さよならの鎖 (01)
 死にたくない。
 克己は声には出さず呟く。
 すでに街の中にはウィルスが蔓延しているようだった。道ばたに倒れ異常なまでに発熱
し、汗を漏らしている人が何人もいる。
 皆が克己の姿を見る度に、助けて、助けて、と繰り返す。
 もはや彼らは動く事すらままならない。すぐにでも治療しなくては、間違いなく命が失
われるだろう。
 だけど手を貸す事は出来なかった。
 殺人ウィルスHOPE。
 希望と名付けられたそのウィルスは、誰かに触れる事によって感染するから。
 もしも彼らを助け起こせば、克己も死ぬ。
 彼らは見るだけで、保菌者だとはっきりと分かる。だから触れる訳にはいかなかった。
 助けて、と懇願する瞳が痛いほどに突き刺さる。それなのに何一つする事が出来なかっ
た。
 克己は一介の中学生に過ぎない。医者でもなければ、このウィルスを散布したテロリス
トでもない。テロによって、この街は完全に封鎖されてしまっている。克己に出来ること
は何もない。
 だからといって、彼らを見捨てて去るにはあまりにも良心が苛まれた。
 助けて助けて助けて。
 その声は本当に彼らが発しているのか、克己にはもうわからない。もしかすると、克己
の心が生み出した幻聴なのかもしれなかった。
 だけど死にたくなかった。
 まだ死ぬわけにはいなかった。
 克己は目をつむって、彼らには近づかずに駆けだしていく。
 それと同時に、今度は怨嗟の声が流れ続けた。
 人でなし。偽善者。お前も死ねばいいんだ。
 苦しい苦しい苦しい。
 どうしてお前は平気なんだ。なぜ立っていられるんだ。
 死ね、死ね、死んでしまえ。
 どうして俺だけが死ななきゃいけない。
 お前はなぜ生きている――
「うわぁぁっ」
 思わず叫んで、克己はそのまま走り抜ける。
 喉の奥が張り付くほど乾く。
 どうしてこんな事になってしまったのか、克己にはわからない。
 ただどこかに救いがある事を信じて、彷徨い続けていた。
 朝までは、何一つ変わらない日常だったというのに。どうしてこんな事になってしまっ
たのか。
 克己は、目をつむって今日という日を振り返る。










