さよならの鎖 (04)
「に、逃げなきゃ」
「殺されるっ」
 テレビを囲んでいた人間達が、慌てて入り口へと殺到していく。まだ残っていた人間の
殆どが逃げ出そうとしているのか、廊下の外にはすでに人が溢れていた。
 克己はどうするべきなのか分からずに、呆然として皆を見送っていた。まだテレビ放送
で告げられた事が、現実として受け入れられていない。
「やめろ、逃げるな。ここを離れるな」
 そう叫んだのは英司の声だった。英司は何度も声を張り上げていたが、もう逃げだそう
としている人達には何も聞こえていない。一目散に教室から逃げ出していく。
「いやぁっ」
「離して。やめて」
「どけっ。俺に触るな」
 外からはいくつかの悲鳴と怒号が聞こえてくる。学校の中を、かなりの混乱が包んでい
るのだろう。
「馬鹿な。いまの放送が事実だとしても、ここでじっと助けを待つ方が賢いという事が何
故わからない。逃げれば、それだけ人に触れる危険性が高まるというのに。どうしてそれ
がわからない」
 英司は拳を机へと打ちつける。机が何度も揺れて、その度に激しく音を奏でた。
 英司がこんな風に声を荒げるのを、克己は今まで見たことがない。さすがの英司も冷静
ではいられないようだった。
 ただ英司のその様子が、逆に克己の落ち着きを取り戻させていく。大きく空気を吸い込
んで、辺りを見回してみる。
 ここに残っているのは英司の他には隆史、寛二の二人だけ。浩介はすでに部活に出てい
たし、茜や優はそれぞれの委員会に行っているはずだ。理恵の姿もないから、すでに帰宅
しているのかもしれない。
 ただあんな放送があった後だけに、誰がどこにいるかなんて、正確にはわからなかった。
「な、なぁ、森田。俺達どうなるんだろ。どうしたらいい」
 寛二が恐る恐る英司へと話しかける。本来の寛二の性格なら真っ先に逃げ出していそう
なものだったが、テレビを見ていた本人だけに逃げ遅れたのかもしれない。タイミングを
失って教室に残ってしまったのだろう。
 その中で英司の言葉を聞いて頼りになると思ったのか、滅多に自分からは話しかけない
英司へと、すがるような目を向けていた。
「そんなことは僕にだってわかりませんよ。ただ一つ言えるのは、むやみに目的もなく動
き回らない方が賢いって事です。それとまずは情報が必要だと思います」
 英司はそっけなく呟いて、それから廊下の方を見つめていた。
 まだ少し混乱を残した声が階下から聞こえてくるものの、恐らく殆どの人間が学校から
は離れていったと思われる。ついしばらく前の喧騒が、嘘のように静けさを取り戻してい
た。
「じょ、情報ってどうすれば」
 寛二は言われて一生懸命携帯のテレビを操作していたが、まだどのチャンネルも先程の
映像を繰り返し流しているだけだ。
 克己は両手を組んで、それから英司と寛二の二人へと顔を向ける。寛二と比べれば、克
己はまだ冷静さを残していた。少しはどうすればいいか考える頭も残っている。
「寛二。携帯はあまり使わない方がいい。使えばそれだけバッテリーが減って切れる。だ
からいざという時の為にとっておくんだよ。テレビなら視聴覚室にいけばいい。あそこな
らインターネットが出来る端末もあったはずだし、何か調べられるかもしれない」
 克己は落ち着いた様子で告げると、英司へと軽く目で合図を送る。英司が一番廊下に近
い位置にいたから、教室の外を確認してもらおうと言う克己の考えだった。
 英司は僅かに両手を広げたが、素直に入り口から廊下を確認していた。振り返った英司
の雰囲気からすれば、どうやら他にはもう誰もいない様子だ。
「そ、そっか。うん、だったら視聴覚室にいこうよ。はやくしよう」
 寛二は言われるままに携帯をしまう。それからいてもたってもいられないように、克己
