不思議の国の異邦人 (15)
 教室のドアを開けると、そこはごく普通の部室だった。
 雪国でも南国でもなく、何も姿を変えない、どこにでもあるありふれた教室。
 あれから高人には、待ち望んでいた平穏な日々が訪れていた。
 闇の組織も壊滅し、真理もあれから姿を見せてこない。そして高人自身も、覚えていた
力を失ってしまっていた。
 注ぎ込まれたありすの力によって、高人の力は膨らんでいった。そして本当に最後の一
滴の力が、高人の限界を越えさせていた。
 その反動で、高人の体から全てを吹き出させていた。溢れて取り戻した意識が、目の前
に倒れるありすを救おうとして、力を吐き出させたからだ。
 しかしその時の反動なのか、高人はあれからうまく力を使う事が出来ない。
 もっとも高人が待ち望んでいた平穏の為には、力なんてない方がいいのだ。高人が望ん
でいた最高の結果になったと言えるだろう。
 ただ教室の奥にあるこたつは、今もそのままだ。今日はたまたま梨花は来ていないが、
今でも梨花はこたつに入ってくつろいでいる事が多い。
 こうしていくつか残った生活用品が、かつての生活を思い起こせた。
 思えばろくでもない毎日だったけれど、どこか楽しかったような気もしていた。それも
また、高人にとっては平常の出来事に変わっていたのかもしれなかった。
 ただその日々はもう戻ってこない。
 ありすはここにいない。
 あの日、高人に全ての力を注ぎ込んで、ありすは倒れた。幸いな事に命は取り留めたも
のの、その後は意志のない抜け殻のように変わってしまっていた。
 だから、ありすは今も病院で眠っている。
 だから、この教室には誰もいない。
 図書部に残された本を手にとる。ありすが持ち込んだものだろうか。見たことのない本
もいくつか残されたいた。
『楽しい人の呪い方』
『絶対バレない呪殺の方法』
『超実践! 古代の呪法一〇八選』
 ろくでもない本ばかりだった。とりあえず見なかった事にして棚に戻す。
 それから一呼吸おいて、大きく息を吸い込んでいた。
「なんじゃあ、こりゃあああ!?」
 高人は思い切り叫ぶと、ぜぇぜぇと息を吐き出す。しんみりとしていた心が、全て吹き
飛んでしまっていた。
 最後の最後までありすらしいな、と心の底から思えた。もう聞こえる事のない声は、良
くも悪くも高人の心を奮い起こさせた。
 しかしそれももう終わりなんだなと、高人はしみじみと声には出さずに呟く。
 ありすと過ごした日々は、ろくでもない事ばかりで、だけど賑やかで、明るくて、みん
なの笑顔に満ちあふれていた。
 出来るなら。もういちど。
 高人は声には出さずに呟く。
 と、その瞬間。不意に背中から声をかけられていた。
「何って、恋のおまじない」
 つい先ほどの質問に、背中からろくでもない答えが戻ってきていた。
「絶対違うわぁぁぁ!? くそうっ、ありすの奴っ、戻ってきたら絶対許さないかんな!」
 戻ってきて欲しい。そう願いながら、もういちど叫ぶ。
 そしてゆっくりと振り返る。
 そこには。
「ほほう。どうしてくれるのかなー? 楽しみだな。でも、うん、その前に、えいっ」
 ありすは、にこやかに微笑みながら、軽く手先を振るう。
 その瞬間、ありすの指先から小さな火球が現れて、高人の尻を燃やしていた。
「あちゃちゃちゃ!?」
 高人は尻を抑えながら駆け回ると、なんとか火を消して、ぜぇぜぇと荒い息を漏らす。
 今のは一体。驚きと恐れと、それから期待の心を込めて、もういちど向き直る。
 ありすが立っていた。
 高人を指さして、笑いながら立っていた。
 以前と全く変わらない、可愛らしく笑う少女。違うところといえば、この学校の制服を
着ているくらいのものだ。
「ありす。お前なんで」
 高人は思わず呟いて、ありすの姿をまじまじと見つめていた。
 確かにありすの姿がここにある。
 戻ってこれないはずのありすは、今も確かに笑顔を覗かせていた。