一.日常は壊れ踊る

「ねぇ、今日って雨降るかな」
 茜は教室の窓から、空を眺めながら呟く。
 夏らしい湿ってべたついた風は、涼しいというよりもどこか暑苦しい。空に満ちた雲は
暗く、確かに雨を予感させた。
 窓からの風が、茜の肩よりも長い、まっすぐな髪を揺らす。髪が克己の鼻先を掠めると、
微かにシャンプーの甘い香りを残していた。
 克己にはそれがどこかくすぐったく感じて、思わず苦笑を浮かべる。
 茜はいちばん窓よりの机の上に、足を伸ばして腰掛けていた。その机は克己の机でもあっ
て、すぐ目の前に茜の体が見える。
 夏らしい白のセーラー服の上に、黒のサマーセーター。一本紺色のラインが入った白い
襟と、ワインレッドのリボンタイを覗かせている。プリーツの入った濃紺のスカートは、
やや膝よりも短い。その分素足が机の上に伸びていて、目のやり場に困った。
 いつものことだけれど、こうして見ていると、どこか照れくさく感じなくもない。
 一方、克己の方と言えば、ごく普通の黒の学生服だ。ただし少しサイズが大きいのか、
どこかぶかっとして見えた。もっともそれは克己の背が、標準よりも小さいせいかもしれ
ない。
 克己の身長は現在のところ一五二センチしかない。中学二年生の身長平均が、一六〇を
超えている事を考えれば小さい方だと言える。
 実際、克己は茜よりもやや小さいくらいだ。克己の見た目が年齢よりも子供っぽく見え
るのは、身長のせいもあるかもしれなかった。
 その克己の席はちょうど窓と窓の間にあって、茜はそこにある壁に背を持たれ掛けてい
る。開いた窓からは少し離れているから、まさか落ちはしないとは思うものの、それにし
てもあまりいい態度とは思えない。
 けれど茜がこうして座っていると、まるで端麗な人形がそこに飾られているかのようだっ
た。粗暴な態度のわりに全く乱暴さを感じさせないのが、克己はいつも不思議に思う。
「今日は珍しく曇っているから、一雨くるかもな。天気予報は何ていってたんだ」
 克己は少し眉を寄せながら、外を見つめる。
 克己はあまり細かい事を気にしないから、天気予報はまともに見た事はない。雨が降っ
たら降ったで、その時考えればいいと思っているような性格だ。だからこそ自分の机の上
に人が座っていても、それほどには気にしていないのかもしれなかった。
 茜は少しだけ眉を寄せると、微かに首を傾げる。そこに座っているだけだと、やっぱり
人形のように整って見えた。しかしこうした姿を見ていれば、年相応の女の子らしく思え
た。
「今日は天気予報みてないんだよね。てのもさ、なんかうちのテレビ調子悪くって雑音ばっ
かでさ。めいっぱい叩いてみたんだけど、直らなかったの。もう、あのテレビ買ったばか
りなのにな」
 茜は呟くと、素直に怒り顔を浮かべてむくれていた。こうして感情がストレートに出る
のも茜らしいところで、話し始めると整った雰囲気よりも明るさの方がより目を引いた。
 話し始めるところころと表情が変わるのが、茜の特徴と言えるかもしれない。
 ただ逆に言えば喋らないでいるとき、どこか物憂げで表情を失っているから、人形のよ
うに思えるのだろう。
「茜。お前さ、相変わらず乱暴だよな」
 だから茜には、常に話し続けていて欲しいと克己は思う。いつも少し意地悪に感じるか
もしれない言葉をかけてしまうのは、その為かもしれなかった。
「そうでもないと思うけど。だってテレビって、叩けば直るもんじゃない」
 しかし茜は楽しそうに笑うと、足先を軽くぱたぱたと動かしていた。
 茜はいつも表情がころころと変わるけれど、あまり怒ったところは見たことがない。い
つもうまく話を流して、悪いようにはしない。
 そういう部分が良くも悪くも大人だと、克己は考えていた。
「でも、雨降らないといいけどね」
 茜は窓の外の方へと顔を向けて、もういちど呟く。
 ただ曇り空は、あまりいい予感はさせなかった。これから崩れていくだろう姿を、示し
続けているだけだ。
「雨が降らなけきゃ、それに越したことないけどな。雨ふりのグラウンドで練習試合なん
てやりたくないし」
「どうせ克己は補欠なんだから関係ないんじゃないの」
 茜はにやりと口元を歪ませて笑うと、克己の肩を軽く叩く。茜は時々こうして憎まれ口
をつく事もあった。
 しかし克己にとって、もうそれは日常の一部のようなもので、お互いに受け止められる
程度の会話でしかない。
「あのな。こう見えても、俺はサッカー部のエースストライカーなんだって」
「ほー。エースね。泣き虫かっちゃんっていえば近所では有名だったのに、少しは成長し
たのかしらね」
 茜は再び口元を歪ませて、机に腰掛けたまま克己の肩をぽんぽんと叩いた。
「その名前で呼ぶなって。もう昔の俺じゃないんだ」
 少し顔を赤らめながら、克己は茜から顔を背ける。昔の事をひっぱりだされるのは、や
はり少し気恥ずかしかった。
 克己と茜の二人は小さな頃から近所に住んでいる、いわば幼なじみだ。茜に言わせてみ
ればただの腐れ縁で、こうしてクラスまで一緒になったのは災難としか言いようがないら
しいが。
 それでも一年の時はクラスが離れていたから、少し疎遠になっていたとは思う。だから
またこうして話せるようになった事は、少なくとも克己には嬉しい事だった。
「とにかく雨が降るかどうかは知らないよ」
 照れ隠しも含めて、わずかに視線を逸らしたまま克己は呟く。
 そんな様子に茜は、くすくすと笑顔をこぼしていたけれど、克己はそれには気がついて
いないふりをしていた。
