不思議の国の異邦人 (07)
「やめろ! なんであんたは俺を狙うんだ!? あんたは真理の仲間なんじゃないのか?
 そもそも俺に力があるなんて思い違いもいいところだが、それでも狙うなら俺だけにし
ろ。ありすや梨花を巻き込むな」
 高人は大きく手を広げて梨花の前に立ちふさがると、エルの顔を鋭い目つきで睨み付け
ていた。
 しかしエルは口元に微かな笑みを浮かべただけで、何も告げようとはしない。
 それでも高人の方へと向き直って、梨花からは視線を逸らす。もはや梨花は警戒するほ
どもないと高をくくっていたのかもしれない。
 エルは髪を軽くなびいて、それからもういちど笑みを浮かべる。
「私は真理様の仲間じゃないわ。ただ無理矢理結ばされた契約に縛られて動いているだけ。
だから真理様の命令には逆らえないし、真理様の意に背く事も出来ない。でもね、貴方の
持っている力があれば、私は真理様の力を越す事が出来る。そうすれば、私は自由になれ
る。だから貴方の力が欲しい。――こんなところで貴方を手にいれたい理由は満足してく
れたかしら?」
 エルの表情が一瞬だけ凍り付く。
 笑顔が消えて、静かなほどに冷たい瞳を高人へと投げかけてくる。
 それは本当に瞬くほどの時間だったけれど、高人の心を凍てつかせるには十分すぎた。
 エルの顔に笑顔が戻って、ゆっくりと腕を差し出してきたそれだけで、高人は体を震わ
せていた。
 怖い。確かにそう思えた。
 それでも、高人は前を向いていた。いまここで後ろに下がる訳にはいかないと、なぜだ
か強く感じていた。
「なるほどな。いや、なんだかはよくわからないけど。とにかくあんたが曲げる気がないっ
ていう事だけはわかった。それでも、それでもだ」
 高人は次第に声を強めていく。
「俺は、俺の仲間を誰も傷つけさせない。傷つけて欲しくない。あんたがそうしようとい
うなら、俺は」
 声が微かに震えていた。
 まだ怖さを完全に拭いとった訳ではないのだろう。
 高人はだけど、はっきりと告げる。
「みんなを守る」
 高人の呟きと共に、不意に風の音が止まった。
「え?」
 漏れたのはエルの呟きだった。
 エル自身、自分が声を発した事にも気が付いていなかっただろう。
 エルの放っていた風が急激に止まり、やがて高人の周りに集まり始める。
 高人が両手を大きく空に掲げると、風がそれに合わせて動き始める。
 高人は自分の中に力が込み上げてくるのが、はっきりとわかった。風が意のままに動い
ていく。力が確かにみなぎる。
 この力がエルの言う、誰かの力を増す事が出来る能力なのだろうか。それが逆にエルの
力を奪っているのだろうか。高人にはわからない。
 それでも今、エルが使っていたような風を操る力を、自分が手にしている事だけは理解
していた。
「風よ!」
 高人の叫びに合わせて、風が舞い起こる。
「そんな!?」
 エルの声からは、先程までの冷静さはまるで失われていた。
 高人によって力を奪われるなんて事は、全く考慮していなかったのだろう。高人が持っ
ている力は、確かに真理の言う通り選ばれた力なのかもしれない。みるものにそう思わせ
るだけの力を、高人はいま振るっていた。
 風はエルを捉え、抑えつけていく。
 エルは霊遣いである。霊遣いとは、精霊を友として、その精霊の好意によって力を振る
う事が出来る存在だ。
 しかしそんな力ですらも奪い取り使う事が出来るとすれば、どんな力でも立ち向かう事
は不可能だろう。
 あるいは真理の言うセレクタだけは異なるのかもしれないが、今の高人にはわからない。
ただ自分が大きな力を持っている事に気が付き、そしてその事に酔いしれているだけで。
「エル! もうお前の力は通用しない。俺と、俺の仲間達を傷つけるな」
 高人は言い放つと、風をエルへと差し向けていた。
 風はエルを思い切り打ち付けていた。
 エルの短い悲鳴が響き渡る。それでも風はエルを容赦なく襲う。エルの体を舞上げ、幾
度となく地面へと叩きつける。
「まだまだっ!」