と英司の二人へとそわそわとしながら訴え続けていた。
 やはりまだ頭が混乱したままで、冷静には考えられないようだった。それも当然かもし
れない。英司や克己のように落ち着いていられる方が珍しいし、その克己にしても英司が
いなければもっと慌てていただろう。
 ただもう一人残った隆史は、寛二の隣で何も言わずに何か考え込んでいるようだった。
普段はぶっきらぼうな言い方はするものの、どちらかといえば賑やかな奴だけに、こうし
て静まりかえっていると何か怖いような気もする。その様子は落ち着いているようにも見
えたが、どうにも不気味に感じさせた。
「もう他には誰かいないのかな」
 克己は隆史に話しかけようとして口を開いたが、しかし隆史は黙ったままで、代わりに
答えたのは英司の方だった。
「辺りには人はいないと思いますね。銃声もあれきり聞こえないし、テロリストはもうこ
こにはいない確率の方が高いでしょう。でも、危険は残ってます。どうしますか」
 英司の声に、克己は隆史に話しかけるのはとりあえずひとまず置いて、そのまま廊下へ
と歩みでていた。
 人気無くがらんとした廊下は、夏だと言うのにとても冷たく感じさせる。
「いこう。ここにいたって、そういう意味では危険は変わらない。それなら情報が得れる
場所の方がいい」
 克己は答えて、それから皆の答えも聞かずに視聴覚室へと向かい始めていた。今はいち
いち意見をまとめるよりも、行動で見せた方が早いと考えていたのかもしれない。
「ま、まってよ、克己。俺もいくよ。隆史も森田もいくよな、な?」
 寛二が慌てて克己の後をついていくと、英司は少し苦笑を浮かべながら頷く。
 ただ隆史だけは眉を寄せたまま、何も答えない。もしかして隆史はこのままここにいる
んじゃないかと少し不安にも思えたが、それでも隆史も後ろからついてはきていた。
 黙り込んだ隆史は、どこか怖いくらいの張りつめた空気を伴っていて、それが克己にも
余計に不安を呼び起こす。ただそれは表面には出さないようにして、しばらく歩き続けた。
 視聴覚室はそれほど遠い場所にある訳ではない。誰にも出会わずに辿り着くだろうと、
克己は考えていた。
 しかし不意に廊下のむこうがわに誰か少年の姿が見える。知らない相手だったが、もし
かすると同じ事を考えて、視聴覚室に向かっていた最中だったのかもしれない。克己はそ
う考えていたが、突然、隆史が向こうにいる少年の名前を呼んでいた。
「江崎。江崎じゃないか」
 どうやら隆史の知り合いらしい。一年か、あるいは小学生の時の友達なのだろうか。
 隆史の声に少しだけほっとする。こういう時は、やはり全く知らない相手とは出来れば
関わりたくないのが本音だった。隆史の知り合いであれば、怪しい相手ではないとわかっ
て多少は安心出来る。
「お前はまだ学校に残っていたのか。俺達はいま視聴覚室に行こうと思ってて、お前も」
 隆史は少しだけ顔をほころばせて、江崎と呼んだ相手へと一歩だけ近付く。さっきまで
の張りつめた空気が、わずかに緩んだような気もする。
 しかし次の瞬間、江崎は大きな声で叫んでいた。
「来るな。こっちに来るな」
「な。江崎!? 何を」
 隆史は驚きを隠せずに、声を張り上げる。
 江崎は少しずつ後ずさりながら顔をゆがめていた。
「来るな。井口、お前が、お前らがウィルスに冒されていないって証拠はあんのか。触っ
たらしんじまうんだぞ。俺に近付くなっ、来ないでくれ。俺はまだ死にたくないんだ」
 江崎は怒鳴るように言い放つと、そのままきびすを返して来た方向と反対側へと走り出
していく。
 突然の台詞に隆史は呆然として、去っていく江崎を見送っていた。しかしすぐに気を取
り戻して、その背中に声を投げかける。
「江崎。お前っ、友達だろ。なんで、なんでそんなことをいう。まて」
