さよならの鎖 (02)
「セーフっ」
 同時に大きな声が響いて、ショートカットの女の子が元気よく飛び込んできた。クラス
メイトの一人、坂上優だ。
 この声も毎日の儀式のようになっていて、聞かない日はまずないくらいのものだった。
「ふぅ。今日も遅刻せずに済んだ。あぶないあぶない」
 言いながら教室の時計を眺めると、時刻は八時二十八分。すでに予鈴も鳴り終わってお
り、いつ先生がきてもおかしくない時間に変わっていた。
 隆史が時計の針を確認したかと思うと、優の方へと振り返り、呆れ声で呟く。
「おい、優。おまえ、たまには余裕をもってきたらどうだ」
 声をかけられた優の背は、克己よりもさらに小さい。いやクラスの女子の中でも一番低
くて、わずかに一四三センチしかなかった。その為に隆史と並ぶと、年よりもさらに幼い
ように感じさせた。
 優はやや眉をつり上げて、そのまま隆史のすぐ隣まで歩み寄る。
 それから息を大きく吸い込んだあと、隆史の顔を思い切り睨み付けていた。
「うっさいな。ボクが何時にこようと、遅刻してないんだからいいだろ。隆史に言われる
筋合いはないねっ」
 優は半ば食ってかかるように告げると、そのまま隆史の足下を思いっきり蹴飛ばしてい
た。ガンっと鈍い音が響いて、とたんに隆史が飛び跳ねる。
「いてっ、何しやがる」
 隆史はそのまま優へと睨み返すが、優はふんっと鼻息を漏らして勢いよく言い返す。
「蹴ったんだよ」
「だから蹴るなっ」
 二人は激しく睨み合うが、それも殆ど毎日の事だった。
 さすがにあまりにお約束と化しているので、克己も二人を止めようとは思わない。
 克己は軽く肩をすくめてみせると、茜の方へと振り返る。
 もっともその克己も、隆史とは同じように毎日言い合っている。もしかすると隆史には、
どこか言い合わずにはいられない雰囲気があるのかもしれない。
 ただその喧嘩はいつも可愛いもので、逆にお互いの仲を深めている。言いたい事を言い
合えるような間柄というのも、良い物かもしれないなと克己は思う。
 まだ言い合いを続けている隆史と優の二人は、克己と茜の二人と同じように、小学校か
らの仲らしい。克己達と違うところがあるとすれば、二人は話せばいつも喧嘩ばかりして
いるところだろう。
 もっとも克己と茜の二人も、時々言い合うような事があるのを考えれば、あまり変わら
ないとも言えるし、喧嘩するほど仲がいいとも言えた。
「お。あかねっ、佐藤おはよ」
 いつのまにか喧嘩は終わったのか、優が克己達へと大きな笑みを見せていた。
 快活な笑みは、見ているだけで場を明るくさせる。その小さな体のどこに秘めているの
か、いつでも優は元気たっぷりでパワーにあふれていた。
「おはよ、坂上」
 克己が先に声を返すと、それから茜が机の上に腰掛けたまま軽く手を振っていた。
 茜と優の二人はかなり仲が良いみたいで、いつも何かにつけて一緒にいる。
 一見人形みたいで、でもその実かなり適当で面倒くさがりの茜と、いつも元気がよくて
なんでも率先してやるようなタイプの優。克己にはこのいまひとつ似ていない二人が、ど
うしてうまくいくのか不思議ではあったが、二人は全くそんなことを疑問には思わないよ
うだった。
「優ちゃん、おはよ。今日さ、委員会らしいよ。覚えてた? 優ちゃん、美化委員だった
よね。どーせ隣でやるんだろうし、放課後は一緒にいこ」
「あ、うんうん。ちゃんと覚えてっから。ってか茜の方こそよく覚えてたよね。いつもは
忘れてんのに」
 優は心底驚いた顔で茜の顔を見つめていた。むしろ逆の意味で信じられていたようだ。
 しかし机の上とは言え、腰掛けた茜よりも優の方が目の位置が低い。それがなんともお
かしくて、克己は軽く笑みを浮かべていた。
 ただ二人はその笑みには気がついていないようで、そのまま話を続けている。
「やっだな、優ちゃん。もちろん忘れてたに決まってんじゃない。さっき聞いたから思い
出しただけだって」
「なるほどね、やっぱりか」
 茜のどうしようもない主張に、優は腕を組みながら頷いていた。
 それで納得するのはどうなんだと克己は思わなくもないのだが、二人の間ではこれが当
たり前の事らしい。
 二人はその後もしばらくおしゃべりを続けていたが、どうにも入っていく事が出来なく
て克己は少し椅子を引いて溜息をついた。
 と、再び扉が開く。
 入ってきたのは浩介の姿だった。
 野球部に所属している浩介は、いつも朝練を済ましてからくるため、教室に入ってくる
のは遅い。克己のいる弱小サッカー部とは違い、野球部は県内ベスト4に進出するほどの
強豪だ。その分練習も厳しいものがあるのは、サッカー部には朝練がないのと比べれば明
らかだった。
 浩介は克己のように背も低くないし、かといって隆史のようにのっぽでもない。平均よ
りは少し高い方かもしれなかったけれど、取り立てて言うほどのものでもなかった。
 ただ野球部だけに髪は短く切りそろえていて、しっかりした体つきがいかにもスポーツ
マンといった雰囲気を見せていた。もっとも浩介はその割にどこか真面目で、ついでに少
しだけ気が小さそうにも見える。
 実際浩介は非常に真面目で、野球だけでなく勉強の方もしっかりとやっているようだ。