「なんでって、制服届いたから、いいかげん制服着てみただけなんだけど。つか、前にも
一度着たと思うんだけどな」
 ありすは平然として言い放つと、笑いながら高人の顔をじっと見つめていた。
 全く何事もなかったかのように。
「そうじゃなくて! お前、力の使いすぎで意志を失っていたんじゃあ?」
 そう。高人へと力を注ぎ込んだはずのありすは、そう簡単に意識を取り戻すはずはなかっ
た。魔力と心は密接な関係にある。魔力を完全に失うという事は、心を完全に失うのに等
しいものがある。
 ありすは魔力を全て高人へと注ぎ込んだ。
 だからありすがここに立っていられるはずはなかったのだ。
 だけど。
「ん? あー、寝てたら治った!」
 ありすは何故か胸を張って答えると、それからくるりと背を向ける。
「ありす?」
 ありすのあまりに不自然な態度に、思わず高人は声を掛ける。
 それと同時に、ありすの背中が微かに震えている事に気が付いて、高人の胸が少し揺れ
ていた。
「たかくん」
 ありすは背を向けたまま、高人の名前を呼ぶ。
 いつものありすと違い、どこか神妙な様子に高人の心臓が、さらに激しく鼓動する。
 ありすは確かにそこに立っている。
 だけど、こうして戻ってきたものの、何か重大な障害が残ってしまったのだろうか。そ
れとも反動で、何か悪い方向に向かってしまったのだろうか。
 高人はあの時の事はよくは覚えていない。しかし腕の中に残る温もりと、倒れていくあ
りすの姿だけは目に焼き付いていた。
 だけどありすが自分を救ってくれた事だけは、高人にもはっきりとわかる。
 高人の胸の奥底に、自分の為に力を尽くしてくれたありすの心が残っていた。
 ありすの想いが、確かに感じられるから。
 だからありすが自分を助けてくれた事は、高人にとって間違いのない事だった。
 もしもその為に何か失わせてしまったのならば、高人はどんな償いでもしようと思う。
 ありすをまっすぐに見つめる。
 ありすは背を向けたまま、静かに告げ始めていた。
「あのね。あたしね、こうなってわかったの。あたしね、たかくんが」
 しかしありすの台詞は、高人の考えていた言葉とは全く違う方向に進み出していた。
 あまりにも予想外の展開に、全く心の準備が出来ていない。
 だけど、このどこか一種独特の雰囲気は、高人にもわかる。
 どこか甘酸っぱいような、だけど緊張した空気。
 こ、これは、もしかして、告白って奴か!?
 思わず唾を飲み込んで襟を正す。
 胸がばくばくと大きく揺れていた。
 そしてありすはそのまま振り返って告げる。
「すっごいむかつくっ。なんであたしが大変だったっていうのに、たかくんは完全に無事
なのかなっ。むーっ、絶対許さないんだから!」
 言いながら、高人をぽかぽかと叩き始めていた。
 再び予想外の展開に、高人は一瞬あ然として、それからすぐに痛みに我に返る。
「うわわわっ。やめろっ、やめろっ、ありす!」
 高人は声を上げながらも、少しがっかりと肩を落とす。やはりどこかで期待していたの
は、事実だったかもしれない。
 しかしこのありすのやり口は、すでに一度体験していたもので、前にも同じ手でやられ
た事があった。
 だから、もういちどひっかかった自分が馬鹿なだけかもしれないと、諦めも含めて、大
きく溜息をつく。
 たけど、高人が息を吐き出したのは、同時に胸をなで下ろしてもいたからかもしれない。
 ありすが無事でいてくれたこと。
 こうして笑っていてくれること。
 何よりも再び会えた事に、心から安堵の息を吐き出していた。
 あんなに求めた平凡な日常よりも、どこか非日常的で賑やかなだとしても、そこにいる
べき人がいてくれる事が、本当に嬉しく思えた。
 ありすはまだ何度も高人を叩き続けていた。
 ただその手にこもる力が、少しずつ少しずつ弱まっていく。
 初めは強く痛みすら感じていたのに、いまはもう殆ど触れるだけだった。
