さよならの鎖 (06)
二.死が二人を別つ時

 隆史は走っていた。
 美化委員会をやっていたはずの教室には誰もおらず、もう学校内に誰か残っているよう
には思えなかった。
「優っ。優、いるか」
 優の名前を呼ぶが、誰も答えはしない。隆史はそのまま階段をかけおりていく。全ての
教室を見た訳でもなかったけれど、隆史は教室を探す事はせずに街中へと飛び出していた。
「くそ。家か」
 優の家は繁華街を越えた向こう側にある。だが先ほど映像で見たように、街は暴動の中
だ。無事に通り抜けられるかはわからない。
 もちろん繁華街はさけて、回り道していく事も出来る。しかし当然、その分だけ時間は
過ぎてしまう。今は少しでも早く優を探し出したかった。
 隆史はほんの一瞬だけ考えて、そのまままっすぐ走り出す。遠回りをして間に合わなかっ
たら、何の意味もなくなってしまう。
 克己が言っていた言葉が、今になって胸の中に何度も響いた。
 江崎が逃げ出した時も、英司がお互いにさわらないようにしようと言った時も、何故と
問い返さずにはいられなかった。それでも今はそれが当然なのだと理解していた。
 まだ隆史は現実を納得していなかった。だから意識が足りなかったに過ぎない。自分に
とって本当に大切なものがわかっていなかったのだ。
 テレビの映像を見た時、頭で考えるよりも早く走り出していた。いまそばにいない、本
当に大切に思っている人を探しにいこうと。他の事なんてどうでもいい。誰がどうなろう
と知った事じゃない。
 ただ隆史は優をあんな目に遭わせる訳にはいかないと、それだけを意識していた。
 隆史は決意を固めると、そのまま繁華街へと走り出していく。
 踏み込んだそこは、本当にここが日本なのかと疑わせるほどに、荒れ果てた街並みと化
していた。
 ガラスの破片があちこちに散らばっている。商店のショーウィンドウを破壊した跡だろ
う。ガラスが無事な店を見つける方が難しかった。
 人が何人も倒れている。
 真っ赤に地面を染め抜きながら、恐ろしい表情を浮かべて、身じろぎ一つせずに横たわっ
ている。完全に息絶えているのだろう。
 鈍器で殴られたのか、頭の一部が陥没して目玉が飛び出している死体もあった。何度も
何度も刃物で刺されたのか、腹部から切れたパイプのように腸が飛び出しているものもあ
る。壁に打ち付けられたようにして横たわっている死体は、手足がまるで壊れた人形のよ
うによじれ、力なく背をもたれかけていた。さっきの車で跳ねられた人かもしれない。
 その車も、猛スピードで建物にぶつかったのだろう。フロントが完全に潰れて、店舗の
中に埋もれていた。運転席の中でつぶれて挟まれている体の、片腕だけ覗かせている。
 隆史は喉の奥に熱いものを感じていたが、むりやりそれを飲み込んでいた。喉を押さえ
て、出来るだけ直視しないように顔をうつむける。
 とにかくここを通り過ぎなくてはいけない。幸いな事に、この辺りには人気がない。恐
らくすでに殆どの人が逃走したのだろう。運がよければ、このまま誰にも出会わずに通り
抜けられるかもしれない。
 しかし意識は急ごうと思うのに、足が重い。思うように動かなかった。無意識のうちに
この向こう側にいく事を拒否していたのだろう。無理矢理押さえ込んでいる感情は、決し
て乗り越えた訳ではない。
 怖い。いやだ。死にたくない。だからこの先にいくな。隆史の中で叫び出す理性がいる。
 恐ろしくないはずがなかった。死ぬと言う事は全てを失う事だ。もうその後には何も残
らない。ましてやこの辺りに転がる人々のように、無惨に打ちのめされたなら何のために
生きてきたのかわからなくなる。