 隆史が江崎を追おうとして走り出そうとする。隆史の心情もわからなくはない。最近、
交流は減っていたかもしれないが、それでも友達だと思っていた相手に近寄るな等と言わ
れればショックに違いなかった。
 しかしそんな隆史の心を全て無視するかのように、英司の鋭い声が隆史を止める。
「追うな。追わない方がいい」
「森田!? なぜだ」
 英司の制止の声に、思わず隆史も振り返る。
 素直に止まったのは、追いかけてもとても間に合わないのも一因だっただろう。しかし
隆史の事だから、それ以上に友達である皆と離れまいとしたのかもしれない。
 それは寛二のように誰かを頼ろうというのではない。隆史はいつも友達を本当に大切に
考えているからだ。自分が追う事で、皆を置いていく事に抵抗感があったのだろう。
 ただ英司は隆史の内心を知ってか知らずか、淡々と呟くように告げていた。
「さきほどの彼は、私達がウィルスに冒されていない証拠はあるかといいました。でも逆
に彼がウィルスに冒されていないとも限らない。なら下手な危険は避けた方がいいからで
す」
「な。お前までそんな事を言うのか」
 英司の台詞は、隆史にとって琴線に触れたようだった。そのまま英司の襟を掴もうとす
るが、英司はうまく身を翻してそれを避ける。それから目を細めて隆史の顔を見つめてい
た。
「乱暴はやめてください。付け加えるなら、確かに僕達が保菌者なのかもしれませんから。
そうすれば彼が無菌者だとしても、感染させる事になりますよ」
 英司は挑むような視線を隆史へと送っていた。その後で寛二が、おどおどとして二人の
様子をうかがっている。
「くそっ」
 隆史は一言、苛立った声を漏らす。それでも英司の言葉を受け入れたのか、これ以上に
は何も言わなかった。
「それから加えて言うならば」
 しかし英司は隆史へと追いかけるように、口を開く。
「僕達の間でも無闇な接触は避けるべきです。この中の誰かが、すでに感染していないと
は言えませんから」
 英司はあくまでも冷静な声で、はっきりと告げる。それは間違いない事実ではあった。
しかしその言葉に、隆史は表情がみるみるうちに剣呑としたものに変わっていく。
「森田。お前、言っていい事と悪い事の区別もつかないのかっ」
 隆史は英司を激しく睨みつけると、今にも殴りかかりそうなほど、ぴりぴりとした空気
を醸し出している。隆史がいま手を出さなかった方が、逆に不思議なくらいだった。
「や。やめようよ、喧嘩は。ほら、仲良くしようよ、ねぇ」
 寛二は二人を交互に見つめて、なんとか止めようとしているのだが、二人とも全く聞い
ている様子はない。
 もしここで英司が何か告げれば、すぐにとっくみあいの喧嘩が始まっていただろう事は
想像に難くなかった。
 しかし英司が何か告げようとするその前に、克己は眉を寄せながら静かな声で呟いてい
た。
「隆史、やめろ。英司の言う事にも一理ある」
「克己。お前までそんな事言うのか。お前も友達を信用出来ないのか」
 隆史は声を張り上げながらも、克己の方をあ然とした表情で見つめていた。
 克己と隆史は背の高さこそ違えど、お互いに気があって学校でも一番仲が良い。今では
親友同士だと言ってもいいくらいだった。その克己からの一言だけに、全く予想していな
かったのだろう。
 克己は隆史をじっと見つめながら、ゆっくりと告げる。
「そうじゃない。俺だって、みんながウィルスに感染しているだなんて思っちゃいないよ。
けど、それでも少しでも危険があるなら避けるべきなんだ。俺は万が一にだって、ウィル
スに感染してはいけないんだよ。だって」
 まっすぐに視線を向けて、真剣な表情で隆史を見つめ続ける。
 その目に何もかも、伝えたい気持ちを込めているかのように、本当にまっすぐに。