「ま、克己が雨降りで泥まみれになってる中、私は優雅に家でコーヒーでも飲んでるもん
ね」
 茜は意地悪そうに口元を歪ませて、再び克己の肩の上を軽く叩いた。
 毎日のようにこうして話していたけれど、克己にとってはそれがどこか楽しくて、ずっ
とこの日々が続けばいいのにと願う。
 と、同時に克己の右側、茜の目の前に影が差した。そのまま横手から声がかけられる。
「あ、委員長。今日、委員会あるから帰るとまずいと思うぜ」
 見上げると、クラスメイトであり親友でもある隆史が、いつの間にか隣にやってきてい
た。
 隆史は中学生にしてはかなりの長身で、すでに一七五は軽く越えている。克己は背が低
い方だから、隆史と並ぶと余計に小さく見えた。
 克己はいつもその背の高さを羨ましく思うが、しかし隆史にしてみれば高すぎる背を邪
魔くさく思っていたので、お互い様だったのかもしれない。
 その隆史が委員長と呼んだのは、他ならぬ茜の事だった。机の上に腰掛けている茜が委
員長だなんて、普通に考えればとてもそうは見えない態度だ。しかし茜が委員長なのは本
当の事で、嘘や冗談などではなかった。
「え、ほんとに」
 しかし当の茜は完全にその事実を忘れていたようで、大きく目を開いて聞き返していた。
もっともそれもいつもの事で、克己はまたかと軽く思っただけだったが。
「ああ」
 隆史がぶっきらぼうに答えると、茜はさらに眉間に皺を作って訊ね返す。
「えー。ほんとにほんとなほんとのほんと」
「いや、そんなに聞き返されても。だいたい嘘いってどうするんだ」
「うわ、めんどい。井口くん、代わりにでといて」
「なんでだっ」
 隆史が驚きのあまり、大きく抗議の声をあげていた。それもそうだろう。隆史だって放
課後はやりたい事があるだろうし、そもそ委員会といった話し合いは得意そうには思えな
い。隆史も会議になど出たくはないだろう。
 そもそもそれは茜の役目であり、人に任せようとしている事自体が間違いなのだが、い
まさら茜にそんな事を告げても仕方がない。
 もっともその当の茜にしてみても、話し合いが得意そうにはとても思えなかった。それ
よりも力尽くで屈服させる方が似合いそうではある。
「いや、なんでって。雨降りそうだし、面倒くさいから」
 茜はいともたやすく、ろくでもない事を言い放っていた。
 克己は溜息を漏らしながら、茜の顔をじっとのぞき込む。
「おまえ、よくそれで委員長に選ばれたよな」
「私も何で自分が委員長なのか、ときどきわかんないのよね」
 茜は軽く首を傾げていたが、どうして茜が委員長になったのかは克己にはわからない。
 もっとも今は一学期だから、クラスの委員は全て担任が指定しただけだ。クラス投票な
どがあった訳ではないから、成績だけみて選んだ可能性もある。
 実際、茜をよく知っていれば、委員長に任命しようだなんて誰も思わないだろう。茜の
生活態度はどちらかといえば不真面目で、よく授業中も寝ていたりするし、下手すると授
業をさぼる事すらある。
 それでもなぜか成績はいつもトップクラスなのだから、よほど要領がいいのだろう。
「それにしても隆史。当の本人が忘れていたような事をよく覚えていたよな」
 克己は感心まじりで訪ねる。
 けれど隆史はわずかに苦笑して、そうだなと答えただけだった。どこか普段の態度と違
う返答に、克己は首をひねる。何か言いたくないようにも感じられた。
 それでも克己はあまり気にせずに、ふぅんと呟いただけだった。
 しかしこうして隆史の顔を眺めると、どうしても見上げる形になるのが少しだけ悔しい。
ただ当の隆史はそれについて特には何も感じてはいないようで、克己の視線に軽く首を傾
げる。隆史はそれから少しの間を置いて、やや早口で話し始めていた。
「ま、それにしてもおまえら相変わらず一緒なのか。なんつーか、らぶらぶだよな。羨ま
しいというか、あてられるというか」
 隆史は呆れた顔で呟いていた。
 突然の台詞に、克己は慌てて声を上げながら立ち上がる。
「ちょっとまて。誰がらぶらぶだよっ」
「いや、だからお前ら」
 隆史が二人を指さした瞬間、克己は顔が熱くなるのを感じて、思わず声を大にして否定
していた。
「違うっ。別に俺達はそんなんじゃ」
「じゃあ、どんなんだ」
「どんなもこんなもねぇ。つか、お前こそ坂上とどうなんだよ」
「なんで優がそこで出てくる!?」
 克己の言葉に、今度は隆史が思わず声を荒げると、目をつりあげて睨み付けていた。
 克己も負けじと視線をぶつけて火花を散らしあう。
 体格では完全に隆史の方が勝っていたが、眼光の鋭さと気の強さでは克己も決して劣っ
てはいない。二人の勝負は全くの互角で、このまま時間ばかりが流れるかと思えた。
 しかしそれを断ち切るように、茜が鋭い声で呟く。
「こら、うっさい、凸凹コンビ。毎日、同じネタで喧嘩すんじゃない。いいかげん、その
ネタはつっこむ気が失せた」
「でこっ!?」
「ぼこっ!?」
 二人は同じように目を大きく開いて、お互いを見つめ合う。間抜けな顔はそっくりだっ
たのだが、克己は全く気がついていない。
『こいつと一緒にすんな』
 そして次に告げる台詞まで重なっていた。やはり二人は似たもの同士なのだろう。
 と、不意に教室の扉が開く。
Next
良かったら読んだ感想を下さい!
タイトル
お名前 (必須)
メール

★このお話は面白かったですか?
すごく面白かった  面白かった  まぁまぁ面白かった  普通
いまいち  つまんない 
★好きな台詞があれば


★印象に残ったシーンがあれば


★その他、感想をご自由にどうぞ!