 今ならまだ街中に入ったばかりだ。どこかに潜んでいるかもしれない無法者に、出会う
事なく回り道が出来る。そうすれば少しは安全でいられるかもしれなかった。いや、いく
ら今は人気がないからと言って、この中を突き進んでいくのは無謀に等しい。
 隆史も頭では理解している。それでも隆史は、震える足を前へと突き進めた。
 繁華街を避けるほど遠回りをすれば、少なくとも一時間は失うだろう。その間に取り返
しのつかない事になったら、隆史は一生悔やんでも悔やみきれない。
 もちろんここを突き進めば、自分自身も死体の仲間入りをしてしまうかもしれない。賢
い選択とは誰も言わないのは、隆史自身にもわかってはいる。
 だけど隆史は足をもう一歩、もう一歩と前に進めて、少しずつ足を速めていた。
「どうか、どうか無事でいてくれ。俺がたどり着くまで無事で」
 いつのまにか想いを口に出して、しかし隆史はそれに気がついてもいなかった。
 カッカッとアスファルトの上を足音が響いていく。気がつくと、ほとんど全速力で隆史
は走り抜けていた。
 息が苦しくて、速度を落とそうかと何度も思った。けれどそれと同時に優の悲しげな顔
が浮かんできて、その度に足を無理矢理振り上げていた。
 幸いこれまで他の人には全く出会わなかった。時々転がっている死体には、目をやらな
いように気をつけて進む。見てしまうとどうしても足が震えて、胸に吐き気を覚えてしま
う。だから目を背けながら、とにかく走り抜けていた。
 だけど新しく見つけたその物体にだけは、隆史も足を止めずにはいられなかった。
 それは隆史が走り去ろうとした先に転がっていた。
 大の字に手を広げ、寝ころんでいるようにも見える。ただ安らかな寝顔を覗かせている
はずの頭が、あるべきところに無かった。
 首先からはピンク色の肉と、首の骨が姿を表している。そこから血が吹き出していて、
首の先にまき散らしていた。その中に目玉だったろう半ば潰れた白くて丸い塊と、柔らか
そうな肉片が花のように散らしている。
 どんな風にすれば、こんな状態になるのか、隆史には想像もつかない。思わず息を飲み
込んで足を止めていた。

「死ねっ」
 声は不意に飛び込んでくる。同時に鼓膜に直撃したかのような爆音が響いた。
 隆史の目の前を風が吹き抜けていき、すぐ左手にあった街路樹を弾く。その途端、いか
に細いものとは言え、幹の真ん中から文字通り木っ端微塵に砕け散っていた。
 街路樹はそのまま隆史の方へと倒れかかってくる。
 あわてて後ろに飛び退くが、いくつかの枝が隆史を打ち付けていた。
 隆史は木の枝に巻き込まれるようにして、右肩から倒れる。
「がっ」
 思わず声を漏らしていた。
 ただ幸い触れたのは枝先だけだったようで、それほどひどい打ち身にはなっていない。
なんとかよろめきながらも立ち上がると、いま風の吹いてきた方向へと振り返った。
 見知らぬ男が座り込んでいる。ややひょろりとした、大学生くらいのどこにでもいそう
なごく普通の男だ。
 その目の前に、金属の塊が転がっている。
 隆史は始めそれが何なのか、よくわからずにいた。
「うああ……うわぁぁぁ」
 男が右手を押さえながら呻き声を漏らしている。
 それでも隆史と目が合った瞬間、さらに高く声を上げて、目の前の金属に向かって飛び
込もうとしていた。
 だが慌てたせいで体がうまく動かないのか、男は自分の足を絡めて倒れる。
「ひ、ひぃっ」
 悲鳴ともとれる声を漏らして、それでも目の前の金属に向けて手を延ばそうとしていた。
 隆史はその時初めて目の前のそれが、拳銃だという事に気がついていた。
