さよならの鎖 (07)
 隆史はしばらく走り続けていたが、幸い目の前に暴漢の姿はない。もしも出会えば危険
は避けられないし、時間の無駄にもなる。ただ今は優の元に急ぎたかった。
「いやぁっ」
 と、不意に右手の方から、叫び声が聞こえてくる。
 思わず隆史はそちらへと振り返った。
 銃を持った男が、若い女性へと銃身を突きつけていた。
 若い女性はなんとか逃げようとして、身をよじる。その瞬間、隆史と目を合わせた。
 女性はすがるような視線を、隆史へと向けている。助けて欲しいと訴えかけていた。
 胸が強く痛む。
 いま隆史が飛び込めば、彼女を助けられるかもしれない。
 ただしそれには隆史自身が殺される危険性がつきまとった。そしてもし助けられても、
その分の時間が失われる事になる。
 隆史は少しの間、考えを巡らせていた。
 男に襲われている女性。彼女を助けたいという気持ちはある。隆史は銃を持っているの

だから、決して不可能な事ではないだろう。
 ただそれ以上に隆史の中にあったのは、優の悲しげな顔だった。
 隆史はまっすぐ先へと走り出した。女性を見捨てる事を選んでいた。
 女性が絶望の表情を浮かべたのが一瞬だけ見える。
 悪い、と口の中で呟く。
 罪悪感が駆けめぐって、思わず胃の中のものを戻しそうになる。
 それでも隆史は駆け抜けていた。
 銃を持った男が怖かった訳ではない。関係の無い人だからと思った訳でもない。助けら
れるなら助けたい。そう思った。
 だけどそれ以上に失われるかもしれない恐怖の方が先に立った。
 こうしている間にも優が誰かに傷つけられているかもしれない。彼女を助けている間に
取り返しのつかない事もなるかもしれない。
 それだけが隆史にとって恐ろしかった。
 だから隆史は女性を見捨てた。
 心の中にわだかまりのように残る。それでも隆史は引き返そうとは思わなかった。
 浮かんできたのは優が同じような目に合っているんじゃないかと、不安だけが心の中を
捉えていく。
 走っているうちに女性の事は忘れていた。
 優の事だけが頭の中にあった。
 無事でいてくれる事を、心の底から願う。

 隆史はやがて優の家のそばまでたどり着いていた。
 近くに優がいないか、辺りを見回しながら走る。
「優、優っ、いるか」
 優の名前を呼ぶが、返答はない。優の家まではあと数分といったところだろう。出来れ
ば家で無事にいてくれたらいいと、繰り返し思う。
 住宅地の中を走り抜けて、十字路を左に曲がる。
 その先から、その声は響いていた。
「なにするんだよっ、やめろよっ」
 聞き覚えのある声に、隆史は目を凝らした。
 道のさらに奥に男の姿が見えた。隆史よりもさらに背が高い。おそらくは一八〇は下ら
ないだろう。体つきもかなりがっしりとしており、相当鍛え抜いているように思えた。
 その男の目の前に電信柱がたっており、その陰に優の姿が見えた。こうして見ると男の
体の大きさも手伝って、優は本当に小さくか弱く思える。
「いいじゃねぇかよ。どうせ俺達は死ぬんだ。もう駄目なんだよ。だったら、最後くらい
楽しくやろうぜ」
 男は隆史には背を向けたまま、ゆっくりと優へと近づいていく。
 優は電信柱を背にしていて、これ以上逃げられない。左右に抜けだそうにも、男の大き
な図体に邪魔されて逃げ場が無かった。
「なぁ」
 男が優の手をとろうと腕を延ばした瞬間、隆史はありったけの声を絞り出して叫んでい
た。
「優に触るな!」
 隆史は叫びながら、拳銃を手にとる。そして男に向けて突き出していた。
「誰だっ」
 男は隆史へと振り返ると、一瞬驚いた顔を見せる。
「え、隆史」
 優が振り向いて大きく目を開いていた。どうしてここに隆史がいるのか理解出来ていな
いのかもしれない。
 男は隆史の姿をみてとって、始め怪訝な表情を覗かせたが、すぐに口元に下卑た笑みを
浮かべていた。
「はは。誰かと思えば、がきんちょがいっちょ前に。なんだ、おもちゃの拳銃で俺とやり
あうつもりか」
 男は手を広げ、それから目をつり上げて電信柱をたたきつけていた。
 がんっと激しい音が響いて電信柱を揺らしている。
「うわぁ」
 優が驚いて、ぺたんと尻餅をつく。
