているはずだから、恐れを感じるのも当然の事だった。
 しかし不安を感じさせてしまった事に、隆史はわずかに後悔の念を抱く。けれどそれを
振り払うように軽く首を振るって、まっすぐに優を見つめていた。
「優、お前は俺が守るから。何があっても、俺が守るから」
 隆史は照れる事もためらう事もなく、純然な気持ちで呟く。
 優はさっきはどこか照れた様子で慌てていたが、今回は静かに「うん」とだけ頷いてい
た。
「優。ここは繁華街に近いから、いつ誰がくるかわからない。危険が大きい。人がいない
ところに逃げよう」
 隆史の言葉に、優は思わず目を開く。
「ちょっと待て、隆史。駄目だ。パパが戻ってくるかもしれないから。家にいない時にボ
クがいなかったら心配すると思う」
 優は首をふるって、自分の家の方向を見つめる。ここからではまだ見えはしないが、す
ぐ近くに優の家はある。親と一緒に自分の家にいたいのは、誰だって思うだろう。
 しかしそれが危険な事だというのは、隆史には痛いほどわかっていた。
 告げるか告げざるべきか少しだけ迷う。しかし隆史は優の目をまっすぐに見つめて、話
し始めていた。
「おじさんは市外まで働きにいっているんだったよな。だから、ここにはこれない。この
街は自衛隊によって完全に閉鎖されてしまっているんだ」
 たぶん優はテレビの映像は見ていないだろう。だからこの街が封鎖され、出る事も入る
事も出来なくなっているのは知らないはずだ。
 この条南市は他の市からは少し離れた山間の中にある。だから優の父親のように別の街
まで行って仕事をしている人は珍しい。
 それが今の優にとって良い事だったか、悪い事なのかは隆史にはわからない。しかし事
実は事実として告げることしか出来なかった。
「え?」
 実際、優は当惑した表情で、短くそう訊ね返してきただけだった。
「俺達は、見捨てられたんだ」
 隆史は淡々と告げるが、優にはむしろそれがショックを強めたのかもしれない。
「そんな……」
 優は今にも泣き出しそうなほど顔を崩して、ぶるぶると体を震わせている。
 その様子を見ていると、言うべきではなかったのかとも思えたが、それ以上に優を一人
で家に残すなんて事は出来なかった。この辺りもさっきのような男がいる以上、家の中だ
からといってとても安全とは言えない。
 優は目を強くつむって、まるで何かに耐えるように歯を食いしばっていた。体中が震え
て、今にも泣き出しそうな子供のように思えた。
 その肩の震えを止めてあげたくて、隆史はわずかに手を伸ばす。
 しかしすぐにその手を戻して、隆史も目をつむった。手の届く場所にいるのに、触れる
事は許されない。そうすれば優を感染させてしまうかもしれない。
 その事が苦しくて悲しくて、でもそばにいてくれる事が嬉しくて。隆史の胸が揺れる。
 優には母がいない。だから父がこられない以上、ここに置いておく訳にはいかない。優
を一人残すなんて事は出来なかった。
 優を安全なところに連れて行って、優だけは守る。守ってみせる。隆史は再び決意を固
めると、精一杯の言葉で優へと告げていた。
「でも俺が守るから。絶対守るから。優には誰も手出しさせない。だから一緒に行こう」
 隆史は何とか笑顔を作ろうとして、しかしうまく出来ずにいた。
 優には笑っていて欲しかった。よく怒って、泣いて、笑う。それが隆史にとっての優だ。
 少しでもいつもの優でいてくれるように、隆史は出来る事は何でもしようと思う。
「パパは、ここにはこられない?」
 いつも気が強い優が、どこか頼りなげに訊ねてくる。来ると言ってあげたかったが、そ
れは出来なかった。嘘をつけば優を危険にさせてしまう。
「ああ」
 隆史が答えると、優は拳を握りしめて息を飲み込んでいた。必死で自分を保とうとして
いるのが、隆史にもわかる。
「……わかった。いこう」
 優は少しの間、考えていたようではあったが、やがて大きく頷いていた。
 しかし優のその目を見れば、不安を隠そうとして必死なのは明らかだった。
 ここにいる事が出来ない優の父親の為にも、優を守らなくてはいけない。もし優の父親
がここにいれば、きっとそうしただろう。なら来られない人の為にも、優を守らなくては
いけない。隆史は心の底からそう思う。
 例え自分自身が死に至ろうとも。
 願わくば離れずにいられるように。隆史は空を見上げて、そして優へともういちど微笑
もうとした瞬間だった。
 つんざくような音が、どこか近くで響いた。
 それが拳銃の放った音だと気が付くまでに、隆史は数秒の時間を要していた。あまりに
唐突で理解する事が出来なかった。
 しかし何度もその音は響き渡って、同時にいくつかの悲鳴が鳴り響いた。
「優っ。ここにも来るかもしれない。逃げよう」
「う、うん」
 優が頷いたのを確認すると、隆史は声のする方向に背を向けて、そのまま走り出す。
 優もその後について駆け出していたが、焦っていたためか、足をもつれさせていた。
「うわっ」
 軽く声を上げて、優は地面に前向きに倒れそうになって、思わず隆史へと手を伸ばす。
「優!」
 隆史は何も考えられなかった。
 反射的に優の手をとって、倒れかけた優を右手で支えていた。
 支えてから強く目を閉じて、歯を食いしばった。優には見せないようにしていたけれど、
激しく心が震えていた。
 触れてしまった。声には出さずに呟く。
 もしも自分が保菌者だとしたら、優にも感染させてしまったのかもしれない。優がその
為に死んでしまうかもしれない。そう思うだけで、自分に対して吐き気を催していた。
 守ると誓ったはずの自分が、優から命を奪うのかもしれない。その事だけが隆史の頭の
中でぐるぐると回り続けていた。
 だけど優は笑っている。
 今、出会ってから初めて微笑んでいた。
 すぐそこに恐怖が迫っているというのに、優は嬉しそうに笑みを浮かべている。
「ありがとう……」
 静かな声で呟く。
 微かに俯いて、でもすぐに顔を上げて。
 隆史にはどこかいつもの優と違うようにも思えたけれど、優しい笑顔をはっきりと浮か
べている。
 その時、隆史は初めて理解していた。
 優も同じ恐れを感じていたのだと。
 互いに触れる事をためらっていた。
 壊してしまう事を怖がっていた。
 けれど本当に望んでいたのは、二人が共にある事だった。
 だから隆史は、もういちど優の手を握る。
 温もりがゆらりと伝わってくる。
 柔らかくて暖かくて。
 もしかしたら手をつないだ事で、優から命を奪ってしまったのかもしれない。あるいは
隆史が命を失ってしまうのかもしれない。
 優には生きていて欲しい。
 だけどもしも優が感染していたとしたら、一緒にそれを受け止めたい。
 健やかなる時も病める時も共に、死すら二人を別ちはしない。
 隆史は優の手を握りしめながら、言葉にはせずに誓いを立てていた。
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