 もちろん隆史だって、拳銃がどんなものなのか知らない訳ではない。モデルガンの類で
あればおもちゃ屋で見た事もあるし、ドラマや映画などではよく出る小道具だ。
 しかしそれはどこか浮き世離れした世界でのもので、隆史にとっては自分が本物を目に
するだなんて事は想像の外の話だった。
 男があたふたとしながらも拳銃を手にとろうとしていた。先ほどの風は拳銃によるもの
だったのだろう。男は拳銃で隆史を狙っていたのだ。
 そう考えた瞬間、隆史は走り出して、男よりも先に拳銃を拾い上げる。
 ずっしりとして重い。まだ中学生である隆史が扱うには、とてもではないが手に余る代
物だ。
 恐らく男は不用意に銃を撃って、反動ではじき飛ばされた。街路樹を破壊したのも、転
がっていた頭の無い死体を作り出したのも、この大きな銃の威力だろう。
「ひぃぃっ。や、やめてくれっ、撃つな。撃たないでくれ。殺さないでくれぇっ」
 男は隆史が銃を手にとったのをみて、大声で叫びながら手で頭を隠していた。小さく縮
こまって、がたがたと歯をならしている。
 こいつが人を殺した。目の前の情けなく震えている男が人を殺した。それどころか隆史
をも殺そうとして、拳銃で狙いをつけてきた。
 そう考えると隆史の頭の中にふつふつと怒りの感情がわき上がってくる。男がしたこと
は決して許される事ではない。
「俺を殺そうとしておいて、殺さないでくれか。ふざけるな」
 隆史は銃を構えて、男へと狙いを定める。
 恐らくこの男は銃など扱った事はないのだろう。だから止まっている隆史ですら正確に
狙う事が出来なかったし、銃の反動で手を痛めるなんて間抜けな真似をしてみせたのだ。
 もちろん隆史とて銃を扱った事なんてない。おもちゃのピストルとは訳が違う。手に残
る重さはそれだけで腕に負担をかけるし、これだけ大きな銃であれば威力も、そして反動
も相当なものだろう。男が倒れて腕を押さえていた事からも伺える。
 ただこの至近距離からであれば、いくらなんでも外れるとは思えなかった。両手でしっ
かりと支えれば、反動にも耐えられるだろう。隆史は中学生にしては、かなり体つきが良
い。目の前の男より銃もうまく扱えるだろう。
「ち、違うっ。違う。たまたま、そう。たまたまなんだ。拾った銃を撃ってみたら、たま
たまあんたがいただけでっ。そう、だから俺は悪くないっ。何もしていないっ。殺そうと
なんてしていない。だから助けてくれっ、殺さないでくれぇ」
 男はかなり冷静さを欠いているのか、言い訳にもなっていない台詞を何度も繰り返すだ
けだった。
 しかし男が少なくとも隆史を殺そうとした事だけは間違いない。死ねと叫んだ声は、ど
う考えても男のものだ。
「言っておくが俺は自分がやられて、やり返さずにいるほど大人じゃない。お前が死ね」
 隆史は銃身をまっすぐ男へと向ける。
 男は哀れなほどに大声で叫んで、股間を激しく濡らしていた。叫びながら、それでも少
しずつ後ろへと下がっていく。
 その瞬間、隆史の中にぞくりと何かえもしれぬ感情が走り抜けた。
 男の様子をみて激しく歪な心が浮かんでくる。
 殺せ。殺せ。
 心の中で、誰か知らない人が囁きかけている。それは甘い誘惑のようで、隆史の意識が
少しずつ奪われていく。
 あぁ、と嗚咽を漏らして、それから指先に力を込める。
 男が弾けとぶ姿を思い浮かべると、どこか愉悦すら感じていた。
 だけど、指が完全にトリガーを引く前に、何故か優の顔が思い浮かんだ。
 同時に隆史は激しく首を振るう。
「……いけ」
 ゆっくり呟くと、隆史は強く唇を噛み締める。
 ここで男を殺してはいけない。ここで男を殺しても意味がないことだ。隆史は声には出
さずに呟く。