 叫んだ高人の瞳が、次第に色を失っていく。そしてまるでウサギか何かのように赤く染
まり始める。
 それに伴って高人の中から、何か高揚とした感情が浮かび上がっていた。
「いやっ!」
 エルが叫ぶ度に、ぞくりと胸の中が震えだして歓喜の声を上げる。
「もっと……もっとだ!」
 高人は風を再び叩きつける。
 その瞬間、エルの体はまるでぴんぽん玉のように地面に受け付けられて跳ねる。
「やめ……」
 エルの喉からはもうまともに声が紡がれない。ただ切れ切れに言葉を発するだけだ。
「高人くんっ。やりすぎだよ!」
 玲央が高人の腕を掴んで、引き寄せていた。
 だが高人の胸の中からは、何も消え去ろうとはしない。高人はもういちど力を振るおう
として、大きく手を振り上げていた。
「やめてっ、やめてっ。そんなことしても、ありすちゃんだって喜びなんてしないよ!」
 玲央が高人の手をつかんで、大きく叫んだその瞬間。高人の中に満ちていた、歪な悦び
の感情が一気に消滅していく。
「俺は……何を?」
 自分でいま何をしていたのか、はっきりとわからなかった。いや力を振るった事も、そ
の力でエルを地面へと叩きつけた事も覚えている。しかしその時に生まれた感情が、皆を
守りたいという気持ちだったかどうか。それだけが記憶に残っていない。
 力を振るい始めたと同時に、何か違う感情が自分の中を支配していった気がしていた。
自分が自分で無くなったかのような、そんな感覚すら残っている。
 いま玲央が止めなかったら、もしかすると高人はエルを殺していたかもしれない。どち
らかというと高人はお人好しの方で、喧嘩はするけれど、一方的ないじめなどは嫌ってい
た。
 しかし今は誰かを守ろうとする感情よりも、圧倒的な力でエルをなぶる事に愉しみを見
つけ出していた。黒い感情が支配していた。
 力の影響なのだろうか。高人にはわからない。しかし力を振るえば振るうほど、自分の
中の感情が変わっていた事だけは確かだった。
 高人は能力の使い方なんて、当然理解していない。不意に目覚めた感覚に身を任せただ
けだ。
 その為、力が心に作用してうまく制御出来ずにいるのかもしれなかった。
「大丈夫……か?」
 エルに向けて声を掛ける。
 見た感じからすれば、それほどひどい怪我にはなってはいないように見える。しかし体
を強かに打ち付けられた事は事実で、全く傷を負っていないなんて事もないだろう。
 エルは軽くこめかみを押さえて、それから大きく息を吐き出していた。
「ええ。おかげさまでね」
 皮肉っぽく呟くと、ややよろめいた足つきではあるものの何とか立ち上がる。
「正直、こんな風になるなんて思ってもみなかった。私もまだまだ未熟ね」
 エルが軽く指先を振るうと、再び風が舞い起こりエルの服についた汚れを払っていく。
「そして真理様がどうしても味方につけたい理由もわかったわ。力を増す事も奪う事も出
来るのなら、貴方一人の存在がどんなに心強いものになるか――来たる時への備えとして
ね」
「え、きたろうへの備え?」
 玲央がぽつりと呟く。どうやら高人が戻った安堵のあまり、話を半分しか聞いていなかっ
たらしい。
「……どこかの妖怪に備えてどうするのよ」
「俺もそう思う」
 高人は頭を抑えながら溜息をついた。なんだかシリアスなシーンも、こいつらといると
長持ちしやしねぇ、と心の中で呟く。
 そこに梨花がやはりよろめきながらも、なんとか立ち上がってくる。やっと体を動かせ
るようになったのだろう。
「敵の女には気をつかって、私には大丈夫かと聞かないのか?」
 梨花は少しばかり機嫌が悪そうに見えた。
「いやっ、そんなことはないですよっ。梨花さんっ」
 普段よりもかなり下手に出て、ぺこぺこと頭を下げる。
 こんな時の梨花は、見た目以上に機嫌を損ねている。もしほんの少しでもこれ以上、梨
花の気を害そうものなら、たちまち火山が噴火するがごとく怒り狂うのは目に見えていた。
「梨花さんが、もう、それはそれは心配で心配でっ。思わず暴走してしまったのも、その