例えば宿題を忘れたりしたところを見た事がない。
 家に帰ってからも素振りと予習復習は欠かさないらしく、克己から見ればまるで神のよ
うな存在にすら思えた。
 ただ性格が大人しいのが玉に瑕で、そのせいか野球部でもレギュラーはとれていない。
成績も悪くはないが、特別にいいと言う訳でもないから、たまにそれだけやっても駄目な
のかと馬鹿にする奴もいた。
 しかし克己はそんな浩介が嫌いではなかったし、席が真後ろだと言う事もあってよく話
していた。お互いにうまくやっていけていると思う。
「よ、浩介。おはよう」
 克己が手を振りながら迎え入れると、浩介は軽く挨拶をして、克己の後ろの席へと座っ
た。
 茜と優の二人は目の前でまだ話し続けていたが、とりあえず熱中しているので放ってお
く事にする。
「うん、おはよう」
 浩介は相変わらず真面目そうに答えると、きちんと椅子をひいて静かに腰掛ける。物腰
も実に大人しくて、そこだけみれば本当に野球をやっているのか不思議に思えた。
 と、浩介は席に座ると同時に、いつも少しだけ振り返って教室の奥へと視線を移す。
 その先にクラスメイトの一人、赤石理恵の姿がある事を知っているのは克己一人だ。
 克己はふふんと軽く鼻息を漏らすと、克己本人は気が付いていなかったが、にんまりと
した顔を浮かべていた。
 こっそりと浩介の方へと顔を寄せて、小声で呟く。
「赤石とはどうなんだよ。いいかげん、告白してしまえば?」
 克己のこの台詞もいつものお約束のようなものだった。
 そう告げると、いつも浩介は顔を赤くして無理だよと回答してくる。浩介は性格的にそ
ういう事を簡単に告げられるようなタイプではない。克己もそれはわかっているのだけれ
ど、だからこそこうして焚きつけないと、ずっと言えないままだろう。
 もっとも克己は浩介の背中を押してやっているつもりなのだが、端からみればからかっ
ているだけに思えたかもしれない。
 ただ浩介自身もそうは捉えていないようで、その後はいつも少し考え込んで勇気を絞り
出そうとしているようだった。
 それが日常の流れなのだが、しかし今日の浩介は普段とは少しだけ違う反応を見せてい
た。
「……明日は」
 不意に浩介が呟く。その声は小さくて、恐らくは克己にしか聞こえなかっただろう。
 しかしどこか鋭くも感じられた声は、とても浩介が話したものとは思えない。
「赤石さんの誕生日なんだ。だから、明日こそ言おうと……思ってる」
 続いた台詞は少しだけ震えていたが、それでもはっきりと告げていた。
 それから浩介はもういちど理恵の姿を横目で見つめる。
 克己はあまり理恵とは話した事がなかったから良くはしらないが、おさげの似合う少し
ばかり大人しい女の子だった。クラスの中ではあまり目立つ存在でもないけれど、どこか
家庭的な雰囲気と、ときどき見せるはにかみが可愛らしいとは思う。
 浩介もどちらかといえば真面目でシャイなところがあるから、とてもお似合いの二人か
もしれない。
 しかし浩介がこうして勇気を振り絞る事に決めたのは、克己にとっても喜ばしい事だっ
た。思わず笑顔が浮かんで、素直に応援してやろうと思えた。
「そうか。がんばれよ。期待してるよ」
 克己も小声で答えると、浩介はうんとさらに微かな声で呟いていた。恥ずかしそうに少
し体を縮めていて、照れた顔で俯いている。
 不意に茜が怪訝そうな顔をして見つめていた。いつの間にか優は自分の席に戻っていて、
茜はまた一人で机の上に腰掛けている。
 じっと見つめてくる茜の視線は、やっぱりどこか人形のようで、微かに首を傾げた瞬間
に始めて血が流れたかのようにも思えた。
 茜はこうして机の上に腰掛けている時には、殆ど身動きしない。だからこそ、そんな風
に感じるのかもしれなかった。
 茜がゆっくりと口を開こうとして唇が揺れる。しかし茜が何か言葉を継げる前に、始業
を知らせるベルが鳴り響いていた。
 克己は茜が何を告げようとしていたのかはわからなかったけれど、何となくほっとした
ような気もして息を吐き出す。
 それとほぼ同時に、音をたててドアが開いた。
 担任の近藤先生が、ゆっくりと教室の中へと入ってくる。
「こら、おまえら。もうHRの時間だぞ」
 入り口近くにたむろっていた数人の頭を優しくこづくと、自分の席に座るように促して
いた。
 近藤先生はどちらかといえば若い先生で、恐らくは二十代後半程度の年頃のはずだと思
われる。しかし克己達はいちど先生の年齢を聞いた事があったが、はぐらかされて教えて
はくれなかった。
 案外、見た目よりも年がいっているのかもしれない。
 しかし先生と言うよりも頼れる兄貴といった雰囲気で、男女問わずに人気があった。
「みんな席についたか。じゃあ西野」
 先生は辺りを見回して茜の名字を呼ぶ。
 茜はいつの間にか自分の席に戻っていて、少しは委員長らしい声で『起立』と号令をか
ける。
 平凡な朝の始まり。
 今日もこうして平和な一日が過ぎると、この時は誰もが信じていた。だけどすぐに平穏
な日々が崩れ落ちようとは、誰も知らなかった。
 ごく一部の人間を除いて。
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