 しかし目の前にいる男はぽかんと口をあけて、何が起きているのかも理解出来ずにいる
ようだった。
「いけって言ってるんだ。俺の前から消えろ。目障りだ。死にたく無いなら、ここから離
れろ。五秒以内にだ。それ以上、ここにいるようなら殺す。いち、に、さん……」
 隆史がカウントを始めると、男はやっと自分が見逃してもらえるのだと気がついて慌て
て動き出す。
 あまりにも慌てているのか、始めは半ば這うようにばたばたと手足を動かしいたが、や
がて立ち上がり一目散に走り去っていく。
 拳銃をじっと見つめ、溜息を一つ漏らした。
 隆史の中に浮かんできた衝動は、弱い者をいたぶりたいといういびつな欲望。しかしそ
れは隆史だけが持つものではなくて、人は誰しも持ちうる感情だ。
 ただ隆史はそれを振り払って、男を逃がすことにしていた。
 けれどそれは人を殺したくないからといった、正しくて甘い理由からではない。隆史は
あの男を殺す事は無駄だと思っただけだった。
 隆史は優を守りたい。それだけを思う。その為に拳銃は強い武器になる。だから無駄に
弾を使いたくない。男を殺す事が優を守る力を失わせる。だから殺さない。
 隆史には優を守る以外の理由はいらない。逆に言えば、今の隆史はその為になら平然と
人を殺すだろう。
 どこかまともな心が、少しずつ麻痺していくのを隆史は感じている。そしてそれでも構
わないと考えている自分にも気がついていた。
 軽く口元に苦笑を浮かべる。
 こういう時こそ、人の本性がにじみ出るのだろう。隆史は目的の為なら、どんな事でも
いとわない。逃げ出した江崎を非難しておきながら、隆史は皆を置いて飛び出していた。
 寛二は隆史達を頼りにしていただろう。克己や英司にしても、いざという時、もっとも
体格の良い隆史がいてくれればどんなに心強かっただろう。
 学校にはもう人はいない様子ではあったが、いつ暴漢やテロリストが襲ってくるかもし
れなかった。仲間はいるに越した事はなかっただろう。その中でも自分は頼りになったは
ずだと隆史は思う。
 しかしそれでも隆史は飛び出していた。
 優を守りたい。それ以外は何も考えていない。そんな自分勝手な理屈と感情で、隆史は
動いていた。
 克己は何て言うだろうか。寛二は、森田はどう思うだろうか。隆史はわずかにそんな事
を考えていた。
 きっと克己なら笑って許すのだろう。寛二は泣いてすがるかもしれない。森田なら、あ
ざけり嫌みの一つも告げたかもしれないな。隆史は言葉にはせずに呟くと、空を見上げた。
 夕日が差し込んでくる。
 真っ赤な光がまるで血に染まったかに思えて、隆史は思わず乾いた笑みを浮かべていた。
 けれど隆史は迷いはしない。
 優の元に行こう。優の笑っている顔がみたいから。
 それだけの理由があれば十分だった。
 なぜか急に涙がこぼれたけれど、気のせいだと思いこもうとした。優が隣にいないこと
が不安で仕方なかった。
 隆史は日常との狭間で揺れている。
 テロリストはどうしてテロなんて起こしたのか、なぜ自分達を巻き込んだのか。理由な
んてどうでもよかったけれど、優に危害を加えようとしている事だけが憎らしくて仕方な
かった。
 けれど、優を守る為なら人を殺しても構わないと思った自分が、テロリストとどれだけ
の違いがあるのか。隆史にはわからなかった。
 とにかく隆史は優の無事を祈りながら、もういちど走り出す。わからない事だらけだっ
たけれど、考える必要はないと思った。
 隆史の足はまっすぐに優の家へと向かっていた。
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