せいでげさ!?」
 慌てた為か言葉遣いがおかしくなっていた。
「その変な喋り方はやめろぉぉぉぉっ!」
 それだけで梨花の頭は沸騰してしまったらしい。どうやらすでに臨界点は突破していた
ようだ。
 梨花の拳が猛スピードで高人を捉えようとする。しかもうっすらと輝きを増していると
ころをみると、どうやら先ほどの思念とやらをまとっているらしい。
「冗談じゃねぇ!? 死ぬっ、そんなの受けたら死ぬからっ!」
 高人は必死の形相で身をよじると、なんとか拳をやり過ごす。
 しかし高人を捉え損なった拳は、地面へと振り下ろされて土が一気に爆砕する。
「うわ、すごいね」
 少し離れた場所で玲央がぽつりと呟いていた。
「すまん。とにかく俺が悪かったから許せっ、いや許してくださいっ」
「いーや、ゆるさん。そこに直れっ。一発殴らないと気がすまん」
 梨花は拳に再び力を入れる。
 かなり目が本気になっていた。
 このままではせっかく助けた梨花に殴られて、撲殺される事になりかねない。
 なんとかしなくてはと、高人は精一杯頭を回転させる。そして不意に思いついた言葉を、
そのまま考えずに口にしていた。
「梨花っ。そんな目をしたら、せっかくの可愛い顔が台無しだぞっ!?」
「なんだと!?」
 梨花の声がさらに張り上がる。
 しまった、余計に怒らせたかと心の中で呟くと何とか言い訳を考え始める。
「ふ……ふふ」
 零れる笑みが、むしろ怖い。
 逃げるが勝ちかと振り返ろうとした瞬間。
「そうか。可愛いか。そうか、うむ」
 うんうんと頷いて、微かに頬を染めている梨花の姿が見えた。
 どうやらあんな褒め言葉でも効果てきめんだったらしい。
 梨花もよくわからない奴だよなと思いながらも、高人は大きく息を吐き出した。ひとま
ず撲殺される事だけは無くなったようだ。
「とにかく、だ。エル、あんたも俺達にはもう手を出すな。見た通り俺には相手の力を奪
う能力もあるみたいだ。なら俺には敵わないだろう」
「……そうね。やっぱりセレクタを持たない私じゃあ無理だって事かしらね」
 エルは呟いて、それから首を振るう。
「で、私はどうしたらいいかしら? 曲がりなりにも私は貴方に敗れた。好きなように処
分して頂戴」
「いや、別にどうこうするつもりはねーけどな。俺達にちょっかいをかけなければそれで」
 高人は微かに眉を寄せて、エルの顔をじっと見つめていた。
 そもそも高人はどうするもこうするも、降りかかってきた火花を払っただけだ。あまり
敵対意志のようなものは持ってはいない。
「甘いわね。一度敵対したものを許せば、いつかは足をすくわれるわよ」
 エルはどこか怪訝そうな顔をして告げると、そのまま背を向けて歩き始める。
「どうするつもりもないなら、私はこの場は立ち去らせてもらうわ」
「ああ、好きにしろ」
 高人は答えて、それからエルの姿をしばらく見送っていた。
 エルは何も気にしないかのように、そのままどこかへ立ち去っていく。そしてやがてエ
ルの姿が見て取れなくなると、高人は大きく息を吐き出していた。
「……すっげー怖かった……」
 心底安堵した声で呟くと、そのまま地面に座り込む。
 気を張り続けていたが、高人は所詮はただの一般市民に過ぎない。エルのような力を持
つものを前にして、まともに対峙し続けられた事が奇跡に近い。
 高人が持つ選ばれた力の影響で、心が安定していなかった事も、今は逆にいい方向に働
いていたのだろう。
 高人は開いた自分の手をじっと見つめると、すぐに閉じて拳を握る。
「高人。それでこれからどうするつもりだ」
 梨花が不意に訊ねかけてくる。
 どうしたらいいのか、高人自身にだってわからない。何が出来るのかもはっきりとはわ
からない。それでも高人は殆ど間を置かずに答えを返した。
「今度は俺がありすを連れ戻しにいく」
 高人は館のある方角を、じっと見つめ続けていた。
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