「怪我したくなかったら、さっさといっちまえ。邪魔なんだよ」
 男は満足したように隆史へと笑みを向ける。
 隆史は心の奥底から浮かんでくる怒りで震えていた。隆史の頭の中は真っ白に変わり、
もはや他の何も考えられなかった。
「優を傷つけたな。貴様は許さない」
 隆史は構えた拳銃の引き金をためらいもせずに引く。
 つんざくような音が発せられ、隆史の腕にも金棒で殴られたかのような衝撃が走った。
隆史はそのまま後へと倒れ込みそうになるが、たたらは踏みつつもなんとか堪える。
 男の足下のアスファルトが、ビシッと鈍い音を立てて飛び散っていた。残骸が男の体を
打って、微かに男は揺らめく。男の足下には大きな穴を穿っていた。
 体中がずきずきと痛んだ。それでもある程度の心構えがあったからか、先ほど隆史を狙っ
た男のように倒れずには済んでいた。
 もういちど目の前の男へと銃口を向ける。
 カチャリ、と機械が奏でる鋭い音が響いた。
「……ひぃ。助け、助けてくれっ」
 男からは先ほどまでの威勢は完全に失っている。隆史は何も言わずに一歩だけ近付いた。
 その瞬間、男の体がびくんと震える。
 滑稽なほどに怯えていて、あまりの情けなさに隆史は呆れすらしていた。
「行けよ」
 隆史が呟いた瞬間。男は慌ててきびすを返すと、背中を向けて一気に走り出していた。
男の姿が小さくなっていくのを認めて、隆史は優へと顔を向ける。
 優が無事でいてくれた事に、軽く息を吐き出す。間一髪で間に合った事が、何よりも嬉
しかった。
 もはや途中で襲われた事も、女性を見捨てた事も隆史の頭の中にはない。ただ優がここ
にいてくれる事が全てだった。
 優はまだ座り込んだままだった。突然の出来事に何が起きているのか、まだ理解できず
にいるのかもしれない。
 隆史は優へと手を差し出す。いや、そうしようとして差し出す事が出来なかった。
「優、大丈夫か」
 代わりに隆史はゆっくりと微笑みかける。
 優が無事でいてくれて、心から安堵の息をついていた。もしもほんの少しでも遅れてい
たのなら、優はさっきの男に傷つけられていたのかもしれない。そうなっていたとしたら、
隆史は一生後悔していただろう。
 ただそれでもいたずらな運命を憎んだ。
 もしも隆史が真っ先に飛び出していなかったら。もしも近道をしなかったら。もしも女
の人を助けていたら。隆史は優を守る事は出来なかった。
 いくら優が男勝りで喧嘩早いとはいっても、あんな大男相手に抗う事は無理に決まって
いた。隆史だって武器がなかったら、一方的にやられていたのかもしれない。途中襲われ
た事が、逆に助けになっていた。
 けれどその為にいくつもの事を犠牲にした。自分の中の優しい心が、その現実を突きつ
けてくる。
 だから優に手を差し出す資格はないと思った。それがためらった一つ目の理由。
 そしてもう一つ。隆史は「互いに触れないようにしよう」と告げた英司の台詞に、怒り
を感じた自分を恥じていた。
 大切に思っているからこそ、いま隆史は優に触れる事は出来ない。もしかしたら自分は
感染者なのかもしれないのだから。自分が優に触れてしまったなら、優をも感染させてし
まうのかもしれないから。
 自分の考えがどれだけ幼稚だったのか、やっと理解していた。
 だから手を差し出す事は出来なかった。
 それでも優を助けられた事に嬉しさを覚えて、泣き出しそうなほど心が揺れて、けど隆
史は何事も無かったかのように、普段通りの顔を優へと向けていた。
「隆史っ……隆史」
 優が声を震わせていた。
 無理もないだろう。普段どんなに強がっていても、優はまだ中学生の女の子なのだ。急
激に変わった環境にだって戸惑っているだろうし、大男に襲われた事だって語り尽くせな
いほどの恐怖に捉えられていたに違いない。
 本当はいますぐにでも優を抱きしめたくて、支えてあげたくてたまらなかった。しかし
そうする事は出来なくて、ウィルスをばらまいたテロリストを何よりも憎んだ。
 隆史にいま出来る事は、出来るだけ不安にさせないように笑顔をみせて言葉をかける、
それだけしかなかった。
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