「俺は守りたいから。守りたい人がいるから。だから一刻でも早く情報を手にいれて、あ
いつを探しに行かなくちゃいけない。その時まで、万が一でもウィルスに冒される訳には
いかないんだよ」
 克己は隆史から目線を外そうとはしない。
 ただ伝えたいと思った。自分が今抱いている気持ちを。それから隆史にも同じような想
いを抱く相手がいるはずだろうと。
 克己は今まで意識してはこなかった。本当は日常の中で、少しずつ育んでいく事になっ
たのかもしれない。だけど今、克己の中で急激に大きく広がっていた。
 好きな人がいる。
 守りたい人がいる。
 克己の中で茜の事が強く浮かび上がっていたのは、あるいは当然の事だったのかもしれ
ない。
 克己にしても友達同士でいさかいを起こしたくないと思っている。全員が無事でいてく
れたらいい。そう願ってもいる。
 それでも無意味に感染する訳にもいかないのも事実だった。英司の言う事は一見冷たい
かもしれないが、真理をついている。
 それに逆も言えていた。自分がすでに感染しているかもしれないのだ。そうだとすれば、
自分が誰かの命を奪ってしまうのかもしれない。それは克己にとっては耐えられない事だっ
た。克己も友達を大切に思っているからだ。
「わかった。今はとにかく視聴覚室に行こう」
 隆史はゆっくりと頷いて、握りしめていた拳を開く。他の皆はもう何も言わない。
 もっともいつもの英司なら、ここで嫌味の一言でも言いそうなものではあったが、流石
に今はこれ以上続けようとはしなかった。
 寛二が隣で安堵の息をついている。
 克己は皆を横目で見つめながらも、ただ本当は心の中で焦りを感じずにはいられなかっ
た。
 それでも何とか心を落ち着かせようとして、大きく息を吸い込む。
 視聴覚室に向かう理由は情報を得るためだけでもない。あの辺りはいろいろな特別な教
室が集まっている。茜達が会議の為に集まった教室も、それほど離れてはいない。もしも
まだ茜が教室に残っているとすれば、見つけられるかもしれないという考えもあった。
 こんな時に気が付かなくてもよかったのに。心の中で呟く。
 克己は、今まで茜の事を強く意識した事はなかった。ただ話していて楽しいと、いや、
それ以前に幼い頃から一緒にいて、そばにいる事が当然のように思っていただけだった。
 離れてしまって、もしかしたらもう二度と会えないかもしれないと思うに至って、初め
て茜の事を意識していた。
 どの程度ウィルスが広がっているのかはわからない。しかしもしも学校の中に感染者が
いたとすれば、かなりの人数に広がっている事だって考えられた。
 寛二のように震えてはいないものの、克己だって恐ろしく感じている。克己が普通に行
動していられたのは、死ぬという事がどんな事なのか、未だにはっきりと理解出来ずにい
るだけなのかもしれない。
 それでも会えなくなるかもしれない。自分が死ぬかもしれない。茜がいなくなるのかも
しれない。隆史の知人の一言は、克己の中に急速に恐怖を呼び起こしていた。
 ただし同時に決意をも、克己に呼び起こしていく。
 視聴覚室に行くと決めた時は、まだ全てを飲み込んでいた訳ではなかった。英司の言う
情報を得る為にはどうしたらいいと、それだけを考えていたに過ぎなかった。
 それでも今、死ぬと言う言葉を突きつけられて、初めて心を決めていた。
 ただ守り通そうと。大切な人を守ろうと。
 他の誰でもない。好きだと思えた人を。
「いこう」
 呟いたその声は、少しだけ疲れを感じさせるが、それでも後向いた心は含まれていない。
「う、うんっ。そうしよう」
 寛二が大きな声で返事をして、隆史と英司の二人もただ素直に頷いていた。
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