 そしてありすの手が止まると、ありすはそのまま俯いて、ぽつりと呟いていた。
「たかくんの、ばかぁ」
 小さな小さな声で漏らしたありすの言葉。
 ありすはそのまま高人の胸の中で静かに泣き始めて、何度も何度も涙を零していた。 
高人はその時やっと、ありすも少し我慢していたんだなと理解していた。
 ありすの頭に手を置いて、それからゆっくりと告げる。
「ありす、ありがとな」
「……うん……」
 ありすはもういちど涙を零しながら、高人の胸をぎゅっと掴んだ。
 そしてそれから声を震わせて、もういちど呟く。
「たかくんが……あの時私を呼んでくれたから……私も、無事でいられた」
 ありすの言葉に、高人の胸が揺れる。
 高人とありすの力の波長は殆ど同じだ。ありすの救おうとして力を想わず放っていた高
人は、無意識のうちにありすへと力を注ぎ返していた。
 だからありすはこうして無事でいられた。
 ありすの体は震えていた。
 嬉しさと心配とが入り交じった、複雑な気持ちがそうさせている。
 ありすは高人を見上げて、ゆっくりと呟く。
「たかくんが……無事でいてくれてよかった」
 ありすが戻ってきた事で、平穏は再び失われたのかもしれなかった。
 だけどその言葉を聞けただけで、もう他には何もいらない。
 高人は心からそう思えた。
「ありす」
 高人はありすの名前を呼んで、そしてその手をゆっくりとありすの背中に回そうとした。
その瞬間。
 こほん、と大きく咳が漏らされていた。
「高人。そういう事は、人がいないところでやってくれるかな?」
 梨花がいつのまにか教室の入り口に立っていた。
「うわっ、高人くんっ。やっるぅ。よっ、この色男!」
 玲央がその後から覗き込んでいる。
 そして。
「高人さまぁぁぁぁぁぁぁっ。そんな娘とそんなこと!? ああっ、いけませんわっ。高
人様はわたくしと一緒になるべき方なのですっ。ああ、愛しいお方が手に入らないのなら、
いっそぶち殺してしまうべきでしょうか!? ああっ」
 真理がろくでもない事をいいながら、教室の中に乱入してきていた。
「うわっ、真理。お前まで来てたのか!?」
 高人は思わず叫ぶと、真理がにっこりと微笑みを漏らす。
「もちろんですとも。ありすさんが意識を取り戻したのも、わたくしの尽力あってこその
ものですから」
 真理は大声で主張すると、ありすの方をちらりと眺める。
「あー。うん。真理にはいろいろ世話になったかも」
 ありすはにこやかに笑いながら、それから高人を掴む。
 どこにそんな力があるのか、ぐっと高人を抱え上げると、真理の前に降ろす。
「うわっ。ありす、何を!?」
 高人が叫ぶのも気にせずに、ありすは真理の方へと向き直る。
「真理にはいろいろ世話になったから、たかくん、無料で貸してあげるよ」
「まぁ、ありがとうございますわ」

 真理が心底嬉しそうに頷いていた。
「勝手に貸すな! 俺はお前の所持品か!?」
 高人が叫ぶ。
「うんっ」
 ありすは思い切りマッハで頷いていた。
「違うわぁぁぁぁ!?」
 高人は大声で叫ばずにはいられなかった。
「オモチャ! オモチャ!」
 プランタンまでが、いつのまにか高人の頭上で騒いでいる。
「それも違うわっ!? この焼き鳥が!」
 高人はプランタンへと掴みかかるが、もちろん届きはしない。
「高人。だから鳥と同じレベルで張り合うな」
 梨花が笑っていた。
 玲央も笑っている。
 真理は嬉しそうに高人の手を掴んでいた。
 そしてありすも、高人を指さしながら笑っている。
 いつも通りのすっかり騒がしい時間を取り戻していた。
 だけどこれがもう変わらない毎日だった。
 そして、高人は疲れを感じながらも、どこかで安堵の息をついていた。
 
 
 
                                    了
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